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ノベル
ノベル
全体の表
 今まで書かせていただいたお話を表にしました。
――東京怪談――

幻影学園奇談
 ・放課後と幽霊

異界・そらまめ中学校〜野次馬部の人々〜
 ・蟹の行く方へ
  ・LOVEがあれば

異界・D.D
 ・白色の色紙:菫原
  ・黒色の色紙:マーダー・ゲーム

草間興信所
 ・影
 ・糧
 ・喰
 ・私は二回死ぬ(調査編)

ゴーストネット
 ・時を司るモノ
 ・不条理の森
 ・鏡に映るレクイエム
 ・秋とお茶会と惚れ薬
 ・かくれんぼ
 ・再生の雨

月間アトラス
 ・ミニマム・ミニムマ
 ・ドクソウ
 ・蛍の詩
 ・トケイ
 ・アトラス編集部の森

神聖都学園
 ・雨が止まない

誰もいない街
 ・たった一人の目撃者

シチュエーションノベル(シングル)
 ・柔らかな水
 ・交差する時間
 ・夢現
 ・静動
 ・未完成の刻
 ・花火
 ・理想郷
 ・SFXな猫(1)
 ・SFXな猫(2)
 ・SFXな猫(3)
 ・ゆらめき
 ・まなざし
 ・SFXなワイバーン
 ・SFXなワイバーン2
 ・SFXなワイバーン3
 ・温もりのもとで
 ・使命
 ・憧憬
 ・光
 ・破滅に至る病〜闇椿〜
 ・波が引くまで
 ・一枚の写真
 ・メリーゴーラウンド
 ・猫のうたたね
 ・こだわりの酒
 ・大掃除日記
 ・陽に願う
 ・学年末考査
 ・人魚の日
 ・海底幻影
 ・ホワイトデーに花束を
 ・時が流れる
 ・桜色の魔法
 ・天敵はシロアリ
 ・花の咲く壁に
 ・半人半馬
 ・ロツェラ
 ・月と蜜
 ・プレゼント・デート
 ・お馬さんになろう!
 ・子馬の生活
 ・小さないたずら
 ・研究の傍で
 ・音の降る夜に
 ・流れる
 ・生徒さんが笑ったから
 ・雨が降っていた
 ・残された余白
 ・少し優しくて、少しいじわる
 ・てのひら
 ・便利な能力
 ・穏やかな午後
 ・プールサイド
 ・ミニチュアの町と不思議な学校
 ・影を見る
 ・戻るまで
 ・今日だけの夢魔
 ・夢をみる
 ・羽が生えたら
 ・羽が生えたあと
 ・最後の舞台
 ・と ま ど い
 ・おっきく、おっきく
 ・夢をみるのは
 ・冬とトナカイ
 ・ANOTHER STORY―女と獣―
 ・ANOTHER STORY―イス―
 ・白い箱の中で
 ・ANOTHER STORY――無限――
 ・少女のレリーフ(前編)
 ・少女のレリーフ(後編)
 ・少女のレリーフ(番外編)
 ・濁り、混じる
 ・もう一人のあたし(少女のレリーフ・番外編2)
 ・りんどう
 ・寂しい果実
 ・寂しい果実2
 ・寂しい果実3〜いつかの「さよなら」〜
 ・カバは考えない
 ・気の弱いハーピーさん
 ・ちょっとだけ素直に
 ・IF
 ・ケリュケイオン
 ・花、ひらく
 ・花、ひらいた後に
 ・初夏の擬態
 ・風船モグラ
 ・曖昧モグラ
 ・冥府の番犬
 ・いつだって全速力
 ・羽は芽吹く
 ・ホットミルク
 ・繭
 ・ループ
 ・混じり合う水
 ・予報通りに雨は降る
 ・ロン青年とタマス氏
 ・クチクラの洞窟
 ・魔剣の少女
 ・魔剣の少女は夢を見ない
 ・おかしな絵本
 ・魔剣の少女は考える
 ・仮想世界を走り抜けて
 ・アルラウネ
 ・吸血鬼を捕縛せよ
 ・金の精
 ・石英の少女
 ・血玉石と嗤う牙
 ・仰せのままに
 ・解放の呪い
 ・石像、ねだる
 ・人形少女は湖底を歩く
 ・眷属の宴
 ・ヒトのモト
 ・秘密の蛍
 ・狩って刈って勝って!(+おまけノベル)
 ・メイキングビデオ(+おまけノベル)
 ・花と獣(+おまけノベル)
 ・花と獣2(+おまけノベル)
 ・秘密の願い(+おまけノベル)
 ・夜の散歩(+おまけノベル)


シチュエーションノベル(ツイン)
 ・帰る場所、帰る想い
 ・かけがえのない日々
 ・狐ちゃんと熊さん
 ・悪戯と戸惑いと
 ・きっと間違いない
 ・平日のアルバム
 ・お馬さんで過ごそう!
 ・揃わない家族
 ・春に吹く風
 ・一頭の犬をさがして
 ・手を繋いで
 ・消された記憶
 ・ジッとしていて
 ・選択授業
 ・立ち止まったまま
 ・一緒の時間
 ・お姉さまと冥府の番犬
 ・冥府の番犬とラクスさん
 ・惑わしの花びら
 ・今日だけは飼い主

シチュエーションノベル(グループ3)
 ・旅行にいきましょう
 ・クリスマスパーティー
 ・果実の夢
 ・ハプニング


――アナザーレポート――

シチュエーションノベル(シングル)
 ・荊の羽
 ・櫻舞

全体の表 >
花、ひらいた後に
 『花、ひらく』の続きになるお話です。
 植物化ということで、前回出来なかったことを盛り込んでみました。
 ――あたしは花ひらいた。
 こんな風に言えば、それを聞いた人たちはきっとこう考えるだろう。「何かの成功をおさめたという比喩であろう」と。
 だけどその想像は間違っている。比喩としてじゃなく、言葉のまま、あたしは花を咲かせたのだから。


 植物化したあたしの欲望は、日暮れと共にますます膨らんでいった。
 光を欲しているのではない。光は日中窓から吸収したし、今浴びている浴室の人工的な光なんて無い方がマシなくらいだ。
 それよりも、あたしは貯め込んだエネルギーを放出したかった。
(取りこんだら、出す)
 それは植物としてスムーズな流れだった。日中に光や水を取り込んだというのに、夜に呼吸もせず生長もしない植物なんて不自然に思えた。
 浴槽では、大きさの問題で、これ以上あたしが生長するのは無理そうだった。あたしは根同士をまるで毛玉のように絡めて大人しくしているのに、新たに根を伸ばそうとすると浴槽がギシギシと音を立ててしまうのだ。

(これ以上は……浴槽が割れちゃう……)
(もう生長しちゃだめ……)

 何度も自分に言い聞かせたけど……、無駄だった。
 根を伸ばし、取りこんだ光と水の味を思い出しながら茎を太くし、あたしは自分自身を膨らませていく。その本能に抗う理由が、浴槽を傷つけるからだなんて。

(浴槽がだめなら、庭に出ればいい)
(この時間なら人も通らない。暗闇の中では、あたしはただの大きな植物にしか見えないもの……何の問題もない……)
(庭に出れば、土に触れられる。土に根を差し込んで、土の匂いを嗅いで、土についた水を舐め取っていくことも出来る……)
 
 心の声は、天使の囁きか、それとも悪魔のものなのか。
 いずれにしても、あたしは心の声に従って、外に出ることにした。

 シュル、シュル、シュル、シュル……。
 絡めていた根を器用に解いてから、その根を一本ずつ浴槽から出した。
 今のあたしには、人間とは違って眼というものがない。いつの間にかなくなっていて、それをごく自然なものとしてあたしは受け止めていた。眼を探す代わりに、植物の本能に頼り、ここだろうというところに根を這わしていたのだ。眼がなくとも、あたしには見えている。有りもしない耳や口と同じこと。不便とは感じなかった。
 ……ズルッ。
 緑色の茎を起こし、あたしは倒れこむようにして浴槽から落ちた。根と茎を上手に使って、庭へと移動する。少しずつ這う毎にビチャビチャと水音がする。根が乾き切らないように、茎と葉で移動するときもあった。

 土は柔らかく、果実のように瑞々しかった!
 気がはやったあたしは、転がるように庭のベストポジションを探した。ベストポジションとは、万が一よその人が通りかかっても見えない場所である。人に見られてしまうことを怯えながら生長するのは嫌だったからだ。
(土から甘い匂いがする……ここが良いな)
 場所を決めると、あたしは一呼吸置いた。それから味わうように、ゆっくりと根を地中へと差し込んだ。
 湿り気を帯びた土は優しくあたしを迎え入れてくれた。根から生えている茶色い毛をひんやりと包み込んでくれたのだ。甘い香りにくすぐられて、あたしは喜びから茎をよじった。
(この甘い香りは何なのかな……?)
 下半身をゆっくりと地中にもぐらせながら、あたしはこの蠱惑的な香りを探っていた。
 ――そして驚いた。根が匂いの元を突き止める前に、感覚で「この香りの正体は、植物の栄養剤である」と理解したことに。

(何故わかったの?)
 自分自身に問いかけて、考えてみる。
 眼もないのに見え、鼻もないのに匂い……眼の前にないもののことまで感じ取れている。根を通して触れている土ですら、自分の身体のようだ。
 つまりは、認識出来る領域が広くなっているということ。あたしの身体ではないところからも、自分や周りを認識して感覚を共有出来ている……?

(なら、意識を完全に外に置くことも可能なはず……)
 意識と肉体との分離。けれども両者の感覚を共有している状態。
 もしもそれが出来たなら、もっと愉しくなるだろう。
 ――想像してみる。
 あたしの身体から、ケリュケイオンの一部が霧状になって、周りへ散ることを。
 その霧の中にあたしの意識を込めて、紅茶に溶ける砂糖のように、揺らぎながら大気や土に混じっていく様子を――。

 意識を外に置いたあたしは、先ほどよりも強く根を土に張った。外側から力をコントロールするのなら、身体の方は植物の本能に従えば良い。快楽を享受出来るのだ。
 腰をさらに深く地中に落とすと、あたしはじっくりと呼吸をし始める。
 メキ、メキ、メキ、メキ……。
 茎をますます太くし、閉じかけた葉を揺らし、拡大させていく。

 ――栄養剤はまるで水密桃のよう。瑞々しく柔らかな甘みがあって、歓びをもたらしてくれる。
 土から根に伝わっていたこの甘美な味を、もっと味わいたい。
 あたしは我慢しきれなくなって、トロトロと蕩けている緑色の栄養剤に根を突っ込んだ。
 根から生える細い毛の一本一本、その全てがあたしの舌だ。舌の上から、横から、先から、土と混じり合った水密桃を味わっている。
『美味しい! 美味しい!』
 あたしは思わず身悶えた。葉を震わせ、太さゆえに殆ど揺れなくなった茎をひん曲げ、根を激しく動かした。胸の高鳴りを抑えきれないのだ。
 今、夜の帳の中であたしは生長していくのだ。

 だと言うのに、周囲に混ぜたあたしの意識は、冷静に働いていた。
 本能に意識まで飲み込まれないよう、また巨大化しすぎて問題が起きないよう、自分の能力を制限していた。
 ――それはギリギリのところにある。
 心も植物化しないよう、けれども本能の愉しみを奪ってしまわないよう、あたしは細い平均台の上でバランスを取っている。グラグラと、どちらへも転ぶ可能性のある状態で、あたしはその状況すら――……。

『ぁあ……あぁぁ』
 暗闇の中、あたしは一人、無音の声をもらす。
 あたしの身体の一部は風船のようにひどく膨らみ、震えていた。
(種が、種が……出る……)
 葉で刺激してやれば、あたしの膨らみからは種が飛び出るだろう。あたしは増殖するのだ。
 だけど、あたしの意識がそれをさせないでいた。増えてしまっては、大きくなりすぎてしまうだろうから。
 ――種を飛ばす代わりに、あたしはクスクスと笑った。本能と意識がそれぞれ別々のところから出て、混じり、ギリギリのところで保たれている。あたしはその状態すら、愉しみとして享受しているのだ。


 ――この日、泥酔いした一人の男が、奇妙な影を見たという。
 それは愉しそうに揺れる異形のものであったが、次の瞬間にはありふれた植物の影であったそうだ。



 終。
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初夏の擬態
 実は擬態していたPCさん。
 あのアイテムは重かったのですね(笑)。

 感想としては……、展開の仕方が難しかったお話です。擬態のことをPCさんは元々知っていたかもしれないのですが、お話として出てくるのは(私の記憶では)初めてのことでしたので、「PCさんも知らなかった」という前提でお話を進めてしまいました。もっと上手く膨らませたかったのですが……。
 それにしても、中学生の女の子はどうしてあんなにくっつくんでしょう。って、大抵は中学生どころか、高校生になってもくっつきますね(笑)。
「……………………」
 バスタオル一枚のまま、あたしは沈黙した。
 今、お風呂からあがったばかり。これから服を着て、歯磨きをして、髪をドライヤーで乾かして……――と考えているあたしの視界に、体重計が入った。そう言えば最近体重計に乗っていなかったなあ、なんてぼんやり思い出しつつ、ポンと体重計に乗ってみて。
 ……沈黙した。
 体重計には親しみのない、いつもより大きな数字が表示されていたのだ。
(…………体重計、壊れたのかな?)
 そう思って、一度体重計から降りて調べてみたけど、何の故障も見られない。
 ということは、原因はあたしにあることになる。急激に太ったのだ。
(でも、いくらあたしが育ちざかりの年齢だからって、この体重はいくら何でも……)
 あたしには、太る原因すら思いつかないのだ。甘いものは好きだけど、そればっかり摂っている訳じゃないもの。ご飯だって人並みくらいしか食べていない。それにあたしは普通の人間より運動量が多い筈だ。この前だって、人魚検定を受けて相当な運動を――。
 と、ここまで考えて、閃いた。
 原因は「あたしが人魚だから」かもしれない。あたしは人間じゃないんだから、人間の体重とは基準が違っていてもおかしくない。
 確かめなくっちゃ!
 あたしは急いでパジャマを着て、居間にいるお母さんに訊くことにした。

「お母さん、人魚の方が人間より重いのかな?」
 お仕事から帰ってきたばかりのお母さんは、びっくりした顔をしてあたしを見た。人魚の方が重いなんて、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことだと言わんばかりに。
「……知らなかったの?」
「……うん」
 居間には家族しかいないのに、何故か小声で会話するあたしたち。
 数秒後にお母さんは笑った。
「そのことを聞くために急いで出てきたのね? 真剣な顔して。髪、乾かさないと風邪引いちゃうわよ」

 お母さんの話によると、人魚は水圧に耐えなければいけないし、人間から人魚になるためにたくさんのエネルギーを蓄えていなければならないし、能力のこともあるのだから、どうしても人間より重くなってしまうらしい。
 今まで問題なかったのは、あたしが“擬態”しているからだそうだ。周りのみんな、つまり人間を見て、無意識に感じている“普通の人間”と同じになるよう、体重をも調節している……らしい。
 ところが、この体重調節には“生きている服”と“ケリュケイオン”が勘定に入っていない。この二つは、意外と重いみたい。だからややこしいことになっている。
 お母さんの話を総合すると、体重を戻すためには(というか、体重を人間の平均の数値にするためには)、この二つのアイテムとあたしの身体を一体化させる必要があるみたいだ。毎日クラスメートやら、通りすがりの人やらを無意識にでも観察しながら、ゆっくり一体化の練習をすればいいよってお母さんは言うんだけど、そうはいかない。
 あたしはすごく焦っていた。
 ……だって、明日なんだもん。身体測定。


 楽しいときも嫌なときも、平等に時間は過ぎて行くもので、とうとう身体測定の時間が来てしまった。中止にならないかな、なんて心の隅でちょっぴり思っちゃったけど、遠足と違って雨天中止にもならない。
(一体化、一体化……ぅう……)
 呪文のように頭の中で繰り返しながら、体操着に着替えた。体育館では先生たちがあれこれと忙しそうに測定していて、生徒たちははしゃいでいる。測定するだけと言っても勉強するよりずっと楽しいし、身長がどれくらい伸びたとか、太ったとか痩せたとか、盛り上がれる要素は結構あるからだ。
 身体測定は自分の好きな人たちと、好きな順番で回ることが出来る。あたしは友達と気楽に測定する風を装って、全神経を集中させていた。
 ――前日に立てた「計画」は、こう。
 まず、なるべく友達と話をして、なるべく測定の順番を後回しにする。測定の順番が来ても、友達に先を譲る。そうやってかき集めた僅かな時間で、みんなを観察しつつ、体内にしまっているアイテムとの一体化を図る。これでバッチリ。
 ……その筈なんだけど、友達との話と並行してやるというのが、結構難しい。うわの空では友達に失礼だし、かと言って会話に集中しすぎてもいけないのだ。

「……それでね……そしたら先生が…………って……」
 視力検査の後、適度に相槌を打ちながら、あたしはゆっくりと深呼吸する。
 “生きている服”も“ケリュケイオン”も、あたしの体内に溶けて混じり合うように。ひたひたと、乾いた身体に水が染み込むように自然と馴染むようにして。……何だかお腹がグルグルしてきそう。
 友達の後に続いて、身長を測ってもらった。
 あたしは友達より少しだけ背が高い。でも中学一年生の範疇に収まるものだから、これは大丈夫。
 書き込んでもらった身長を見せ合いっこしながら、今度は座高。これも平気。友達の一人は身長に比べて座高が高くて落ち込んでいた。そんなの気にならないよ、と別の友達とあたしが励ます。だって見た目では本当にわからないもの。

 ――あたしの体内では何がどうなっているんだろう。
 一体化出来ているのかどうか、いまいち自信がわかない。体重計に乗ってみなければ確認しようがないので、余計に不安になってくるのだ。
(何か他に出来ることないかなあ)
 悩んでいるあたしに、友達が抱きついて来る。女の子同士の遊びだ。
「みなもっ。ぎゅ〜っ」
「ぎゅ」
 あたしも友達とくっつきながら、ふと思った。
(一般的な体重を視覚以外の感覚で掴めば、体重の制御もしやすいかな? 一体化にも役立つかもしれないし……)
「ぎゅ〜」
 あたしはじゃれついてくる友達を抱きしめながら、そっと持ち上げてみた。友達の足が微かに浮く程度だけ。これでも重さがわかる。男の子よりも女の子の方が重いっていうけど、確かに大きさに比べるとずっしりとしている。
 別の友達も同じようにして抱き上げてみた。腕や胸に抱え込むと、筋肉や肉の柔らかな部分の質感もダイレクトに伝わってくる。あたしのような人魚よりも、人間の筋肉が少ないのは判っていたけど、感覚で理解したことはなかった。新鮮な驚きだ。
(この筋肉の感覚……)
 ここに“生きている服”や“ケリュケイオン”が溶け込んでいる。その姿が理想なのだ。

「次の人、どうぞ」
 にっこり微笑んでいる先生の前で体重計に乗るのは、少し恥ずかしい気がした。躊躇したくなってくる。
 だからあたしは身体測定票を先生に渡すと、呼吸する間も置かず、体重計に乗った。
 カコン、カラカラ。
 アナログの体重計が音を立てた。どっちつかずな、曖昧に動く針。
 一瞬、針が大きい数字の方に向かった気がして、心臓が冷えていく感じがした。でも次の瞬間には、針は小さい数字の方に動いていった。
(心臓が飛び出しちゃいそう……)
 数字を見続ける勇気がなくて、先生の顔をじっと見つめるあたし。
 一方、体重計を注視している先生。
 数秒経って、先生は身体測定票をあたしに返しながら言った。
「海原さんはちょっと細いかな? 成長期なんだから、いっぱいご飯食べてね」
「はい」
 あたしは笑顔で答えた。助かった!

「あ。みなも、にやにやしてる〜!」
「ほんとだ。みなもちゃん嬉しそぉ〜」
 いけない、いけない。歓びを顔に出していたら、変に思われちゃう。みんなは事情を知らないんだから。
「だめだめ。今更隠したって、にやにやしてたの見ちゃったんだから〜」
「ね〜。みなもちゃんったら何だかえっち?」
「え?」
 聞き返したあたしのほっぺを、友達がつついた。もう一人の友達が、聴診器を当てるお医者さんを真似て、あたしの胸をつついた。
「次は教室に行って、内科検診ですー」
「ぁ……あー、忘れてた!」
「何で忘れてるの、一番嫌なトコロだよー」
 体育館から出るところで、あたしたちの笑い声が弾けた。



 終。

全体の表 >
風船モグラ
 PCさんが謎の怪人にされるお話です。
 ……なのですが、他の要素もたくさん盛り込ませていただきました。それが悪い方に向かっていないと良いのですが……。
 最後の言葉はカタカナを入れても余韻があって良かったかな、と思っています。不穏な感じで、心地良いのではないかと。
 
 ――今日は元々平凡な日だった。朝食を作って家族を起こし、自分も身支度をして学校に出かける。制服が夏服に変わっても暑いのは変わりなくって、心の中で五時間目のプール授業が来るのを指折り数えている。
 けれども、“非日常”という生き物はどこにでも顔を出すもので、気まぐれを起こしてはあたしから日常を奪って行ってしまうものなのだ。こんな日はとても疲れてしまう……。


「みなもちゃん」
「はい?」
 下校途中、後ろから声をかけられて振りかえると、生徒さんが立っていた。
「偶然ねー。こんなところで会うなんて、驚いたでしょう?」
「はい。ちょっと……」
 あたしは曖昧に微笑んだ。生徒さんの言う通り、内心驚いていた。あたしの住む町と生徒さんたちの通う専門学校のある場所は駅が違うから、今まで学校の行き帰りに生徒さんに会ったことはなかったのだ。
(偶然を装っているけど、あたしに用があるんじゃ……)
(あ、あたし、何かされるのかも……!)
 過去に色々な出来ごとがあったせいか、やや捻くれた想像をしてしまう。でも生徒さんの手元を見て、それはあたしの勘違いだと悟った。生徒さんの手には地図と飲みかけのペットボトルが握られていて、どこか目的地があるみたいだった。
「ああ、これ?」
 生徒さんはあたしの視線に気付いて、地図をヒラヒラさせた。
「アパートを変えようと思ってね。この辺りだと学校からも近いし、便利かなあって。ネットで調べて、さっき幾つか回ってきたとこなの」
「お引っ越し……、そっかあ、そうだったんですねっ」
「あはは、みなもちゃん、安堵しきった言い方ね〜」
「い、いえ、そんな……訳じゃあ……」
 言葉を濁して笑うあたし。
 あたしは自分で思っているよりも考えていることが顔に出るタイプなのかもしれない。いつも不敵な笑みを浮かべている生徒さんには敵いそうにないのだ。
「私への疑いも晴れたところで、ちょっと休んでいかない? 向こうの通りを過ぎたところのカフェ、タルトが美味しいらしいの」
 そのお店のことも調べて来ちゃったの、と恥ずかしそうに言う生徒さん。意外と甘いものが好きなのかな?
 学校帰りに寄り道をするのってあんまり良くないことだけど、生徒さんを疑ってしまって申し訳ない気持ちもあったし、あたしも甘いものは好きだから、ご一緒することにした。

 生徒さんの言うカフェは、あたしの来たことのないお店だった。大通りを外れて行って、寂れたアンティークショップの上にあるお店だったから、普段大通りを通っていても気付かなくて仕方ないと思う。
 よく女性は地図を読むのが苦手だと言うけど、生徒さんはむしろ逆で、小さな地図を見ながら一度も迷わずに目的地に着くことが出来た。あたしが目を丸くしていると、生徒さんは「特技なの」と答えてくれた。
 インターネット上で評判になっているお店だと待たされるかもしれないと思っていたけど、夕方よりも手前という時間帯のお陰か店内は空いていた。
 あたしと生徒さんは窓際から最も遠い一番奥の席に向かい合って座った。透明なガラステーブルと、クリーム色の二人掛けのソファーが二つ。
 メニューを見ながら二人であれこれと話して、結局オーソドックスに苺のタルトとスイカのタルトを頼んで半分こすることにした。飲み物は甘くない方が良いと思って、アイスティーのストレートを頼んだ。
「学校終わるの随分早かったのね。いつもこのくらい?」
「はい、金曜日は遅いんですけど……」
「ね、ね、最後の授業何だったか当ててみようか。プールでしょう?」
 こくり、とあたしが頷くと生徒さんは得意げに言った。
「当たった〜! 私ってみなもちゃんの考えていることが読めちゃうのよね。みなもちゃん限定エスパーなの」
「もぉ、あたしにだって分かります、まだ髪が濡れているからでしょう?」
「あはは、みなもちゃん、唇の先が尖ってるわよ」
「……ぅ」
「ほっぺも少し膨らんでる。悔しかったと見た!」
「い、いえ。違います……よ……」
 生徒さんの視線とあたしの視線が重なる。あたしの表情を観察している生徒さんの視線が熱っぽく思えて、あたしは反射的に視線をそらした。
 ――数秒の沈黙。
 そう言えば、こういう時間を外国では天使が通ったって言うんだっけ。凄く古典的な表現だけど……。
 ええと、そうじゃなくて、ほら、生徒さんに何を言えば良いんだろう。会話を繋げていなきゃだめなのに。俯いてばかりじゃあ、生徒さんに嫌な印象を与えるじゃない……。
 ――ギシ。
「みなもちゃん知ってる?」
「…………!!」
 声が横から聞こえたので顔を上げる。と、左隣に生徒さんが座っていた!
(な、何で急に! 横に!)
 あたしは心臓が飛び出しそうになるのを何とか堪えて、上ずった声で返した。いえ、あたし、なにも、しりません。
「じゃあ教えちゃう。人って向かい合っていると警戒しちゃうらしいの。特に先生と生徒とか、遠慮する間柄ではね……」
「そ、そうなん、ですか?」
「そういうときはね、隣り合って座ると良いんですって」
 生徒さんの指があたしの髪に触れる。くるくる、くるくると、あたしの髪が生徒さんの指にまきとられていく。
 生徒さんの顔はあたしのすぐ下にあった。片手をソファーについて、前かがみの姿勢で。その上目遣いの瞳があたしの身体を捉えている……。だからあたしは身じろぐことも出来なかった。
「ああ、やっぱり髪が濡れてる。プールなんて、懐かしいな……。塩素って、どんな匂いだったかしら……」
 下にあった顔が離れたと思ったら、あたしは生徒さんに抱き寄せられた。生徒さんの顔があたしの耳に触れ、生徒さんの胸があたしの肩に当たって、あたしは思わず目を瞑った。視界を開けたままにしておいたら、余計に鼓動が速くなってしまいそうだった。
「……ああ、この匂いだった。懐かしい……。みなもちゃん、もう目を開けていいのよ?」
 ――すぐ傍に、にこやかな笑みを浮かべる生徒さんがいた。
「みなもちゃんの考えていることって、読めちゃうのよね?」
 その言葉だけではあたしを赤面させる内容なのに、その言い方は風船みたいに軽やかで、あたしを安心させる響きを持っていた。あたしのちっぽけな抵抗心など奪い去ってしまうのだ。
「ほら、アイスティーが来たわよ。一緒に飲みましょう?」
「……はい」
 その答えしか用意されていないようにあたしは頷いた。実際、断る理由はどこにもなかった。

 気分がすぐれない、と気付いたのはそれから二十分程経ってからだろうか。
 頭の中に霧がかかってきて、生徒さんとの会話も上手く行かなくなっていた。店内には冷房がかかっているにも関わらず、暑くて仕方がない。けれども汗は出なくて、皮膚の内側が火照っている感じがした。
 生徒さんは甲斐甲斐しくあたしを世話してくれた。あたしの靴を脱がせてソファーに寝かせ、膝枕をしてくれた。おしぼりをおでこの上に乗せてくれたし、出来るだけ胸に負担がかからないように気持ちだけでも、と言って制服のリボンを緩めてくれた。
「ごめんなさい……」
「そんなこと気にしないで。みなもちゃん、どんな感じがするの?」
「なん……だか、変な……感じなんです……。ぼんやりして……暑い……熱い……。それに何だか…………」
「眠い?」
「…………はい……」
 目を開けている筈なのに、生徒さんの顔がぼやけてきた。
 ずっと遠くから、生徒さんの声が耳に届く。それなら眠った方がいいわ、身体を楽にして、ゆっくりと休んだ方が良いの……。


 ――あたしは知らない家の庭にいた。庭の門より奥は空白になっているから、これは夢なんだと思う。
 あたしは風船少女になっていた。
 ここの庭には生徒さんの声で溢れている。あの軽やかな声をあたしは美味しそうに食べていて、その度にあたしの身体は膨らんで、少しずつ浮いていくのだった。
 身体が地面から三十センチ程浮いてしまうと、あたしは生徒さんに空気を抜いてもらう。
 生徒さんは空気を抜くのが上手だった。小さなアイスを食べるときに使うプラスチックの楊枝で、プチプチとあたしの身体に穴を空ける。あたしはくすぐったくて身体をよじってクスクス笑いながら、ふんわりと地面に着地する。空けてもらった穴はすぐにまた塞がって、膨らみ始める……。
 あるとき、あたしは生徒さんに訊ねてみた。
「このまま膨らんでいったら、どうなるんでしょう?」
 これはあたしにとって一番の関心ごとだった。あたしの身体が膨らみ過ぎてしまって、生徒さんが脚立を使ってもあたしに届かなくなってしまったら? あたしはあの空白の場所さえも超えて、どこに行くんだろう? 海を越えたり、山を通り過ぎたり、ふわふわふわと空へ向かって行くのだろうか。
「だめよ。もしもそんなことがあったなら、恐ろしいことになるのだから……」
 そう言って、生徒さんは「こわい、こわい」と首を横に振った。もしもあたしがどうしようもなく膨らみ過ぎてしまったら、もう破裂して“しんでしまう”そうなのだ。
 自分が何者かもわからなくなるくらいにバラバラになってしまうのだから、と生徒さんは言う。あたしは自分が得体の知れない残骸になることを想像して、身の毛のよだつ思いがした――、


 まどろみからさめてみると、あたしは悲鳴を上げずにはいられなかった。
 見たこともない真っ白な天井とライトがあった。身体を起こそうとしても動くことが出来ない。自由の利かない首を使って辺りを見渡すと、自分の状況が分かってきた。逃げられない筈だ、手足は拘束され、あたしは手術台の上に寝かされていたのだから!
「イヤ! 何でこんなこと……帰して! 家に帰して下さい!」
 あたしが叫んでいると、ベタベタと湿気を帯びた音を立てて、白衣を着た数人の男が現れた。
 いや、これは――人間なんだろうか? 顔にはマスク、身体はすっぽりと白衣で覆われているが、マスク越しに動いている口が人間のものとは思えなかった。口と言うより、土を掘って出来た穴と表現した方が正しいものだった。
「オヤオヤ、こちラ、混乱されておるよウですな」
「そうかイ。でハ、懇切丁寧に説明せネばならなイね」
「世話の焼けル娘ダよ」
 唾液が多いのか粘っこい話し方だと思っていると、男の一人がグッと顔を近づけてきた。
「こノ顔に、見覚えはないカね?」
 あたしの視界一杯に得体の知れない者の顔が広がっていた。研ぎ澄まされた神経が一本全身に通っているようで、頭から足の指先まで震えていた。目をそらしたい、見たくない。だけど目をそらす勇気も、ましてや目を閉じる気力も残ってはいなかった。
「ホう、ホう。見覚えガ、ナイとおっしャる」
「こりゃア、イケマセンなア。私たちはヨオク知っていルというのに、海原みなもチャン」
「え……どうして……?」
「知っているトも。キミを取って喰おうっテ訳じゃアないンだよ」
 男の一人が身を乗り出して、あたしの髪を触った。男の顔があたしの額をかすめたのに、あたしはさっきのような恐怖を感じなかった。正確に言えば、ゾッとした中に不思議な穏やかさがあった。それはあたしの肌に馴染む恐怖だった。
「我々はあル組織ナんだ。地中に世界を築くンダよ」
「そこ二キミが欲しいんダ、みなも……」
「あたしが……欲しい……?」
「そウ……いいダロ?」
 男の言葉が終わらないうちに、あたしは麻酔薬を嗅がされていた。
 体中の毛が逆立つ感じと、妙な懐かしさ……。相反する気持ちが絡み合って、あたしは眠りに落ちて行く――。


「生徒さん、生徒さん」
 あたしがいくら呼んでも返事がない。あたしは焦って来ていた。どうして突然生徒さんはいなくなってしまったんだろう。いつもの庭で遊んでいるだけなのに。生徒さんの声はするのに……。
「生徒さん、あたし、膨らんじゃうんです」
 ふわふわと宙に浮いていく身体でもがきながら、あたしは叫んでいた。
「このままじゃあ、どんどん、浮いちゃう……」
 食べまいと思っても、生徒さんの声は甘い響きを伴ってあたしの口の中へ滑り込んでくる。それが喉を通って、あたしの胸やお腹や……腕すらも、膨らませていく。
「浮いちゃう、浮いちゃう、生徒さん…………」
 人影のない場所で、あたしはあがき続ける。
「割れちゃう、割れちゃうの……生徒さん……」
 一人で膨らみ続けるのは、とても恐ろしい。
 何でも良いから、姿を見せて。あたしの空気を抜いて。誰か、あたしの傍に……。


「おハよう、みなも」
「みなも、目ガ覚めたンだネ」
「仲良くしヨう、みなも」
「オオ、みなも……待っテいタよ……」
 むくり、とあたしは起き上った。
 視界はひどくボヤけていた。目を凝らしてみても、すぐ近くのモノしか見えないし、それに湾曲している。
 足を床につけると、ベタ、という湿った音がした。一歩足を踏み出すと鉤爪が床と擦れて不愉快な音を立てた。歩くのにコツがあるのだろう。今までどう歩いて来たんだっけ――。
「みなも……ドウだイ、感触は」
「…………?」
 何を言っているんだろう。まるであたしが初めて歩くみたいなことを言うなんて。あたしは前から……。
 前から――、何だった?
「ャ、イやあああアあ。こんナの、あたしじゃナい……」
 口から放たれたのは、イントネーションのおかしな言葉だった。口が前のあたしの姿より広がっていて、始終唾液が舌先にまで流れ込んで来ていた。喋ろうとしても唾液が波打って、言葉というものは海中のタコみたいにウニョウニョと蠢いて捕まえられなかった。
「ャめテ。あタし、どうシたノ……」
 あたしは逃げようとしたけど、鉤爪を床に滑らせて転倒した。
 ゴロゴロゴロゴロ……。枝から切り離された蓑虫のように無様に床を転がっていく。けれどもちっとも痛くない。
 ツルツル滑る床をやっとの思いで起き上って、腕を目一杯目に近付けて眺めてみると、腕は黒い剛毛で覆われていた。もしや、とお腹や足に触れてみると、やはり同じ毛に覆われていてチクチクする。
「イイからダだろウ? クッション代わりト言ウ訳さ」
「いャア……」
「僕タちはキミの仲間だヨ。嫌なモノか。すぐに良くナる、スグニ……」
「さア、みなも。コチラヘおいデ。まズはテストだ」
 あたしの薄暗い視界でも分かる。眼の前にいる“生き物”たちはモグラのカタチをした怪人なのだ。人のように大きく、モグラのような姿をしていて、歩くときは二本足だけども、人間のように器用には歩けない。鉤爪をひっかけないように、ひょこひょこと進み、それでもバランスを崩しそうなときには四本足になるのだ。
 鼻は人間のものとは違い、ネズミのようにグッと突き出ていて、時折ヒクヒクと動く。いいや、動くと言うよりは、鼻だけが別の生き物のように、蠢いていると言った方が適切だ。ブタのようでもある。
 ――気味の悪い、ゾッとする生き物。
 彼らはあたしのことを仲間だと言う。
 でもそんな筈はない。あたしは確かに人間だったんだから……。
「ココだ、ココヲ、掘っテごらン」
 手術室――いや、怪人のアジト――の端には、土で覆われた一角があった。ここをあたしの指で掘れと言うのだ。
 あたしの手でなんて、無理な話だった。そんなことをしたら爪が折れてしまう――……。
 ところが、あたしは自分の手を見て、泣き叫びたくなった。あたしの手は足と同じく、いや足よりも鋭く大きな鉤爪がついているのだった!
「嘘、ウソ、ウソ!」
「イイャ、キミは知っていた筈ダよ。自分の手はこンナに美シい鉤爪があルってネ」
「さア、掘りなサい。今に気持チが良くなルよ……」
 溢れかえる唾液を呑み込みながら、あたしは嫌々土に爪を立てた。
 ――土は柔らかく落ちて行った。瞬間、あたしの鼻はヒクヒクと蠢いて、甘美な匂いを嗅ぎつけた。
 あたしは両手でその素晴らしい匂いに出会うべく、土を掘り出した。本能がそうさせるのか、腕を勢い良く上下し、隣に土をこんもりと盛って、やがて出会ったのはミミズの塊だった。
「ウ…………いャアア、ミミズ!!」
「何ヲ言っているんダ、自分で掘ってオイて」
 怪人の方が正論だった。あたしは自分ノ意思でミミズを探し当てたのだから。
「まアまア、イイさ。ここはミミズの貯蔵庫なンダ。御馳走とイう訳だヨ。さア、土を戻して…………そウそウ、これでヨシ。デ、皆はどウ思うかネ?」
 仲間の一人ハそう言ってぐルりと他のメンバーを見渡した。
「合格ダと思ウ。能力は申シ分ナイね」
「僕も同意見ダ」
「ちょっト怖がリな所があるけド、オイオイ慣れテもらオウかね」
「ウン。みなも、こレでキミは僕たチの正式な仲間になっタヨ」
 仲間たチの口の端がニイイと広ガる。あたシも安堵シて、一緒に微笑ンだ。実際の所、もう仲間ダと言うツもりでいたケど、テストと言うもノは緊張するのだ。

「サア、祝杯ダ!」
「祝杯ダ! 祝杯ダ!」
「祝杯ダ!」
 仲間たチは身体を倒してゴロゴロと転ガりながラ、あたしのコトを祝っテくれた。
「カンパイ!」
「我が結社二素晴らしイ未来のアることを!」
 深い容器二なみなみとオレンジ色の液体ヲ注ぎ込み、あタしたちハ四つ這いになってそレを飲んだ。ピチャピチャと舌を浸ケると、ほロ苦い味が唾液ト共に口一杯に広がル。こレはストレート・アイスティーだ。
 ――………………あれ?
 違和感があたしノ意識を突き抜けた。これを以前にモ飲んだことがある。ごく最近の話だ。あれは確か、生徒さんと行ったカフェで――。
 頭の中で鈍い音がした。意識が半分明瞭になり、半分は前よりずっとぼやけている。四つ這いの姿勢をやめ、背を正すと、怪人の一人が愛しむようにあたしのことを見つめていた。
「流されちゃいそうになっていたでしょう?」
 とその怪人は言った。
「みなもちゃんの考えていること、読めちゃうんだから」
 その一言が、あたしの意識と身体をプツンと切断した。怒るとか嘆くとか、そんな気持ちにすらならなかった。

 つまりこれは生徒さんたちのちょっとした悪戯。「いかに特殊メイクとバレずにメイクを行うか。そしてそのメイクが被験者に気付かれないかどうか」という、ちょっとした実験。それがいつの間にかスポンサーがついて、こんな大がかりな話になったらしい。世の中には妙なことに情熱を燃やすスポンサーがいるものだと実感する。
 生徒さんは多分、いくらか気を使ってくれていたんだろう。思い出してみれば、怯えるあたしを落ち着かせようとしてくれていた。今も頭が床に付く勢いで謝ってくれている。
 だけど、あたしの意識は遠いところにあった。だって一度に色んな感情を味わい過ぎてしまって、緊張し続けだったんだから。糸が切れてしまったのだ。
 とにかく、メイクを落として、家に帰らなければいけないんだけど……、気力が足りない。
 非日常という生き物は、勝手にやって来て日常を奪って行くけど、去って行くときも呆気ない。
 こんな日は、本当に疲れてしまう……。



終。
全体の表 >
曖昧モグラ
『風船モグラ』の続きにあたるお話です。
 モグラ怪人の日常を書かせていただきました。何だか愉しそうです(笑)。傍から考えれば恐ろしくもあるのでしょうが。
 そういえば、PCさんに生徒が何かされるのってこれが初めてかもしれません。
 モグラ怪人――もとい、生徒さんたちから事の種明かしをされてから、一週間が過ぎた。あたしは怒る気力もないほど疲れていたけれど、日が経つにつれて元気を取り戻してきた。あれだけ恐ろしく感じた光景も、遠いおとぎ話のように感じるようにもなっていた。
 事情は分かるけれど、やっぱり事前に教えて欲しかった――と生徒さんたちに前置きした上で、改めて“モグラ怪人”のメイク依頼を受けることにした。メイクだと分かっている以上、あのときのように怯えることもないし、今や非日常的になったあのおとぎ話に興味も出てきていたからだ。
 依頼は翌日である平日に行われることになった。うちの中学校ではアルバイト先の証明書さえあれば「総合学習」扱いになって、夏休みの補習と引き換えに休むことが出来る。どうやら、あたしが依頼を受けることを伝えてすぐに、生徒さんは書類を学校に提出してきたらしい。善は急げって言うものね、とは生徒さんの言葉だ。
 ……その行動力を分けて欲しいです、とあたしは笑った。

 ギラギラと照りつけてくる日差しに眩暈を感じながら駅を出ると、生徒さんが迎えに来てくれていた。
「……あのときは、ごめんね」
「そんな……もう、いいんです」
 生徒さんたちの申し訳なさそうな顔を見たくなくて、あたしは努めて明るく言った。
「ほら、考え方を変えてみれば、珍しい経験でしたし」
 あたしのこの言葉には、生徒さんも下げていた眉を上げて笑った。
「確かに、私たちからしても珍しい体験だった! 怪人だし、モグラだし、改造だし」
「ですよね。種が分かっていれば、面白いかも……!」
 がおー、と怪人っぽいセリフを小声で発するあたしたち。
 歩道を歩きながら互いに笑った後、生徒さんが小さく息を吐いた。
「良かった。みなもちゃんのことすっごく傷つけていたら、どうしようかと思ってた」
 その声には心底安心した響きがこもっていた。


 今回の依頼は、モグラ怪人として一日を過ごすこと。特殊メイクだと分かった上で、どれくらい怪人として自然に過ごせるか。特に五感に着目したメイクを行うそうだ。
「という訳で、これをどうぞ」
 生徒さんから手渡されたのは、モグラに関する写真付きのメモだった。モグラの目は退化していることや、大食漢であること、巣の様子などが写真と一緒に書いてある。そのモグラの写真は、モグラ怪人とは違って円らな瞳が可愛い姿をしているけれど――不思議なことにそのメモを眺めているだけで、遠くなった筈のおとぎ話が近づいて来る気がした。
 あの粘っこい話し方、鉤爪の不便さ、醜く突き出た鼻、ウネウネと這いずるミミズの群れ……。
 ゾクゾクと背中に電気が走る。恐ろしいような、心地良いような、奇妙な感覚に襲われるのだ。後ろから生徒さんに抱きとめられたときも身動きが取れなかった。
 服を脱がされ、メイクされやすいように様々な体勢を取らされる。蛍光灯の下で微かに判別出来る水着の日焼け跡も、丁度陰になる柔らかな脇も、平等に黒い剛毛に覆われていった。
 ――この毛は何で出来ているんだろう?
 獣独特のにおいに吐き気がする。植えられた体毛の黒さも、人工的な光の下ではベッタリとした艶のない色に見え、不気味さを掻き立てていた。
 ずんぐりとした体形にされたあたしは、ごろりと仰向けにさせられた。
 口には拡張器が取り付けられる。プラスチックだろうか、金属のような硬さはなく、口に優しく収まった。「イ」の発音をするときくらいの口の開きで、痛みはない。ただ絶えず唾液が舌先にまで流れ込んでくるけれど……。
 目にはレンズを入れられた。一時的に視力を悪くするために。前回、視界が歪んで見えたのはこのせいだったのだ。
 ――鼻の制作には随分と時間を要した。体形を整えることにも使ったいつもの粘土素材を用いて、あの突き出た鼻を形成した後、生徒さんはそこに透明な粒を埋め込んでいった。
「においを集める素材なの。これで一時的に鼻が利く筈よ。……さあ、手を出して。後で足も……」
 黒い指の先には鋭い鉤爪がつけられた。手の方が鋭く、足の方は横に向かってカーブを描いている。
「……歩いてみて」
「はイ」
 あたしは頷いて、一歩踏み出そうとしたけれど、床に足を滑らせて派手に転んだ。粘土を分厚くし、特に膨らまさなければならないお尻から背中にかけての部分には衝撃吸収材が入れられているため、痛みはない。けれど驚きのあまり、あたしは悲鳴を上げた。
「ギぇ!」
 粘っこい唾液に舌が絡まって、濁音が生ずる。隙あらば口から零れそうになる唾をのみ込まなければならず、あたしは床の上で身悶えた。
「フぅ……何とかなっタ」
 溢れる生ぬるい唾液を喉に押し込み、あたしはヨロヨロと起き上った。最初から二足歩行は難しいので、四本足で歩くことにする。これなら何の苦労もなく前進することが出来るからだ。
「みなもちゃん、教室を移りましょう。巣に行けば、お仲間がいるわ。どうすれば良いかも、自然と分かる筈よ」
 こくり、と頷くあたし。湿った音と、金属の不愉快な音を立てながら、ゆっくりと巣へ向かった。

 ……あたしが前回見たときよりも、巣は巨大なものになっているように思えた。一体これを作るのにどれくらいの時間がかかったのだろう?
 床にはこんもりと土が盛られていて、とても歩きやすい。壁も、天井も、土で覆われている。実際は土を随所に貼り付けていったのだろうが、ぼんやりとした視界ではまるで本当に自分たちで掘った地中にいるように見える。
 あたしは巣の真ん中までやってくると、柔らかな土の上で身体を伏せた。
 ……湿っていて、何て良い匂いのする土なんだろう!
 嬉しくなったあたしは仰向けになって、背中を土に押しつけた。そして身体を左右に揺らしながら、背中を土に激しくこすりつける。ズリ、ズリ、ズリと、規則的なリズムで音を鳴らすのだ。あたしの刺々しい剛毛すら、土は優しく包み込んでくれる。
 遂には飛び出た鼻を土に埋め、大きく息を吸い込んだ。ミネラルを多く含んだ豊かな土が鼻や口に入ってくる――美味しい! あたしは歓びのあまり土の上を転げ回るのだった。
「みなも、待っていタよ」
「おかエり、みなも」
 奥から声がするので、起き上ってみると、見覚えのある怪人たちがいた。
 前に見た彼らは醜く、また卑しかった。今も全く同じ姿のままいるのだが、その土まみれの姿には親しみがあり、メイク前に見せられたモグラの写真のような愛嬌さも感じられた。モグラもモグラ怪人も同じような生き物に思えるのだ――、
 あたしは口の中でダマになった土を吐きだしてから、言った。
「タダイマ」

 あたしたちは、ひどく空腹だった。モグラ怪人は一日の半分も胃を空にしていると死んでしまう。だから一日に何度も食事をする必要があった。
 間の悪いことに、貯蔵庫のミミズは尽きてしまったそうだ。だから新たにミミズを探さなければならなかった。
「……クンクン……」
「ヒクヒク…………」
「…………コこダ!」
 土を這い豚のように鼻をひくつかせ、芳しい匂いを探し当てると、気も狂わんばかりに掘る。体温が急上昇しそうになると、仲間と交代して身体を土にこすりつけて冷やす。連係プレーが重要な作業だ。
 土の中からミミズが姿を現した瞬間、あたしたちは我先にと口を土に突っ込む。肉を感じさせる匂いとは裏腹に、味は淡白だ。それが土と混じることによって、噛むときに仄かな甘みが生まれてくるのだ。
 ――土もミミズも本物ではないだろう――
 頭の隅でぼんやりと考えるが、本能の前では無力だった。あたしたちは少量のミミズを土ごと貪り喰い、また身体を冷やした。あたしたちの身体は熱くなりやすく、高温になると倒れてしまう。だから頻繁に身体を冷やさなければならないのだった。
 少量ずつ幾度も食事を行うために、排泄も少量をこまめにしなければならなかった。あたしたちは代わりばんこに薄暗い土の小屋へと籠った。排泄してしまうとたまらなくお腹が空き、本能のまま土をまさぐり、食欲を満たすと小屋へ入りたがった。
 ――その合間での僅かな理性支配の時間を縫って、あたしたちは組織の拡張を画策していたのだ。
「やハリ、仲間を増ヤさなケればナらなイだろウ」
 あたしたちの意見は一致していた。

 抗い難い本能に時間を取られながらも、あたしたちは幾つものドアに立ちふさがる土を掘り、着実と巣を大きくしていった。
 そして遂に、おあつらえ向きの場所に出た。
 学校という人間たちの施設――、それも曲がり角に侵入出来たのだ。ここなら、人間をさらってくるのに丁度良い。あたしたちは薬品を持ち、将来の仲間がやってくるのを待った。
 やがて靴音と共に、一人の女性が現れた。と同時に、あたしたちは手際良く彼女を気絶させ巣に運び入れた。瞼を閉じた女性の顔を見て、あたしの心の中で呼びかける声がした。
(……あ、生徒さん)
 ――何のことだか分からないけれど、この人は生徒さんと言うらしい。あたしはこの人を知っているようだ。ならば、この人もあたしたちの仲間になれて嬉しいだろう。
 ――そうだ、嫌がる筈がない。最初は悲鳴を上げるかもしれないけれど、すぐに良き仲間となるのだ。そう、結果的に双方が満足する結果になる。あたしは確信している。
 巣の中で、さっそく彼女の姿をあたしたちと一緒にしてあげる。だって、人間のカタチのままでは、彼女が疎外感を感じてしまうもの。
 あたしは改造を仲間に任せる代わりに、彼女の手を握ってあげていた。大丈夫、すぐに終わるからね。
 祝杯の準備をし始めた頃に、彼女は目を覚ましたようだ。空間を裂くような叫び声が巣に響き渡った。
「おハよウ」
 あたしたちが微笑みかけるよりも早く、彼女は立ちあがって走りだそうとした。けれども、かつてのあたしがそうだったように、足を滑らせて無様に転んだ。ここは土の上だというのに、彼女はあたしよりもそそっかしいらしい。
 訳のわからぬ言葉を叫ぶ彼女に、あたしは手を差し伸べた。
「痛くハないデショう? クッションみたイなカラダだモの。すグに良くなルと思イマすよ」
 そしてまだ怖がる彼女に優しく笑いかけた。

「さア、コチラヘ来テくだサい。まズはテストしマしョう……」




終。
全体の表 >
冥府の番犬
 ケルベロスに擬態しようとするPCさん。『ケリュケイオン』に関連したお話です。
 一つ前に書かせていただいたノベルでは剛毛なモグラでしたので、こちらは逆に柔らかい毛としました。獣の毛と言えば硬いイメージがありますが、ケルベロスは空想上の生き物ですから良いかなあと(笑)。自由にやらせていただきました。
 夏休みも終わりにさしかかる頃、お父さんから便りが届いた。
「あ、きたきた」
 郵便受けから手紙を持って家に入ってすぐ、封を開けようとして――やめた。
 なかなか会えない、あたしのお父さん。せっかくの手紙なんだから、あんまり早く読んでしまうと勿体ない。
(えーと、えっと……そうだ、飲み物を入れてこよっと)
 冷蔵庫には冷やした麦茶があったけど、あたしはゆっくりと冷茶を淹れることにした。自分で手紙を後回しにしているのに、急須からグラスへ注ぐ時間すらまだるっこしく感じるのが自分でもおかしい。
 それから昨日いただいた和菓子を冷蔵庫から出した。家事を優先していたらあたしだけ食べそこなっていたものだ。
 ――あたし以外誰もいない、静かな居間。時折、遠くでセミが鳴き、近くで氷がカランと音を立てる。そこに少し濃いめの冷茶と和菓子。そしてお父さんからの手紙。
 贅沢かなあ、と苦笑いするあたし。何だか妹に悪いような気がした。思い出してみると、妹は昨日のうちに、あたしより多く和菓子もお茶も食べ飲みしているんだけど。
 水の波紋を連想させる生菓子の最後の一口を食べ、お茶を飲み、一呼吸置いて、手紙の封を開けた。
 ――お父さんからの便りを訝しまずにいられるのは、理由がある。先月の終わりにようやく時間を持てたあたしがお父さんに手紙を出したのだ。
 送った内容は“ケリュケイオン”で植物を取り込んだときのこと。だから、このお父さんからの手紙はその返事なんだと想像がついていた。


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 みなもへ。
 新しい能力の活用法を自主的に試しているようだね。手紙を読んで非常に面白、いや、みなもの努力を怠らない気持ちに父親として胸を打たれました。本当に。
 植物化の結果はみなもにとって予想外だったようだけど、これは何度も鍛錬するうちに改善されていくと思う。だから失敗してもあまり落胆しないように。時間はたっぷりあるのだから、「きっといつか上手くいく」と大きく構えていなさい。

 追伸。この手紙にプレゼントを同封しておきます。ケルベロスという魔獣の毛と写真です。鍛錬に使って下さい。
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 …………読んでいて、あたしは顔がにやけそうになった。
 胸のあたたかくなる手紙だった。最初に変なことが書いてあるけど、全体からお父さんの優しさが溢れている。
(ケルベロスって、あたしも聞いたことがある)
 確か、三つの首を持った獣のことだ。冥府の入り口で番をしていて、逃げだそうとする魂を貪り喰ってしまうとか。
 でもケルベロスって、空想の生き物だと思っていたけど……。
 恐ろしいことに、ケルベロスの毛は本当に同封されていたし、写真にも写っていた。お父さんはこれをどこで手に入れたんだろう……。
(あんまり深く考えない方が良いんだよね? お父さん……?)
 出所の怪しいものだけど、この毛を使ってみることにした。せっかくお父さんが送ってくれたものだし、不気味なケルベロスの姿に興味があった。
 ケルベロスに擬態した自分の姿をどう思うのか、身体的にはどう感じるのか……。能力を向上させるチャンスだった。


 植物のときと同じように、あたしは一糸纏わぬ姿になって浴室に入った。
 浴槽の蓋の上に、写真とケルベロスの毛を置く。
 ケルベロスの毛は浴室の照明の下でギラギラと貪欲そうに光っていた。真っ白の、これだけ見れば兎のようにか弱いものの毛のように見える。意外にも柔らかくて美しいのだ。だからこそ、写真のように誰のものとも分からぬ血を浴びた姿がおぞましい――。
 あたしは目を瞑って、肩の力を抜いた。ケリュケイオンと一緒に暮らして、日々意識しているお陰だろう、幾分恐怖を感じている状態でも杖に変化させることが出来た。
(問題はここから……)
 動物に対してこの能力を発動させるのは初めてだった。植物のときとは違い、暴走でもしたら大変なことになる。絶対に過ちはおかせないのだ。
(平静に、平静に……ゆっくり、確実にね……)
 そう、時間がかかってもいい。
 あたしの制御下で、一匹の蛇は緩慢な動きでケルベロスの毛に近づいていく。冷静に、平静に。そう自分に言い聞かせながら、あたしはケリュケイオンを通して一束の美しく卑しいものを抱いた。

「ッああああぁ……」

 あたしは膝をついて身体を弓なりに反らして呻いた。全身を焼かれたような痛みが突き抜けて行く。
 血肉の臭いに鼻と口をやられ、喉が溢れかえる唾液で醜い音を立てた。
「ゲホッ、ゲホッ。ぅううあぁあああ……」
 吐いても吐き気は収まらず、呻いても痛みを忘れることは出来なかった。熱を持った痛みにあたしの身体は焦がされ、もう一度吐いた。吐いたものは食べ物ではなく深緑の塊で、あたしは既に自分の身体が人間のそれとは変わってきていることを知った。
(動揺しては……だめ……)
 今これ以上の変化は危険だと判断したあたしは、待つことにした。

 水を打ったように静かな浴室。
 一時期は痛みで意識が遠のきそうになったけど、あたしは何とか自分の意志を保ち続けた。
(失敗せず、ケルベロスに擬態すること)
(そのために冷静でいること)
 ――痛みは引いて、随分と楽になった。
 今、ケリュケイオンはケルベロスを完全に取り込んでいる。あとはあたしの身体を意識的に変化させていくだけだ……。
「うぅゥ……」
 あたしは唸り声を上げた。心臓が高鳴って、血が沸き立ってくる。
 まるで発芽して土から飛び出す芽のように、細かい毛があたしの肌から生えてきた。いや、意識的にそうしているのだ。
 あたしは四つ這いになって下半身に力を入れる。細い人間らしい足首は骨太いものになり、太ももは分厚い筋肉を持つ躍動感溢れるものになっていく。
 更に力を入れる。尾てい骨のある所からメキメキと音を立てて尾っぽが現れた。とても見辛いけど鏡で確認しながら、蛇のようなザラついた尾を形作る。
 尾はとても敏感で、あたしの力の入れ加減でウネウネと浴槽を這いまわった。
(そう、それでいいの。それから……)
 前足を変化させるのは楽だったけど、問題は顔だ。写真を見る限りケルベロスは狛犬のような見た目に近いけど、細い髭が生えている。大分ケリュケイオンを制御しながら再現しなければならない。鼻は元のあたしの顔よりも太く突き出し、口も分厚くする。髭の再現が難しい。あたしは浅い呼吸を繰り返しながら、粘土をいじくる子供のように試行錯誤して髭を作った。
(……よし)
 あたしは四つ足で鏡の間近まで寄った。そして自分の擬態が上手く行っていることを確認してから、口の両端をゆっくりと裂いていった。
「……クッ…………ぁぁぁァ」
 ケリュケイオンで模した唇を裂いていくのは妙に気持ちが良かった。それが本当に快楽と感じる刺激なのか、痛みという感覚を通りこしてしまった結果なのか、あるいは肉体的にも精神的にもケルベロスを受け入れたお陰なのか、あたしには判断出来ない。
 あたしはスペースの増えた口から舌を出して鏡に映した。舌の裏側を伝って徐々に唾液の滴が這い出してくるのを見ながら、あたしは舌先も裂いていった。
 舌の長さも伸ばし、歯も鋭くなるよう形を変える。その頃には唾液が前足の上に滴り落ちていた。生温かい感触があたしの綺麗な毛を汚していく――。
 ――後は頭だけだ。
 これは大きな問題点だった。あたしの頭は一つしかないのだから。ケリュケイオンのみで作るしかないんだけど、顔のように大きくて精巧なものを二つ作ってコントロールするのは初めてだった。自分の肉体もそこに混ぜることが出来たら、より楽になると思うんだけど……。
(あ、待って……もしかしたら……)
 あたしは鏡をじっと見つめる。
 今まで注目したこともなかったけど、髪の毛って使えないだろうか。あたしの髪はそれなりに長さがあるんだから、髪を中央の頭部にしてしまうのではなくて、そこにケリュケイオンを混ぜて左右に跳ねさせて新たな頭部を作るのは…………。
 試しにケリュケイオンを出して髪に絡めてみると、凄く具合が良い。これを首の骨にして、あたしは鏡を見ながら中央の自分の顔と同じに見えるように、左右の顔を形成していった。
 ――んぁ……あぁぁァ。
 ――ッはぁぁぁ……ぁぁ。
 幾度も既に気にならなくなっている獣臭い息を吐き、そして飲み込み――。あたしは平静を保ちながら、何度も何度も声を上げた。


 肌から汗が吹き出し、真っ白な毛に染み込んでいく。
 汗はまだ我慢出来ても、あたしは前足にかかる唾液が気になり始めた。唾液が落ちるまではいいけども、毛に絡まった唾液はいつの間にか小さな湖をこしらえ始めていた。
 あたしは伏せの体勢になると中央の頭を前足へ向けて舌を思い切り伸ばし、テストも兼ねてじっくりと前足を舐めた。すると温かくてヌメっとした感触が伝わってくるだけではなくて、べっとりとくっつき合う毛の一本一本の感触までをも感じた。成功だ、とあたしは心の中で頷いた。
 改めて鏡でその姿を映してみるとおぞましさはなく、しかしとても奇妙に思えた。それは「あたしの身体じゃない」という違和感と、「これがあたしの身体だ」という既視感が混じり合ったもののようだった。
 ――これから、一つ大きなことをしなくちゃいけない。
 それはお父さんから送られた写真に写っている。ケルベロスは火を吹いているのだ。
 火を吹く、ということはあたしの身体とは接点を持てないものもコントロールしなければならない。
 難しいけど、頭には接点を僅かでも持たせることが出来たのだから、最初に考えていたよりはハードルが低くなっているはずだ。
(でも炎って……どう作れば良いんだろう……)
 ケリュケイオンでやるにはちょっと無理がありそうだ。
 かと言って、あたしの操る水とは真逆の火。自らそれを生み出すには……。
(水を熱くすることは出来るのよね)
(沸騰した水は加熱水蒸気になって……)
(あれ? それなら生み出すのは無理でも、近いものなら出来るかも……!)
 あたしは三つの口それぞれに水を含んだ。気温が高いせいで水道水も生ぬるいはずなのに、あたしの体温が高いからか冷たく感じて心地良い。これが三つ分あるって、本当に変な感じだ。それも感触が一番強いのは中央で、左右の口では感触はあるけども中央に比べたら鈍く感じる。更に奇妙だ。
 口の中は小さな洞窟のよう――意識して中の気圧を高めて行く。口に力を入れているせいで、ケルベロスの形を崩さないようにいることにも気を遣わなきゃいけないから大変だ。
 左右の顔は中央と比べればやっぱり難易度が上がってしまうから、数度、顔の髭が萎びてしまいそうになった。その度に、一度口に入れている力を抜いて、立て直さなければいけないのだった。
 また気圧の上がり方も中央と左右で違っていた。どうしても左右は気圧の上がるスピードが中央に劣る。だから同じになるように、時折左右だけ気圧を上げて行く必要があった。
 ――気圧が高くなった水は沸点も高くなる。
 そこで徐々に水温を上げて行くと……、

 ブワッ。

 三つの口の割れ目から同時に水蒸気がほとばしった。炎と完全に同じものとはいかないけど、勢いはそれに近いものがあるし、とても熱いものだから、よく出来ていると思う。
(何だか、ちょっと楽しいかも……)
 口から蒸気が吹き出ていくときの感覚が心地良い。放出感と達成感が合わさった気持ちになるのだ。
 今度は工夫して、あえて三つの気圧を変えてみた。そうすると吹き出る蒸気の勢いや、タイミングがズレて、リアリティーが増した気がした。

 ブワ……。
 ブワ。
 ブワァッ。

(うんっ、この方が本物のケルベロスに近づいたよね)
 と、まじまじ鏡を見ていたあたしだけど――、ふと裂けた口を釣り上げて苦笑いした。
 思い出したのだ。
 あたし、本物のケルベロスに会ったことがなかったんだった。

“ケルベロスって、空想の生き物だと思っていたけど……”

 少し前に自分が思っていた言葉を思い出したら、あたしは本当に、三つの口で照れ笑いするしかないのだった。今ではこんなに馴染んでいるんだもの。



 終。
全体の表 >
いつだって全速力
 シチュエーションノベル(シングル)
 ふとテレビを見たら自分に関する毒電波を流されていて……というお話です。こう書くと怖そうですね(笑)。実際はドタバタものっぽく書かせていただきました。

 後半、雫が持ってきた探偵グッズのマントをコートと書いてしまいました。薄手のコートのようなもの、という想像で入れていました。統一しないとダメですね。申し訳ありません。
 
 子供の頃、こんな言葉を聞いたことがある。
「人生は山あり谷ありでなければ退屈だ」
 誰が言ったのか憶えていないけど、その人はよっぽど平坦な人生を送って来たに違いない。谷と言えば等々力渓谷、山と言えば高尾山くらいの感覚の持ち主なんだろう。
 人生には怪物の口の中みたいな谷もあれば、天国に届くほど高い山もある。一度そのアトラクションに放り込まれたら、もう逃げることは叶わない。毎瞬毎瞬、生きるか、死ぬか。そんな人生、体験してみたいと思う?
 ――思っちゃうんだろうな、雫なら。


「ね〜、ね〜、マスター! 今日は誰が来るかな〜?」
 怪奇現象の情報サイト管理人、瀬名雫は窓を眺めながら目を輝かせていた。この童顔の少女の頭の中には大きなおもちゃ箱がひっくり返っているらしく、三十秒だって黙っていられないのだ。
 いくら駅から近く若者の多いカフェとは言え、雫の声はよく通る。周りからすれば煩そうなものだが、他の客から苦情が届いたことはなかった。雫はこのカフェでは有名人で、頻繁にやって来てはその場にいる客から奇妙な話を聞きたがったリ、自分のサイトに書きこまれた怪奇事件の調査に客を巻き込んでいた。
 結果、このカフェには好奇心の強い人々が集まるようになった。ただお茶をしているだけの客も、雫たちの会話に耳をそば立てている。それを面白がったマスターは、ある映画のキャッチコピーを真似て、入り口のドアにこんな張り紙をした。
 ――人生はおもちゃの箱のようなもの。全てを取りだして遊んでみなければ愉しめない。好奇心の無い方、お断り――

「あ、玲奈発見☆」
 タン。
 と勢い良く店のドアを開けた雫は、歩道に向かって声を出した。
「ね、玲奈、今帰りなの? お茶して行かない?」
 雫の言葉に、制服姿の少女がスッと振りかえる。
 スカートとロングヘアが軽やかに揺れた後、紫の瞳と黒い瞳がこちらを向いた。
「うん、いいわよ」
「やった☆ 玲奈を確保しました!」
「わっかんないわよ〜。あたしが雫を捕まえたのかもしれないんだから」
 冗談を言いながら二人が店内に入ると、他の客たちの視線が玲奈に集中した。
 ――三島玲奈は美少女だった。そしてミステリアスだった。
 玲奈のオッドアイは店内のライトを浴びて、潤んだようにも凛としたようにも見えた。
 ふっくらした唇から発せられる声には品があったが、話している内容はサッパリとして思い切りが良い。
 時折肩にかかったロングヘアを払う動作をする玲奈だったが、決して耳は見せない。
 ――客たちは玲奈から溢れている謎を解明しようと、時にひっそりと、時に無遠慮に彼女を眺めていた。
 玲奈はそんな客の視線を薙ぎ払うように、あるいは挑発して煙に巻くように、テンポ良く雫と話し込んだ。
「あ、そーだ☆ 今から『THE UMA』が始まるんだった〜。玲奈は観てる?」
「あのいっつも作り物っぽい変な番組ね? あたしはたまに観るくらいかな」
「一緒に観ようよ〜。ほら、今ケータイで……」
 と、携帯を取り出した雫――、
 が、急に黙り込んだ。
「……………………」
「どうしたの? ワンセグ入らない?」
「……………………」
「…………雫?」
 十秒近い沈黙。
 これだけ雫が大人しくなるなんて、タダゴトではない。
 玲奈がそう考えていると、雫が不思議そうに訊いて来た。
「最近子供産んだ?」
 予想外の質問に、玲奈はカモミールティーをむせそうになった。
 ……じょーだんじゃない。そんな発想、どこから来るのよ!
「う、産む訳ないわよっ。身に覚えもないんだから!」
「じゃあ、離婚?」
「あたしはまだ結婚もしてないのっ」
「じゃあ、婚約?」
「してないったら!」
「じゃあ、暴れたりした?」
「え? えーっと……」
 さっきまで即否定していた玲奈が、しばし言い淀む。頭の中でつい最近の出来ごとをアレコレ思い出してみるが――。
 ……暴れるって、抽象的な表現よね。捉え方って人それぞれだし。客観性に欠けた表現っていうか。
(えーと、うん、してない。してない筈。してないよね、あたし。シテナイ。それで決まり!)
「あたしは無実よ! 何で突然そんなこと言うの?」
 テーブル越しに雫へ顔を近づける玲奈。
 それに対して、雫は携帯の画面をこちらへ向けて来た。
 雫が観ていたのは夕方のニュースのようだ。丁度やっていたのは主婦向けのワイドショーネタだが、そこには驚くべき見出しが出ていた。
『一瞬の笑顔――三島玲奈さんの表情に迫る!』
 ……何よ、これ。
 目を丸くしている玲奈だが、スタジオ内のキャスターたちはにこやかに話を進めている。

「本日の午後四時頃、無事に授業を終えた三島玲奈さんは笑顔で下校しました」
 画面に大写しされる、下校途中の玲奈。
「この映像では、玲奈さんは笑顔ではないようですが?」
 コメンテーターの言葉に、芸能リポータ―が大きく頷く。
「ええ、視聴者の方々も同じ疑問を持たれていると思います。この玲奈さんは少しお澄ましした顔に見えますからね。私も最初はそう思いました」
「でも違う、と。この表情には裏がある……そういう訳ですか」
「ええ、ええ。詳しいことは三島玲奈深層心理研究家の○○さんからご説明を」
「どうも、三島玲奈深層心理研究家の○○です。みなさん、この玲奈さまは笑顔じゃないじゃないかって思われてるみたいですケドね、こうすると分かりますよ」
 そう言って、○○は映像をコマ送りにした。
「あ、一瞬、笑顔になりましたね!」
「でしょう? でも次の瞬間はまた澄まし顔です。そして次の瞬間には――、」
「また笑顔になりましたね!」
「そうなんです。玲奈さまはですね、0.12秒ごとに表情を切り替えているんです。つまりですね、澄まし顔は、無事授業を終えた喜びを我々に悟られまいとするためのフェイクなんですよ……! サブリミナル・フェイク……!」
「オオ〜! さすが……!」
「視聴者の方々は素人ですから、細かい説明をしますね。最初ね、玲奈さまは澄まし顔を作って校舎から出てきた訳です。ところがですね、気が緩んだんでしょう、つい一瞬笑顔になってしまった。玲奈さまはすぐその失敗に気付いた訳です。だから澄まし顔に表情を戻した」
「わからないのはそこからです。何故玲奈さんはそのまま澄まし顔のみでいなかったのでしょうか」
「それは素人考えです。プロはこの一瞬の笑顔に気付かれた場合の対処も考える。普通、一瞬だけ出てくる表情というのは“本音”の部分な訳です。このままでは、笑顔が玲奈さまの今の素の表情だと周りに読まれてしまう。そこで何度も澄まし顔の隙間から笑顔を出し入れして、“これはただの遊びなの、あたしは嬉しい訳じゃないのよ”とアピールする訳ですね」
「深い! いやあ、抹茶のような渋みがありますねぇ〜」
「それだけじゃないですよ。みなさん気付きました? このただ歩いているだけに見える三島玲奈さまの指先の動きをよく見て下さい」
「ええと……、ああ、微妙に動いていますね。つつーと。」
「この動きがですね、モールス信号になっているんです。表情を読まれまいとしつつも、指先では素直に胸の内を打ち明ける。乙女ですな。では読みますよ。“あたし・シュッサン・リコン・コンヤク・アバれちゃったの”です」
「Sooooo amazing!」
「ではみなさん、また明日お会いしましょう」

 あまりの内容に、玲奈は携帯を持つ手をプルプルと震わせていた。
「で、電波……。何なの、これ。狂ってるわ!」
「事件発見☆ 玲奈、力になるからね!」
 その弾んだ声に目を向けてみれば、そこには瞳を輝かせている雫の姿が。
(そっか、メディアが相手なら、雫の情報網が頼りになるかもしれないわね)
 ニュースで流されてしまった以上、人の目が気になる。情報を探るのは雫にまかせて、話題がこれ以上大きくならないうちに玲奈は帰宅することにした。


 ――なのに。
「もー、何なのよ〜!」
 玲奈が思わず声を上げてしまったくらい、世の中はひどいことになっていた。
 電車内の中吊り広告にまで玲奈のことが書いてあるのだ!
 男性向け週刊誌の広告には大見出しで『女子高生・玲奈の生グラビア』だの『身も心も全て見せちゃう?! 女子高生・玲奈のマル秘プリクラ帳大公開』だの、当人には憶えのない恥ずかしい言葉が躍っている。
(さっさと家に帰らなきゃ! 今日はもう家から出ないんだから!)
 ところが敵の方が素早かったらしい。
 駅から出ると、待ち受けていた報道陣がワッと玲奈に群がってきたのだ。
「だーかーら、あたしは出産も離婚も婚約もしてないし、暴れてないったら!」
「勝手に写真撮らないで! おまけにそこのカメラ、何でローアングルなのよ?」
 追い払っても追い払ってもマスコミの連中はついてくる。粘液ダラダラのナメクジだってこんなにしつこくないのに。気持ちが悪くて、玲奈は爆発しそうなくらい頭に来た。
(犯人に文句言いに行ってやる!)
 一度決意すると玲奈の行動は早い。
「きゃーっ、何あれ!!!」
 空を指差して、渾身の叫び声を上げる。
 つられて空を見上げた報道陣は、次の瞬間口々に叫んだ。
「な、何だあれは?!」
「UFOか?!」
「スクープだ!」
「……おい、三島玲奈がいないぞ!」
「どこ行った?!」
「探せ、探せ!」
 混乱する人々の間を縫って、一匹の犬が人通りのない裏通りへと逃げ込んで行った。
 この駄犬こそ、玲奈である。
(何とか逃げ切れたみたいね)
 ごみ箱の陰に隠れて辺りを見渡した玲奈は、パタパタと尻尾を振った。油断すると舌が口から出てしまうのが難点だが、今は犬のままでいる方が良いだろう。
 背中に乗せていた鞄を落とし、携帯だけ取り出して器用に前足でボタンを押した。そうして雫に電話をかけると、玲奈は今いる場所を伝えてすぐ来るように頼んだ。
「いいよ! こっちも犯人の目星はついたから、会いたかったしね。今行くから☆」
「待ってる!」
 さすがにこの姿で雫に会う訳にはいかないので、時間を読んで元の姿に戻っておいた。
 駅から走ってきたのか――雫は肩で息をしながら、落ち着きなく喋った。
「探ってみたんだけど、情報源は鱒込新聞社だったよ。文字通りの幽霊会社だって噂もあったし」
「オッケー。悪霊なら倒しに行かなくっちゃ!」
「待って、そんな姿じゃすぐ報道陣に見つかっちゃうよ。ここは雫におまかせ☆」
 と、雫が取り出したのはディスカウントストアで買って来たらしい探偵グッズ。
 お洒落なんだかダサいんだか線引きの難しい大きなサングラス。
 身体のラインを完全に隠すマント。
 中に着るのは暗闇に混じり合う色のレオタード。
 そして「ここで何を狩る気なんですか」と訊かずにはいられないハンチング帽子。
 これらを身につければあら不思議、どう見ても変質者だ。しかも雫まで同じ格好をしているので、もうどうしようもない。
「どかんと派手にやっちゃおう!」
 見事正体不明になった二人は、近づいて来る夜に溶け込んで行った――……。
 こう書くと、ちょっとカッコいいではないか。
 道中では特に通報されることもなかった。日本はそれでいいんだろうか。


「ここが鱒込新聞ね」
「うん、間違いないよ」
 ――夜空に漆黒の社旗がはためく。
「やっぱり黒幕はここね」
「まっくろだもんね!」
 ベタなギャグで息を合わせた雫と玲奈だったが、入り口から入った途端、受付嬢に追い返された。
「そうだった〜、受付嬢がいるんだった〜。玲奈、どうする?」
「そーいうときにはコレよ」
 自信満々に玲奈が取り出したのは……筆ペンである。
 コートを脱ぎ、サングラスも外し帽子も脱いで、露出した肌に般若心経を書き込む。
 これで悪霊から姿を隠せる……らしい。そうだよね? 耳なし芳一。
 テンションの上がりきった二人は、色々とポーズを付けながら受付を通った。
 受付嬢には二人が見えないらしく、お菓子を食べながら虚空を見つめている。
(大成功♪ あたしたちは透明少女よ)
 ドラマやアニメなんかで透明人間になったキャラクターは必ずと言っていい程悪戯をするが、玲奈にはその気持ちがよく分かった。
 自分はここにいるのに、相手は気付けない。
 一方こちらでは思いのまま動けるのだから、まるで自転車に乗って立ち漕ぎの姿勢のまま坂道を下っていくような爽快感だ。

「そこまでだ、諸君!」

 エレベーターの前で一人の中年が仁王立ちしていた。
「フははは、見える、見えるぞお。受付は騙せても、この慧眼を持つ編集長は騙せぬわ!」
「何ですって?!」
「書道二段の実力を見せてくれるわ。チェストオオオオオオ!」
 編集長の赤ペンが空を切った。
 玲奈と雫の腕に書いてあった“沸”の字に線が引かれ、そこに下手ではないが上手くもない字が被せられていた。
「“沸”ではなく“佛”じゃあ!」
「くっ……やるわね。今度はこっちの攻撃よ!」
 玲奈は雫から受け取ったプリント紙を敵に投げつけた。
「こ、これはわが社に関するタレコミ……アア、我が社の信頼性がゼロにぃぃぃ……」
 塩をかけられたナメクジのように、編集長は溶けて消えた。
(今の男は完全に消滅したわ。間違いない、ここは悪霊の巣窟なのね)
「さあ、雫! どんどん敵に塩まいていくわよ!」
「そうこなくっちゃ☆」
 こうして二人は重役室に乗り込んだのである。


 広い重役室では、社長たちが幾つものモニターを前にして弁当を食べていた。
「やはりゴールデンタイムになると、毒電波がバラエティー番組にかき消されてしまいますなァ」
「それではいかん。バラエティーには勝てんから、もっと雑誌にも力を入れろ」
「ああ、やっぱりタンメン頼めば良かったなァ」
 立場の割にしょぼくれた重役たちへ、玲奈は高らかに宣言した。
「お前たちが悪の権化ね。デマばっかり流すなんて、許さないんだから!」
 と同時に雫がプリント紙をばらまく。
「ヒッ」
 声を震わせて逃げる社長を玲奈の霊剣が捉えた。クンッと風を切り、高くジャンプした玲奈は回転しながら敵を一刀両断した。
「玲奈、カッコイイ〜☆」
 ぱちぱちと拍手する雫。
 玲奈は照れ笑いを浮かべながらも、ちゃっかりとピースしてみせる。
 が、次の瞬間玲奈は険しい表情を浮かべた。
「……雫、今から全速力で逃げて」
「どうして?」
「いいから早く!」
「う、うん。入り口の外で待ってるからね」
 瞳に不安げな色を浮かべつつ、雫は非常階段から外に出て行った。
 ――玲奈はモニターに向き直った。
「黒幕はお前ね?」
 その声に答えるように、モニターには大写しで玲奈が映し出された。
「我は滅びぬ。何故なら我はただ媒体を用いた流通者に過ぎぬからだ。全ての欲望は人間から生れしもの、それが例え虚構から成る醜聞であろうとも、求めているのは人間なのだ……。お主もそう思うだろう? どうだ、我と手を組まないか」
 モニターは地響きのような声で――まるで神のごとく自信に満ちた口調で話していた。
 だが玲奈には迷いがない。
「お断りよ」
 冷たく言い放つと、玲奈は重役室ごと悪霊を爆破した。
 外に出てみると、ビルは跡かたもなく消えていた。全てが虚構で出来ていたのだ。

 翌日、玲奈は恐る恐るテレビをつけてみたが、そこにはいつものニュースがあるだけだった。ワイドショーはにぎやかだが、玲奈の“れ”の字も出てこない。
 ……それが当たり前なんだけどね。


「ね〜ね〜☆ あたしが外に出てから、玲奈は何やってたの〜?」
「もー、雫は何回聞けば気が済むのよ〜」
 いつものカフェで、あたしと雫は昨日の話で盛り上がっていた。
 きっとすぐに――もしかしたら明日には、もう鱒込新聞社のことなんて忘れているかもしれない。
 だって雫は常に新しい怪奇事件で頭がいっぱいだし、あたしにはそんな過去のこと思い出している暇がない程、奇妙な出来事に出遭ってばっかりなんだから。
 ――あたしの人生は、ジェットコースターみたいだ。毎日が生きるか死ぬかの、強制アトラクションの連続。
 普通の人なら、疲れて嫌になっちゃうかもね。絶望して、自分の人生に諦めた眼を向けちゃうかもしれない。
 雫なら面白がるんだろう。あの子は普通じゃないから。

 ――あたしならどうするかって?

 もっちろん、命を賭けて走り抜けるだけよ。
 目の前に退かせない障害物があるなら、跡形もなく消してあげる。



終。

全体の表 >
お姉さまと冥府の番犬
 シチュエーションノベル(ツイン)。『冥府の番犬』の続き(?)になるお話です。
 恐々しつつ、ほのぼのしつつ。その辺りのバランスを気にしながら書かせていただきました。

 PCさんの口調について。ケルベロスという生き物自体が対象の時、またはケルベロスに変身したPCさん自身を対象とした時には「ケルベロス」と呼び捨て、PCさんに頼みごとをしてきたケルベロス本人を示すときだけ「ケルベロスさん」としています。
 しかし、この「さん」付けするかどうかで修正を繰り返した際、手動以外に置き換え機能も使ってしまい、一部で「さん」が二重になりました。修正したつもりが、最初の三箇所において直っておりません。非常に恥ずかしいミスです。本当に申し訳ありません……。
 空も地面も、フィルムのような薄い闇に取り込まれていく。
 その道を歩いて行くのはとても不思議な気持ちになる。あたしの影と身体は、まるでこの果てない空間に溶け込まれてしまったよう。
 ……無言でいるのは少し怖い。寂しい獣の、大きく開いた口の中に入ってしまった気持ちになるから。

「お姉さま、何かお話しましょう?」
「くす。みなもったら、甘い声を出して……」
「だって、何だか怖いし、寂しくて……」
「会話を続けるのは危険です、迷ってしまったら出られませんから」
 お姉さまの言葉が、あたしの頭の中で弾けていく。何を言われているのか、理解するのに数秒の時間を要するようになっていた。
 ……あたしの意識は今にも眠りにつきそうだったのだ。
「ああ、いけない。みなも。起きていますね?」
 僅かに声を出して頷くあたしに、お姉さまは言った。この冥府に繋がる道は人を迷わせる。身体だけでなく、心も。一度迷っては帰ってくることは殆ど不可能だと。
「仕方ありません、一度止まりますわ。さぁ、みなも……これは何だか分かる?」
 あたしの冷えた手を、温かくて柔らかなものが包み込む。
「お姉さまの手ですね。……あったかい」
「当たり。では、これはどこでしょう?」
 お姉さまの手に導かれて、あたしの掌はより熱を帯びた肉体に触れた。これはどこだろう、と自分に問う。
 ……そこには弾力があって、あたしの指先を押し返してきた。下に行くほど膨らみを帯びていて、手首の当たる所がふにふにして最も心地良い。
 対象に触れながら指を動かすと、中指の先が膨らみの境い目に触れた。その割れたところに人差し指を挟んで、すうっと水を切るように下へ移動させていく。
 と、そこから音がしている。とくん、とくん、とくん。指先を伝わって、あたしの心の中へとその脈打つものが入り込んでくる気がした。
「…………お姉さまがいるんですね、ここに」
 自分で言ってから、その意味が何なのかを考えている。そうすると意識がだんだんと明瞭としてきて――、
 あたしは小さな悲鳴をあげた。

「ご、ごめんなさい。お姉さま、あたし、そんな、触るつもりじゃあ……!」
「分かっていますから、安心なさい。さぁ、行きましょう」

 その声と共に、柔らかな身体はあたしから離れて行った。平然と。
 ――視覚に頼らないお姉さまにとっては、暗闇も昼も同じこと。
 お姉さまはどんどん遠ざかってしまうだろう。あたしは置いて行かれないように注意しながら、暗闇の濃くなる方に向かって、そろそろと歩きだす。そして残るのは、寂しい獣の、大きく開いた口の中……。
 あたしは身震いして、今度は自覚しながらもお姉さまに甘えた声を出した。小さい子供のような要求が自分でも情けなかったので、もう一気に言ってしまった。
「あの……お姉さま……あたしと手を繋いで下さい!」


 あたしとお姉さまが冥府へと行かなければならない理由。
 それはお父さんからの依頼だった。
 以前“ケリュケイオン”の練習でお世話になったケルベロスさんさんが、新婚旅行で冥府を留守にすることになった。その間、あたしに番犬役を変わって欲しいのだと言う。勿論、あたしは引き受けた。
 お姉さまはお父さんからこの話を聞いて、やって来た。冥府の案内をしてくれるらしい。
 久しぶりに会ったお姉さまは、やっぱりあたしの憧れのままだった。しなやかな黒髪と闇を湛えた瞳を眺めていると、心が吸い取られてしまいそう。
 依頼はきちんとこなさなければいけないけど、お姉さまと一緒に出かけられる良い機会だと思った。


「冥府はもう間近ですわ」
「それなら、もうケルベロスさんさんにならないといけませんね」
「ええ。わたくしが見るのは初めてですから、どきどきしますわ」
「……ぅ。言われてみれば、あたし誰にも見せたことなかったです……」
「大丈夫ですわ、暗闇の中でのことですから」
 それって、お姉さまには意味のないことのような気もするけど……。
(でも、ケルベロスさんさんとお父さんから頼まれたことだもの)
 あたしはお姉さまから背を向けて、服を脱いだ。
 背中の、なだらかな丘へ向けて、粘りつくような視線を感じるのは気のせいだろうか?
(緊張していたら駄目、力を抜かなきゃ……)
 ゆっくりと息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。
 気持ちを落ち着かせてから、あたしはケリュケイオンを身体から出した。杖のかたちをしたそれは、暗闇の中でも輝いていた。
 ――綺麗。
 その貪欲な光は、あたしの本能を掻きたてる。人魚としての能力を目覚めさせ、静かな欲望を作り出すのだ。それは、目の前にあるものの感覚を得たい、同一化したいという奇妙な行動となって。
 左のまぶたに溶け込んだ“逆鱗”でケルベロスさんの毛から情報を感じ取り、“ケリュケイオン”でケルベロスさんの感覚を共有し、あたしの肉体を変えていく。付随する肉体の痛みさえ、精神の悦びを伴う。あたしが望んだことだと、本能が告げているから。
 ――お姉さまの視線を感じる。
 今、お姉さまはどんな“あたし”を感じ取っているんだろう?
 ……痛みと眩暈で立っていられず、あたしはヘナヘナとその場に崩れた。
 それから身体を丸め、歪んだ背中と腕の隙間から捩じれた声をあげた。その姿は獰猛な獣というより、ダンゴ虫のように矮小な存在だと、遠くから思う自分がいる。
 ――お姉さまに見られている。
 ――あたしはこんな情けない姿なのに……。
 ケリュケイオンのせいなのか、あたしの人魚としての本能のせいなのか――変化するときは情熱に任せて呻く自分と、氷のように醒めきって周りを観察している自分の、二人がいるのだ。生温かいミルクを飲まされたような、奇妙な感覚。
 ――湿り気を帯びたお姉さまの視線は、あたしの身体に注がれていた。可憐にも感じられるケルベロスさんの毛が生えてきた腕から、まだ変化していない髪、滑らかさを失い始めた背中、雄々しく尖ってきたお尻、ずんぐりと太くなっていく踝……。特にお姉さまの関心を引いたのは、尾てい骨から突き出してくる尾っぽだ。生え際が気になるらしく、そこを舐めるように“見て”いる。
「あぁァ……アアアアアア……ァ」
 お姉さまの前にも関わらず、あたしの唇から声が零れ出る。
 声を抑えるどころか、裂けていく唇の端から溢れる音が大きくなっていく。
 呻くのを止められない。それとも、あたしには元から止める気がないのだろうか?
 洞のように広がった口内から、人目を憚らない音が出る。あたしは激しく悶えている。それは本能の歓喜の声に思えた。
 あたしはまるで、羞恥心を忘れてしまったかのよう。
「みなも、俯いてはいけません」
 声のする方へ、あたしは顔をぐっと向けた。口が裂け、今まさに髪を芯に二つの顔を作っているというときなのに、この顔を見てくださいと懇願するかのように。
(一体あたしはどうしちゃったの?)
 普段なら、恥ずかしくてたまらない筈なのに。一糸纏わぬあられもない姿だし、人ならざるカタチになっているし、声まであげているというのに、どうして平気でいられるの?
 心を覆っているのは、安心感。お姉さまの視線はあたしを喜ばせ、安堵させる。ちっとも寂しくなく、ケリュケイオンを使うときに感じるような恐怖がない。
(お姉さま、みそのお姉さま……)
「あァン……ぅウウウ……」
 あたしは左右の顔をこねくり回しながら、お姉さまに笑いかけた。唇の先を釣り上げて。
 この姿をお姉さまに見て欲しかった。褒めて欲しかった。小さい子供が作った玩具を家族に見せるみたいに。以前よりは、お姉さまに近づいたんじゃないかって。
(本当に、あたし、どうしちゃったんだろう――)

 変化を終えて、お姉さまに毛を撫でられると――やっぱりちょっと、恥ずかしい。
「ふわふわ……いいえ、ふあふあですのね。ふふっ」
(そんなこと言って、あたしは今ケルベロスなんですから。怒ると怖いんですよ?)
 そう言い返したいんだけど、あたしは今人間の言葉を話せない。
 あたしが表面上大人しいものだから、お姉さまったらやりたい放題。
「背中の毛は“ふあふあ”ですけれど、足の毛は背中より短くて“ふあふあ”ではありませんのね」
「“ふあふあ”でないのなら……“ふさふさ”?」
 お姉さま、自分で言ったことにポム、と手を打って。ふさふさという擬音があたしの足の毛にはピッタリだと頷いている。
(そんなの、犬みたいじゃないですかぁっ)
 がうがうと獣の言葉で文句を言うあたし。お姉さまには絶対伝わっていないだろうけど。
「では、こちらはどうなっているのでしょう?」
 お姉さまの手はあたしの背中を通り過ぎて、お尻へ。
 ひゃあっとあたしは心の中で声をあげる。尾っぽは敏感なのだ。
「ん……。“ざらざら”。これはざらざらですわね。這いまわって長い形……癖になる触り心地……」
 うっとりとした言い方のお姉さま。そこは大切な部分なのだから他の場所を触って欲しいのに、そんな風に喜ばれたら拒否出来なくなってしまう。
(言葉も話せないし。ううぅ……)
 何だか、気の弱いケルベロスっぷりに、自分でも哀しくなる。
 こんなことで番犬の役割が果たせるんだろうか。


 冥府の地面はぬかるんでいて、歩くだけでも気味が悪い。お姉さまは度々転びそうになって、その都度あたしは背中で受け止めた。
 でも道の途中と違って、仄かに明るさがあるのは救いになった。もっとも、ケルベロスさんの身体になっているから、暗闇でも問題ないのだけど。
 紫色の沼の前があたしの居場所だそうだ。
 あたしは唾液を地面に落しながら、ゆっくりとそこに伏せた。
 ……うーん、どうしよう。
(ケルベロスさんは冥府から出ようとする者を食らうという話だけど……)
 食らうというのも、どうすればいいかわからないけど、要は冥府から誰も出さなければいいんだよね。
 沼の底から、小さな泡が浮かんでは消えている。お姉さまはそれを指し、そこにはいくつもの魂が漂っていると言った。
「水の中で死んだ者たちです。地面を歩くことも出来ますが、水中に居る方が心地良いのでしょう。寝ているときもあれば、歌うこともありますわ」
 水の中で歌う?
 想像してみると、気味悪く感じた沼にも楽しさを感じられた。もっと苦悶に満ちたものだけかと思ったけど、そうでないなら、番犬役も少し気楽になれる。
「上を御覧なさい。大きな影が飛んでいるでしょう?」
 お姉さまの言うとおり、黒い、ヒトガタのようなものが空を舞っていた。
「あれは主が死んで自由になった影たちですわ。身軽になったのが嬉しくて、ああやって遊んでいますの」
 彼らは真っ黒な腕を上げて、輪になったり離れたりしながら、くるくると空中を移動している。それは楽しそうにも見えるし、持ち主のいなくなった影の寂しさを象徴しているようにも思えた。
 ――脱走しようとする者はそう現れないものらしい。
 前回の反省から、あたしは伏せていても前足との間はギリギリまで開けておいた。お陰で三つの口から流れ出た唾液の湖は、美しい前足の毛を汚さずに済んでいた。湖が大きくならないうちに、あたしは三つの舌で唾液を絡め取った。ぬかるんだ地面は仄かに甘みがあって美味しく、あたしは何度も湖と地面を舐めた。
「ほら、みなも、影達が出て行ってしまうわ」
 お姉さまの声に、あたしは慌てた。確かに影達は手を繋いで冥府の境を越えようとしていた。
 あたしは咄嗟に口を開いて、ありったけの大声を出した。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
 刹那、影達は身体を震わせて地面に落ちた。むくり、と起き上ると全員冥府の奥へと戻っていく。意図して外へ出ようとしたのではなく、遊びに夢中になりすぎただけのようだ。
(怪我がなくて良かったぁ……)
 不用意に傷つけたくないもの。言葉で伝えられたら、それが一番良いんだけど。それは無理だものね。
「みなも、ケルベロスさまは爪や炎を使える筈ですけど、使えません?」
 あたしは残念そうに俯いた。使えないのだ。
 これには二つの理由があって、一つは心理的な理由、もう一つは物理的な理由だ。ケルベロスの身体で動くのは神経を使うので、人間からあまりに離れた行動を取るのは難しいのだ。
「それは困りましたね。せっかくのケルベロスになったのですから……、地面に爪を立ててご覧なさい」
 あたしは前足を伸ばすと、思い切り爪に力を込めた。
「……まだ弱いようですわね」
 お姉さまの手があたしの前足に乗ってきた。お姉さまは優しく押さえているだけなのに、あたしの筋肉の動きが如実に変わった。長い爪がグッと土の中に食い込んでいく。土ってこんなに柔らかかったっけ、と自分に問いかける。
 深く開いた穴の上で爪を眺めてみる。中にはびっちりと土が入っていて、薄暗い中で湿っぽい匂いが広がった。それがまるで美しい夢を見ている気持ちにさせられて、あたしはうっとりとした。
 ――炎を出してみたら、どんなに綺麗だろう?
「炎も出せる筈ですわ。みなもは今ケルベロスですから」
 お姉さまに勇気づけられて、あたしは口を膨らませて炎を吐く真似をしてみたけど、やっぱり炎なんて出てこない。火の“かけら”さえ。
 変化しても能力までは引き継げないんだろうか?
 何度も三つの口を膨らませたり吐きだしたりしていたら、息が苦しくなってきた。身体から炎を生み出すことはあたしには無理なのかもしれない。擬似的な炎なら以前出せたけど、本物は発生させること自体が一番難しいのだから。炎を発生させることが出来れば、後は口から出るように流れを作るだけだと思うのだけど。
(でも、出来たところで人に使う気になれないものね……)
 気が沈んで、尾っぽを下げるあたし。お姉さまはケルベロス相手と言うよりは愛犬を慰めるように、あたしの三つの頭を交互に撫でながら言った。
「そんなに落ち込んではいけませんわ。炎が出せなくても、みなもなりに番犬役をこなせば良いんですもの」
 くうん、と一鳴きするあたし。
(あたしなりに、かあ……)
 頼まれたのはあくまで番犬なのだから、相手を傷つける必要はない筈だ。
 それなら、あたしに出来る方法で脱出者が出ないようにすれば良い。

 あたしは一時間に一回、警報を鳴らすことにした。
 三つの口から連続して唸り声を発して、冥府を覆うのだ。
「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウン!」
「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウン!」
「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウン!」
 これは冥府を出てはいけないこと、もし出ようとするなら実力行使に出ることを伝えるためだ。もし「外に出てみたい」と思った人がいても、この唸り声を聞いて考えを改めてくれるかもしれないからだ。
 それでも冥府から出ようとする者はいる。
 するとあたしは怒気を帯びた声をあげる。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
 三つの顔から同時に咆哮するのだ。最後の警告として。
 影達は大体ここで諦めてくれる。
 ――ところが、中にはそれでも出ていこうとする者もいる。
 あるとき、一匹の大きなカエルさんが冥府から出て行こうとした。
 あたしは咆哮したが、相手は聞き入れない。
 おそらく、爪や炎を使うべきときだろう。
 でもあたしは、全身の筋肉に力を入れて飛び上がると、跳ねていたカエルさんを中央の口でキャッチした。
牙には力を入れずに長い舌で絡め取り、毛布のように包み込んでカエルさんに傷がつかないよう保護する。そして沼へ離してあげる。おそるおそる沼の中に身体を浸して、こちらを怯えながら見上げるカエルさんに、あたしは深く頷いた。
 ――もう出ようとするのはやめてね。
 その思いを、カエルさんは受け取ってくれたんだろうか。くるり、と後ろを向いて沼を泳いで去って行った。
(伝わった、のかな)
 あたしは元にいた場所に戻ると、また憮然とした表情を作って番犬を続けた。
「それで良いんですわ。例えどうなっても、みなもはみなもですもの」
 お姉さまの柔らかな胸が、あたしの背中に押しあてられる。顎の下から腹部まで指で撫でられて、あたしは夢心地になりながら、表では厳しい顔をしなければならない。
 それは大変なことだけど、誰かを襲うよりはずっと簡単なことだ。少なくともあたしにとっては。
 お姉さまはあたしの耳元で囁く。
「優しいケルベロスさま、もしわたくしがここから出ようとしたら……。わたくしは先ほどの殿方のように、舌で包まれるのでしょうか? こんな風に…………」
 お姉さまの温かな舌先がゆっくりと耳の中に入ってくる。
 あたしは厳めしい表情は崩さずに―― 一瞬だけ、身を震わせた。



 終。
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冥府の番犬とラクスさん
 シチュエーションノベル(ツイン)。『お姉さまと冥府の番犬』の続きにあたるお話です。
 前回は炎を出せなかったPCさんでしたが、今回は……?

 ラクスさんを書かせていただくのは久しぶりです。内心、初めからPCさんが炎を出せないことは見抜いていたけれど、成り行き上の指導を装ってPCさんを導いてくれている……という役柄で書かせていただきました。
 お姉さまが帰ってしまうと、あたしは再び不安に襲われた。
 冥府から出ようとする人たちがあたしに暴力をふるうこともなかったというのに、この湿度の高い空気はそれだけで気持ちを重くさせる。

 ピクン。
 六つの耳が一つの足音を捉えた。誰かが現世からこちらへと近づいて来る。
(…………誰?)
(お姉さまがお戻りになった?)
(…………ううん、違う)
 音の連続性から、あれは四本足の生き物だと分かる。静かな足音から敵意は感じられないが――、
 あたしはやや身構えて相手が顔を見せるのを待っていたけど、やって来た相手を見て目を丸くした。
 薄暗い中では赤よりも黒に近い葡萄色に見える髪、その髪に隠れるようにある柔らかな曲線を描いた胸、その下には上品そうに揃えられた前足……背中には鷲の翼が生えている。
 ラクス・コスミオン――あたしが時々勉強でお世話になっている方だった。
「ラクスさんがどうしてここに?」
「はい、ケルベロスさまがご不在だと伺ったものですから……その、錬金術に使う素材を採取しにまいりました……」
 ラクスさんは伏し目がちにそう言って、あたしを見た。
「あの、ケルベロスさまには秘密にしていただけますか?」
「え、えっと……」
 あたしは言い淀んだ。
 ……ここはケルベロスさんの管轄であってあたしのものではないのだから、勝手に通してしまって良いんだろうか。
 でもラクスさんは信頼の置ける方だし、お世話にもなっている。
「危険なことに使わないのなら……」
「ええ、もちろんです。では、急いで取ってまいります」


 ラクスさんは沼に沿って冥府の奥へと消えて行った。
 それを見送ってから、ふと思う。
 ――あの奥にはどんな光景が広がっているんだろう?
 興味を持っても、あたしはケルベロスとしての努めがあるから、ここを離れる訳にはいかない。
 だから疑問ばかりが湧いてくる。

 ここから眺めているだけでは闇が広がっているばかりだけど、あちらにもぬかるんだ道が続いているんだろうか。
 植物は生えているんだろうか?
 植物があるとするなら、何を養分にしているんだろう。葉の色は何色なんだろう。日の光がないに等しいのだから、緑色ではないだろうけど。花は咲くんだろうか?
 影達に家はあるのだろうか、ないのだろうか?
 それとも影達は家どころか休む場所も必要としていなくて、永遠に踊っているだけなんだろうか。
 他にはどんな生き物がいるんだろう。その生き物たちは今、目を覚ましているんだろうか。それとも眠っている?
 その生き物たちは、あたしより小さい? あたしより大きい?
 皮膚は硬くてザラメのようなものなのか、それともあたしの尖った爪では撫でただけで傷つけてしまいそうな脆いものなのか。
 視力や聴力、嗅覚はどうなんだろう。聴力や嗅覚は優れているかもしれない。だけど、ここは暗いから、目が退化しているかもしれない。だとするなら、生き物たちは今この瞬間にも嗅覚を頼りに土の上を蠢いているんだろうか。
 ――あたしは定期的な唸り声をあげた。
 見知らぬ生き物たちも、この警告音に耳をそばだてているんだろうかと思いながら。

 一時間くらい待っただろうか。ラクスさんが戻ってきた。
「お待たせしました。探すのに手間取ってしまって」
 そう言って見せてくれたのは、白くてとぐろを巻いた塊で、掌には入りきらない大きさだ。これがとても水っぽくて、シュワシュワと何かが弾けて溶けて行くような音をたてていた。
 シュワシュワという音と、広がっていく水、そして時折現れる泡を見ていると背筋がゾッとしてきて、あたしはこれが何なのかラクスさんに訊かずにはいられなかった。
「冥府にしか生息出来ない生物のヌケガラです。ですが、既に分解が始まっているようです……」
「分解?」
「特殊なバクテリアです。ここでは分解の速度が速すぎて……ヌケガラを見つけるのに手間取ったのもそのせいでしたから。すぐに手を打たなければなりません」
「どうするんですか?」
 興味本位で訊いたあたしに、ラクスさんは柔らかく微笑んだ。
「焼成すれば良いんです。みなもさま、お願いします」
「………………え?」
「焼成、お願いします」
 ラクスさんはにっこり微笑んでいる。あたしが炎を出せると思って疑わないようだ。
(そりゃあ、普通そう思うよね……)
 だって、今のあたしはケルベロスの姿をしているんだもの。
 顔は三つあるし、鋭い爪もあるし、蛇のようにウネウネ動く尻尾もつけて、凄みを利かせた唸り声もあげていて。なのに、炎が出ない。
(うう……これじゃあ、あたし、ハリボテ同然かも……)
 あたしは俯いて、土を弱弱しく引っ掻いた。爪を動かすのはこんなに簡単なのに……。
「もしかして、出来ないのですか?」
「はい……。あたし、アイテムのお陰で変身出来ているだけなんです……」
「いいえ。それは違います」
 そのはっきりとした言われ方に驚いて、あたしは顔を上げてラクスさんを見た。
「ケリュケイオンのこと、御存じなんですか?」
「ラクスも開発に携わったものですから。ケリュケイオンと逆鱗を使えば炎は可能です」
 ラクスさんの話し方は穏やかだったけど、経験と自信に裏打ちされた雰囲気があった。それは勉強を教えてくれるときと同じ、あたしに確かな知識と信頼を与えてくれる。

 みなもさま、ケルベロスは魔獣なのを思い出してください。魔獣は魔力を使って肉体を高めます。炎とて同じこと。ケルベロスになったみなもさまとの作りの差など、ないのです。
 逆鱗で補佐しながら、ケリュケイオンで周りの魔力を認識してください。魔力を認識したら、ケリュケイオンに水分を纏わせ魔力を吸収し、炎に変えます。工程自体はケルベロスに変身したときと変わらないのです。
 ただ丁寧に、魔力を取りこぼさないように行わなければなりません。最初ですから、一つの顔のみで試すと良いでしょう。みなもさまなら出来ます。自信を持つことも大切です。

 あたしは中央の顔にある左目だけに集中して、あたりの気配を探った。
(――ある、ある!)
 冥府のせいか、この空間全体に魔力が漂っていた。これを取り込むには――。
 あたしはケルベロスである自分の体形を崩さないように注意しながら、身体のケリュケイオンを一部ほどいて霧に変えた。そしてまわりの湿気と混ぜながら、目に見えないケリュケイオンの粒一つ一つに魔力を呑み込ませて行った。
 魔力は温かく、水を含んだケリュケイオンに比べて幾分乾燥していた。そして風のように力があった。
(丁寧に、丁寧に……)
 逆鱗を意識して使うことで、魔力を呑み込んでいく様子が確認出来る。今までケリュケイオンに意識が行き過ぎていたのかもしれない。逆鱗は補佐でしかないから、と意識がおろそかになっていた気がする。
 ケリュケイオンをあたしの身体に戻すと、体内に熱風が籠ったような感覚に襲われた。あちこちで温かかった感触が一塊になって、身体の中を動き回っている。
「炎を想像しながら、口から一気に吐き出してください。逆鱗への意識も消さないように」
 ラクスさんの助言に従って逆鱗の力を借りながら、この体内で逃げ回る魔力の塊を捕まえた。それを練りながら喉元へと運ぶと、唇を開いた。
 全ての用意が整ったことを確認してから、ヌケガラへ向けて一気に魔力を放出した。

 、

 地を割るような低い轟音が、六つの耳の底へと叩きつけられた。
 その音によって、あたしの耳はブルブルと震えた。自分自身で出した音だというのに、本能が恐怖におののいていた。
 達成感という意識よりも本能に侵されたあたしは、炎が出尽くしてもガタガタと揺れる視線をラクスさんに向けた。
 ――そこには微笑みを湛えたラクスさんがいた。
「完璧です」
 その優しい声。
 それだけであたしの中の恐怖が溶けて行く。
 後に残るのは、安堵感、そして喜び。
「あたし、やれたんですね!」
 あたしの声に被さって、ラクスさんが言った。

「今度は三つの顔から炎が出るように練習してください。その間に、ラクスは再びヌケガラを取ってまいります」
 それはとても、穏やかで、力強い響きをしていた。



終。
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惑わしの花びら
 シチュエーションノベル(ツイン)。
 お姉さま再び。少し淫靡なお話です。私は唇を花びらに例えた文章が好きなので、タイトルに持ってきました。
 子供の頃、ホットケーキが好きだった。
 熱々の生地にバターと蜂蜜をたっぷりかけたものが特に好きだった。濃厚な甘さとバターの風味、生地の端っこのカリカリとした食感を愉しんでいると、気持ちが蕩けていくみたいだった。
 ……ごく。
 唾液を呑み込もうとして、気がついた。
 あたしはどうも、眠っていたみたい。現に今も、目を瞑ったままでいる。うたたねをすることは気持ちが良くて、目をあける気にならなかった。
(…………ん、)
 あたしの喉は、舌の上に溢れてくる唾液を上手く飲み干せない。半分は喉を伝っていくのに、残りの半分は口の隙間から滴り落ちてしまう。
 どうしてだろうと、霧のかかった頭で考えて、理解する。行儀の悪いことに、あたしは舌を出して寝ていたみたいだ。
 おまけに舌先だけ生温かい。何かを舐めていたようだ。夢うつつで舌を動かしていた記憶もある。
(やだな、きっと食べ物の夢を見ていたから……)
 あたしはやっと起きる気になった。それで薄く目をあけたら、次の瞬間とても驚いた。
 視界に広がっていたのは、二枚の花びらだった。その花びらは重なり合っていて、仄かに赤くて、下の花びらはぷっくりと膨らんでいる。花びらと花びらの隙間から、蜂蜜のように蠱惑的な香りがした。
(何?)
(何…………)
 、
 なめらかに、ゆっくりと、上下に動く花びら。
 その花びらがあたしの身体を撫ぜて。
 ――あたしはようやく花びらの正体に気付く。みそのお姉さまの唇だったのだ。あたしがうたたね中に舐めていたのは、お姉さまの肌だった。
 嗚呼。そうだった、そうだった。あたしはお姉さまと一緒に神さまのところへ来たのだった。……犬の姿になって。

 お姉さまの唇が柔らかく動いた。
「みなも、起きたのですね」
「わう」
「……残念ですわ。もう少し、寝ていても良かったのに……」
 小鳥が囀るように、お姉さまは小さく震えるように笑って。
 二枚の花びらは、あたしの背中にふわりと着地した。


 ――大みそかの日、あたしはお姉さまに頼まれごとをされた。
 お姉さまがお仕えしている神さまが、犬を愛でたいそうだ。
 でも神さまのいる場所は、こちらの一瞬が永遠になるところ。普通の犬では存在することさえ出来ない。
「だからあたしが犬になるんですね」
 あたしは二つ返事で頷いた。お姉さまの“お願い”を断る気になれなかったし、事情も受け入れやすかった。場所のせいで、触れるものや目にするものに制限があるなんて勿体ない。それに何故だか、あたしが犬になって神さまのところへ行くのはとっても素晴らしいアイデアに思えたのだった。
 さっそくお姉さまに背を向けて、服を脱ぎ、ケリュケイオンを体内から出したところで……はたと気付く。
「どんな犬にしましょう?」
 とあたしが尋ねると、お姉さまは即答した。アイリッシュ・ウルフハウンドが良いと。
「ここに、あいりっしゅ・うるふはうんどの毛がありますから」
 お姉さまったら、用意が良い。
 気分が高揚したまま、霧状にさせたケリュケイオンで犬の遺伝子を体内に取り込んだ。
 ひゃ、あああアアアアア。
 勢いは何処へやら、あたしは力なく倒れ込み、身体を弓のようにそらせた。
 唇の隙間から、人ではないような、イキモノの声が走って行く。
 異物が皮膚の間に捻じ込まれていく痛みに、気絶しそうになる。
 仰向けに倒れたあたしの目に、お姉さまの姿が映った。平和的に笑みをたたえたお姉さまの口は、こう言った。「すぐに痛みは感じなくなりますわ。大丈夫。それとも、既に、」

「気持ち良い?」

 その言葉に、あたしは身をよじって応えた。
「あっ、あっ、あっ、ッ」
 喉の奥がヒクついて、上手く言葉が出なかった。
 痙攣みたいに足が震えていて。
 景色がくるくる回っていた。
「みなも、そろそろ変化する頃ですわね。ほら、胸が潰れて、胴が伸びて。足が太くなって、腕も同じように……」
 お姉さまの声に合わせて、あたしの身体はカタチを変える。リズミカルに、心地良く。
 それは確かにあたし自身がやっていることなのに……お姉さまの声に、ケリュケイオンに、蕩かされていくよう。
「耳も起き上ったかしら。尻尾も生えて。犬の歯ってとっても面白いですわね。ああ、舌も伸びてきて……」
 唾液と絡み合い、波打ちながら舌が伸びてくる。
 アアア。
 新陳代謝が激しくなって、あたしは生臭い息を吐いた。ぁっ、ぁっ、ぁ!
 呼吸が乱れて、今自分が息を吸っているのか吐いているのかもわからなくなってしまいそう――。
「ャ……おね、え、さま、ぁ、ぁ、ぁ! ふ……!」
「大丈夫ですわ。すぐ苦しくなくなりますから」
 お姉さまはあたしを抱きしめてきた。
 あたしは変化しきった前足で、お姉さまの背中や腰を掴んだ。お姉さまの腰は柔らかくて、きつく抱いたら壊れてしまいそうな危うさが感じられた。だから宝物を扱うように、あたしは前足から力を抜かなければならなかった。
「落ち着いて。すぐに発音も変わりますから……。さあ、声に出してみて……」
「ぁ! ぁ! ゥぁ……ワン! ワンウワン!」
「そう、良く出来ましたわ」
 お姉さまの優しい声が、あたしに注がれる。
 なんていう、幸福――、


 お姉さまに連れられて、あたしは神さまのところまで来た。
 あたしの目には神さまがどこにいるかわからなかった。確かなのは、二枚の花びらだけ。
 見えない神さまや、お姉さまに対しての誠意を示すように、あたしは仰向けになってお腹を示した。服従……相手への尊敬の姿勢だった。くううう、と甘く鳴いてもみた。
 そのあたしのお腹に、お姉さまは温もりの雨を降らせた。あたしがくすぐったそうに身をよじると、お姉さまはあたしの後ろ足に自分の腿を割りこませてくるのだった。逃げられないように。
 それから、あたしの、犬らしい灰色の毛に指を絡ませて興味深げに言う。
「あいりっしゅ・うるふはうんどの毛は、柔らかいのですね」
「……わゥ」
 あたしはお姉さまに押しあてるように、頭を前に出す。頭も撫でて欲しくて。
 するとお姉さまはあたしの期待に応えてくれる。優しく、毛並みにそって撫でてくれる。次第にあたしはうつらうつらして――、

「5、4、3、2……」
 お姉さまの甘い声が、あたしの耳の奥に注ぎこまれる。
 こんなに傍でお姉さまの呼吸が感じられるのに、あたしの頭の中は熱っぽくて、お姉さまがどこにいるのかわからなくなってしまいそう。
「日付が変わりましたわ。はっぴいにゅーいやーです、みなも」
 蜂蜜みたいにトロトロと溶けたような、気だるそうな話し方。それはとても蠱惑的で――。
 もう、蕩けてしまっている。



終。

全体の表 >
今日だけは飼い主
 シチュエーションノベル(ツイン)。『惑わしの花びら』の続きにあたるお話です。
 ほのぼのとした雰囲気になるように書かせていただきました。(……が、妹さんの寂しさも見え隠れ)
 ……そろり、そろり。
 肉球のせいか、ううん、力なくゆっくり歩いているせいだろう、あたしは音もなく歩いている。
(ええと、ここは――何処……)
(そうだ、あたしは神様のところに……)
 ザラザラとした地の感触に、あたしは思わず爪を引っ込める。鼻をひくつかせるとイグサの香りに気がついた。
 ……これは、畳。
(“あの場所”にも畳があるの?)
(違う、あたし家に帰って来たんだ――……)
 ――朦朧としていた意識が、戻り始めていた。


「みなもお姉さん、たっだいまー!」
 元気に外から帰って来たみあおだけど、あたしの姿を見てから、真剣な表情になった。
「ん〜、みなもお姉さんって言うより、わんちゃんって言った方が良いのかなあ……」
 ……うぅ。
 あたしは言葉に詰まる。
 妹であるみあおから「わんちゃん」と呼ばれるのって、“お姉さん”として恥ずかしい。でも、あたしが今「わんちゃん」なのは事実だし……。
(そうなんだよね。どうして元に戻れないのかなあ)
 心は何とか人間に戻れたのに、身体は犬のまま。
 それどころか、意識して押さえていないと尻尾がパタパタ動くし、鼻はひくつくし、息が荒くなるし……。こんなんじゃあ、家事はどうすれば良いんだろう?
「わんちゃん、安心してね! みあおがご飯作ってあげるから♪」
「うわ、わん……」
 あたしは日本語とも犬の鳴き声ともつかない言葉を発して、曖昧に尻尾を揺らした。ご飯を作ってくれるみあおの優しさに喜んでいいのか、すっかり「わんちゃん」になった自分を悲しむべきなのか……判断がつかないせいだ。
 そんなあたしとは逆に、みあおはとっても楽しそう。何だか大きな本を大事そうに見ながら、目を輝かせている。
(料理本を見て、何を作ろうか考えているのかな?)
 みあおが食べたいもので良いからね、とあたしが言おうとすると――、
「わ! あぶないなあ、わんちゃんには玉ねぎをあげちゃあいけないんだって!」
「わ、わう?!」
 よく見たら、みあおの持っている本には『ペットと暮らす楽しい毎日〜わんこ編〜』と書いてある!
(ペ、ペットって……。わんこって……。あたしのこと?)
 みあおったらひどい! あたしは人間なのに!
(……今は犬だけど)
 でも、今は犬でも、いつもは人なんだから!
 あたしは不満気に口で本をつついてみたけど、みあおには伝わらなかったらしい。
「安心してね! 何かあったら大変だもん、玉ねぎは入れないようにするから♪」
 にこやかに笑うみあお。
 その太陽みたいな笑顔を目にすると、あたしは何も言えなくなってしまう。みあお自身は親切心でしてくれていることだから余計に。それに今の身体は犬だから、(大丈夫だと思うけど)念を入れる意味で玉ねぎは食べない方が良いのかもしれない。

 みあおは台所に椅子を持ってくると、その上に乗って手際良く料理し始めた。
 とんとんとん、一定のリズムで包丁の音が聞こえてくる。
 それに合わせて、あたしの両耳も小刻みに反応する。まるで音楽好きの小人があたしの頭の両端に立って、歌に合わせて踊っているみたいに、軽快に動く。
(……こういうのって、何だか良い気分)
 鼻歌を歌いながら料理をする人の気持ちがよく分かる。あたしは鼻歌の代わりに、尻尾を振った。右、左、右、左。ぱたむ、ぱたむ、ぱたむ。
 フライパンから食欲をそそる音がし始めた。食材を炒めているところなんだろう。
 調味料の匂いはしないけど、鼻に意識を集中させていると微かに食材の香りがする。これはピーマンと……キノコが入っているみたい。この二つの香りに惑わされて、他の食材の匂いがつかめない。
 フライパンの隣には鍋も置かれて、フツフツと音を立てていた。こちらからは濃厚なミルクの香りが漂っている。この匂いはココナッツミルクだと思うけど……、
(っと、いけない、いけない)
 歯と歯の間から唾液が零れてきて、台所の床を汚してしまった。
(みあおに見つかったら恥ずかしいから……)
 何とか自分で処理しようと、口で雑巾を咥えて零れた唾液の上に落とした。前足で拭こうとすると難しくって、仕方なく後ろを向く。
(これなら良い感じ!)
 猫が用を足したあとに砂をかける要領で……それよりはずっと力を抜くけど、後ろ足で器用に雑巾を動かしていく。雑巾のごわついた感触が肉球に触れ合って面白い。
(前、後ろ、前、後ろ)
(左、右、左、右)
 単純な動きを繰り返しているだけなのに、気分がすっごく良い!
 あたしがはしゃいでいると、後ろから笑い声がした。
「みなもお姉さん、尻尾も動いているよー! 本当にわんちゃんみたい♪」
 ぐさり。一応、意識は人のままのつもりだったから、みあおの言葉が心に刺さる。
 みあおは無邪気に言っているだけだから、悪くないんだけど……。
(でも、訂正しなきゃ。あたしはみあおの“お姉さん”なんだもの)
 楽しそうにしているみあおには申し訳ないけど、“お姉さん”として、本物の犬とは違うところだけは分かってもらわなきゃ。
「なあに? わんちゃんっ」
 あたしの目を見て、「言いたいことがある」のを察したのか、みあおはしゃがみこんであたしの顔を覗き込んだ。そんなに輝いた瞳を向けられると、わんちゃんでいいやもう、と思ってしまいそうでドギマギしてしまうあたし。
「わ、わう、わうわうわんうー、わん(あ、あたしね、床を拭いていたところなの)」
「? うん、うん、なあに?」
「わうわうわうくーん、うー、わんわんわん。う、わうー……わんわん(だから、犬とは違うの。見た目は犬……に近い……そっくり……かもしれないけど……)」
「? うん、うん、聞いてるよー!」
 一生懸命頷く姿勢を取りながら、顔をほころばせているみあお。
(だめだ、全然伝わっていない……)
「……わうー……」
 尻尾を落としながら、もとい、心の中で肩を落とすあたし。人間の言葉を話そうとしても、犬の言葉が出てしまうみたいだ。頑張ってみても、時々人の言葉が犬の言葉に混じるくらいが精いっぱい。
「みなもわんちゃん、落ち込んでいるの……?」
 顔を上げると、間近にあるみあおの顔が飛び込んでくる。首をかしげて、心配そうに覗きこんでくるその目は、さっきより寂しげで。
 ――みあお。
 そう言えば、お正月はあたしとお姉さまで出かけていて、みあおは一緒じゃなかった。
 あたしだって、どんなに毎日忙しくても家族と会えない日が続くと寂しくなる。頭では分かっていても、時々乾いた風で心が締め付けられてしまう。ましてや、妹のみあおなら……。
(もう、あたしのばか!)
 “お姉さん”なら、妹を悲しませたら駄目なのに。
「わうわう、わんわうわうわう!(そんなことないよ、みあおと一緒にいるんだもの!)」
 あたしは犬なりに笑顔を浮かべて、尻尾を力いっぱい揺らしながらみあおに話しかけた。……近所迷惑にならないように、小さな声で。
 言葉はわからないだろうけど、あたしの気持ちを伝えることは出来るはず。
 ――みあおは、察してくれたみたいだ。
「うん! じゃあ一緒にごはん食べようね!」
 みあおはお盆に飲み物と料理を乗せてあたしの目の前に置いてくれた。そのあと、鍋とフライパンに残った料理に塩味を加えて、みあお自身のお昼ごはんも作った。
「あ、みあおの分は居間まで持っていかなきゃだめかあ。みなもお姉さんもそっちで一緒に食べようよ」
「わう!」
 もっちろん、みあおと一緒にするよ。
 みあおは二つのお盆を持って、落とさないよう慎重に歩きだした。あたしは軽快な足取りでみあおについていく。みあおのまだ幼い背中を眺めながら。

 二人――、一人と一頭のお昼ごはんは、オムレツとミルクスープだった。これなら味付けすれば人間も食べられるから、ドッグフードを食べるより嬉しい。
 みあおも喜んでいた。それはきっと、共用出来る分手間がかからないからじゃなくて、あたしと同じものを食べることが嬉しいんだと思う。ドッグフードを食べるあたしの傍でオムレツを食べるみあお――これでは寂しい気がしたのだろう。
「いっただっきまーす」
「うぃんわわわーん(いただきます)」
「あははっ」
 微妙に人間の言葉が入ったあたしの犬語に、みあおが吹き出す。
 みあおの笑い声を聞けたのが嬉しくて、あたしも犬らしく舌を出して微笑んだ。
 みあおの作ってくれた料理は美味しくて、あたしは夢中で犬食いした。口から零れそうになった卵の端っこも、長い舌で器用に押しこむ。と、こちらを眺めているみあおの視線に気がついて、あたしはちょっと恥ずかしくなってしまった。
 ――あたしを眺めているみあおの瞳からは、強い喜びと好奇心が読みとれた。犬の飼い主のような保護者的愛情と、子供らしい動物への好奇心の対比が面白くて、愛おしかった。
(この瞳を曇らせたくない)
 あたしの中で強い思いが込み上げてきた。
 そんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、みあおは楽しそうに食事していた。
「わうわうわうう〜わん」
「よくかまなきゃだめ、でしょ?」
「わう?!(どうしてわかったの?!)」
 くすくす。みあおは一旦スプーンを置くと、口に手を当てて笑いをかみ殺していた。
「わかるよ〜、みなもお姉さんの口ぐせなんだもん……」
 くすくす。まだ笑いが止まらないみあおの太腿に、あたしは前足をトンと置いた。
(なによう、そんなに笑わなくったって)
 あたしも半分笑い、半分膨れたように、みあおの腿に顔を乗せた。拗ねているけど、甘えている。普段のあたしの態度とは少し違うけど、これでいい。だって今は犬の姿をしているんだもの。

「わんちゃん、散歩行こっ」
「わうっ」
 首輪に紐をつけるのはさすがに抵抗があったけど何とかクリアして、みあおに連れられて外に出た。
(姿が犬で、まだ良かったなあ)
 これが例えばこの前のケルベロスの姿だったら、こうやってみあおと散歩出来ないもの。
 安心するあたしの傍で、みあおは興奮している様子。
「えへへっ。散歩〜散歩♪ お散歩、散歩♪」
 普段犬と(あたしと)散歩することってないせいだろうか。今日になっても犬の姿のままなのはあたしには困ったことだけど、みあおがこんなに喜んでくれるなら、それはそれで良いのかもしれない。
(きっとすぐに元の姿に戻るだろうしね)
 だったら、今日はみあおと一緒に楽しんで過ごすことを考えた方が良い。
 あたしはさっきから、肉球がむずむずしていた。
(走りたい……走りたい〜!)
 出だしはゆっくり歩いていたものが、だんだんと速足になっていく。今は冬まっただ中だけど、冷たい風すら気持ちが良くて。フサフサのグレーの毛はあったかいし、冷えたアスファルトを裸足で歩いていたって身体が縮こまることはない。ただただ、気持ちが弾んでいく。
 ――勢いをつけて走り出そうとしたあたしを、紐が引きとめる。その先にはみあお。

「も〜、わんちゃんだめだよ。走ったらだめっ」
「ゥー……」
「ぅーじゃないもん。ここは歩道なんだから、わんちゃんが走ったら周りの人をびっくりさせちゃうよ? だから、だーめ」
「……くぅゥぅん」
「甘えてもだめ〜」
 ……ちぇ。
 あたしは心の中で小さくため息をついた。みあおの言っていることは凄く当たり前のことだし、普段のあたしでも同じことを思うはずなんだけど、今は本当に残念に思う。
「わうー(走りたーい)」
「だめー」
「わうううう(走りたいよー)」
「だめー。あ、そうだ! 近くにドッグラン付きの公園があったんだったあ。どうする?」
 ……無言でみあおのコートの端を口で咥えて引っ張るあたし。
「あははっ。じゃあ行こっか!」
 ドッグランには今流行りの小型犬が多くいて、あたしたちは怖がられないように、端っこで遊んだ。
 足に力を入れて、一気に走り出すと日頃のストレスが吹っ飛んで行きそうだった。
 あたしたちは何も持ってきていなかったけど、近くにいた人がフリスビーを貸してくれて、みあおもあたしも走りまわった。勿論、みあおと一緒に走るときはスピードを緩めて――……。
「わんちゃん、速過ぎ〜! 戻ってきてよ〜!」
 みあおの声に我に返って、急いで引き返すこともしばしば……。
 帰るとき、あたしはみあおが疲れていないか心配になって、背中に乗せてあげようとした。
 でも、みあおに断られた。
「みあお、まだまだ元気だもん!」
「わうー(でも……)」
「だいじょうぶ。一人で歩ける!」
 そう言って、小さな足でてくてくてくてく歩くみあお。やっぱり疲れているみたいだけど、一歩一歩が力強い。
(気合いを入れているのかな。自分自身に)
 みあおって、ガンバリ屋さんだからなあ――と、ぽつりと思い出す。
 あたしが考えているよりもずっと多くのことに、みあおは耐えているのかもしれない。
(それは想像でしかないけど……)
 だって、みあおはいつも笑顔だから。いつも元気そうにしているから。
(お姉さまとは違う意味で、みあおの心も……あたしには分かっていないところがあるのかもしれない)
 みあおもお姉さまもお父さんもお母さんも、大好きな家族だけど。
 家族って難しい。

 家に入るなり、みあおはあたしをブラッシングしたいと言う。
 専用のブラシを手にして、みあおは目を輝かせている。
(もう、可愛いなあ)
 あたしはみあおの目の前で伏せをすると、穏やかに目を閉じた。
 みあおはあたしの頭から始めて、慎重にあたしの毛を梳かしていった。
「だいじょうぶ? いたくない?」
「わうわう(気持ち良いよ)!」
「だいじょうぶなんだね! えっと、えっと……。どうですか、かゆいところはありませんかー?」
 みあおったら突然美容師の真似をするんだもの――あたしは笑ってしまった。
 しばらくして毛が梳かされなくなったから、あたしは瞑っていた目を開けて、そっと顔を上げた。
 みあおはブラシを持ったまま、寝息を立てていた。
(そっかあ、今日大変だったものね)
 あたしは静かに移動すると毛布を咥えてきて、みあおを包んだ。
 そして音を立てないようにあくびした。年末から色々あって、あたしにも疲れが出ていたのだ。
 あたしは眠りに落ちる前に、心の中でみあおに言った。

 ……ありがとう。今日はお疲れさま、飼い主さん。



終。

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羽は芽吹く
 天使病再び。『羽が生えたら』『羽が生えたあと』に関連したお話です。
 天使病の描写を含めて、PCさんの心情を中心にして書かせていただきました。最初は恐ろしく、次第に好ましいものへ。
 ……このあと、PCさんは無事に眠れたのでしょうか?
 他の人から見た自分と、自分自身が思っている己の性格とは必ずしも一致するとは限らないらしい。
 というのも、今日は友達からこんなことを言われたから。

「みなもって、姉妹だったよね? 一番上だっけ?」
「ううん、あたしは真ん中なの」
「うそー! でも、みなもはしっかりしているから凄いよね」
 ここまでなら、あたしは苦笑いして終わっていたと思う。いつものことのように「家族は忙しいから、自分でしなくちゃいけないことが多いの」って言いながら。
 でも今日は違っていた。
 別の友達がこう言ったのだ。
「みなもって、何でも出来るよね!」
「そうそう〜。私が出来ないことでも、みなもはササっとやっちゃうんだよね! 私を軽く飛び越えて行っちゃうの」
「それはあなたがダメなせいもあるでしょ〜。みなもは完璧なんだから、あなたと比べること自体が失礼なの!」
 そう言って笑い合う友達。
(……違う)
 友達は、単純にあたしのことを褒めてくれているだけ。
 悪意がないのはわかる。
(でも、違うもの……)
 あたしには出来ないことだらけ。家事と勉強。人間と人魚の間に挟まれて、いつも迷ってばかりいる。何かで一番になった記憶もない。みんなに置いていかれないように、地道に勉強して、人魚の能力を高める練習をして――それでやっと人並みに追いつけるくらいなんだから。
 天才でも秀才でもない。人間でもなければ人魚でもない。完璧な存在になんかなれない。それがあたしだった。


 自分で考えているよりも、あたしは落ち込んでいたらしい。
「…………うぅ」
 なかなか寝付けなかったのに、目を覚ましたのは夜の二時だった。
 ――背中が汗で濡れていた。
 起き上ると胸の谷間からお腹の窪みまで汗が垂れていって、寒気がした。頬に張り付いた髪を指で梳いて、あたしはため息をついた。
 ……嫌な夢だった。
 夢の中では、あたしは抜き打ちテストを受けていた。見たこともない英単語が並んでいて、周囲からは答えを書き込む音だけが聞こえる。あたしは自分の白紙の答案と向き合いながら、指が震えそうになるのを堪えていた。
(本当に嫌な夢……)
 汗を拭いて下着を替えても、また布団に潜り込む気にならなかった。
 眠気も飛んでいたし、今寝ている場合じゃない気がしたのだ。深夜だって言うのに、変だけど。
(…………)
 何回か寝返りを打ったあと、あたしは明りをつけて机に向かった。
 どうしてもあの夢が気になって眠れないなら、いっそ少し勉強した方が良い。焦る気持ちが静まれば眠れる気がしたからだ。
 宿題はもう済ませていたから、本棚から参考書を取りだした。今から計算問題をやるのは頭がハッキリして逆効果になりそうだったから、英単語を覚えよう。問題を解く訳じゃないから、眠くなったときにすぐやめられるし……。
 ページをゆっくりと繰っていく。このページはもうやったし、次のページも、その次も、もう……。
 ――懐かしい香りが、あたしの鼻腔を通りぬけていった。
 お日さまに当たった本の匂いだ。この参考書は、数か月の間、本棚に置いたままだった。本は変色していないものの、雪色の薄いカーテンを通して、淡い陽の光の湖へ浸されていったのだろう。
(最近は開いてなかったものね、この参考書……)
 本はインテリアじゃないのにね。自分に苦笑いしたくなる。
(あれ? でも……待って)
(理由があった気がする……この本を開かない……理由……)
 そのとき、参考書から何かが落ちた。
 それは風も切らずに、ゆっくりと、柔らかく机の上に着地したのだった。

 ――純白の羽。

 次の瞬間、あたしは身体中の毛が逆立った気がした。
 その羽が何を示すものなのか、何でこの参考書を開かずに置いていたのか。その理由を明確に思い出した。
(天使病……!)
 羽を介して、触れるものを天使にしてしまう、あの病。
 なのに、今、触ってしまった!
「だめ!」
 咄嗟に自分の肩を抱いて、爪を立てた。今の内に抑え込めれば、と思った。
 ギリギリと、鋭く爪で刺激している肌――よりもっと深いところから、神経が、血液が、鼓動が、息付き始めるのを感じた。ズクズク、ズクズクと、内側から外側へと幾度も突いてくる。あたしではない生命が蠢いているのだ。
「…………だめ……」
 ――捩じれた声があたしの唇から零れていった。
(完全に抑え込むには……もう……遅い……)
 椅子から転げ落ちても、あたしには起き上る力さえ湧いてこない。
 身体の中を流れている血が、蛇のように畝っていた。
(目覚めちゃったんだ……天使が……)
 その衝撃は、天使の目覚めと表現するには生々し過ぎるものだった。


 数分の間が永遠にも感じられた。身体は石のように強張っていたけれど、あたしの意識は天使病によってグニグニと潰れて消えかかったり、そうかと思えば突如として膨れ上がったりしていた。
「あああああぁぁぁああああ……」
 痛みに耐えられなくなって悲痛な叫び声を発していた筈なのに、だんだんと自分の心持ちがわからなくなってくる。
(だって天使になれるんだから)
(純粋な存在になれる)
(自分に落胆しなくて済む、もう、何も感じなくても――)
 肌から溢れ出て来そうになる、幾つもの羽たち。その焼けるような痛みを待ちわびていたような錯覚さえ――。
(だめだめだめだめだめだめだめだめだめだめ)
 あたしは自分自身に鞭を振りおろすような気持ちで、幾度も流されそうになる意識を留めていた。我を忘れてしまったら最後、あたしの身体は天使に侵されてしまうだろう。それだけは避けなければいけなかった。

(逆にこれはチャンスなのかもしれない)
 と、あたしは自分を勇気付けた。
 この天使病を制御することが出来れば、あたしは自分自身の能力に対して自信を得られる。
 だって、以前出来なかったことが、ここ最近の経験を経て出来るようになったことが証明される訳で――これはとても嬉しいことだから。
 そして同時に、自分を安心させられることでもある。
(……落ちこぼれ人魚じゃないんだ、って思える筈だから)
 劣等感から生まれる希望。それがあたしの意識を繋ぎとめていた。


 左目の瞼に同化している“逆鱗”で羽をつぶさに観察すると、やはり羽から一筋の光が零れている。
(これが神力……?)
 あたしには判断がつかないけれど、この光の輝きは生命の瞬きのよう。触れることによって、その瞬きを体内で共有することになってしまう――、
「…………ッ」
 あたしは自分の体内に入り込んでいる、その光を包み込むように、ケリュケイオンを光の中へ混ぜていった。
(体内で行うのは初めて……)
 ――ピクン。つま先が小鳥のように微かに震えた。
 ケリュケイオンの金属的な感触と、温かな天使の生命が融合していくのは、何だか変な感じ。
 痛みを通り越して、くすぐったいような、身体を引っぱられるような――。
 甘い声があたしの唇から零れた。
 あたしは理性と本能の間で、軽く身体をよじったり、ピンと伸ばしたり。猫のように、しなやかに動く。
 ケリュケイオンを混ぜてさえしまえば、天使病を制御するのはずっと楽になった。
 ――と言っても、暴走しない程度に防げる、というだけだけど。
 羽を一枚一枚折りたたむように、あたしの肌の下へ仕舞い込んでいくのだ。肌と羽が擦れるような感触のせいで、あたしは何回も笑いそうになるのを我慢しなければならなかった。
 ……もし笑い転げてしまったら、勢い余ってたくさんの羽を皮膚から出してしまいそうだったから。天使というより、不格好なヒヨコみたいに。
(初めてのことなんだから、ゆっくりやっていけば良いもの)

 そうして、あたしなりに天使病を制御出来た――と感じた頃。
 あたしは鏡を見ながら、優しく自分の肌を撫でてみた。頬を触って、首筋を通り、鎖骨の窪みに指を滑らせて、胸の膨らみをなぞった。
 撫でていくと、小さいけれど不自然な凹凸が肌にあって、肌に隠された羽の存在を感じられる。
 鏡に映った姿は、遠目ではいつもと同じ姿に見えるものの、近付いて見れば違う。白い肌が薄く透けていて、その中では真っ白な羽が微笑むように広がっていた。
 以前、天使病に罹ったときとは違う結果だ。
 ……出来たんだ、あたしにも。

 あたしはもう一度肌を撫でて、ゆっくりと息を漏らした。
 ――肌の奥から、ひとつの生命が甘く香り立つような気がした。



終。

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ホットミルク
 天使病に冒されたPCさん。一夜明けて良くなったと思いきや……?
 ――浅い眠りを繰り返している内に朝が来た。
 目覚ましを止めてムクリと起きたあたしは、深く呼吸をした。
 ――長い夢を見ていた気分だった。
(だって天使病なんて、おとぎ話みたいなんだもの)
 身体の内部から突き上げてくる羽の群れの感触ですら、時を隔ててしまえば遠く感じる。
 けれど。
 肩の小さな膨らみから肘の窪みまで指でなぞって、あたしはため息をついた。
(……夢じゃないから、困っちゃう)
 凹凸のある、およそ人間の肌とは思えない感触。
 薄い肌は少しの刺激で破れ、羽が表へ溢れてきてしまう。
 この皮膚自体が天使病に冒されて形成されたものだから、破れても痛みはないけれど。
 でも、羽が内側から肌に小さな穴を空けて芽吹いて来るというのは、後に変な気持ちを残していく。
 それは微量な電気が神経を通っていくような感触で――、まるで水浴びをした鳥のように羽を震わせたくなるようなものなのだ。

 嗚呼、もう何だか。
 嗚呼、もう何だか。

 もういい、こんな日は学校をお休みしよう――と思えたら良いのだけど。
 色々な事情で突発的に学校を休むことになる自分の生活を省みれば、前期の内に一日でも多く出席日数が欲しい。
(ああ、でも……どうしよう?)
 時計とにらめっこしながら悩んだものの、結局は登校することに決めた。
(ほら、前に天使病に感染したときも学校に行ったけど、大丈夫だったもの……!)
 と、あたしは自分を励ました。
 実際は包帯でぐるぐる巻きにした身体で登校したのだから、大丈夫と言うには無理があるけれど……。出席日数のことを考えたら、無理やりでも「大丈夫」な状態にするしかないのだ。

 汗が凄くなりそうだったし、前回のときには随分友達に心配されてしまったから、包帯で怪我を装うのはやめた。天使病の症状の進行はある程度自制出来るのだから、もっとシンプルにいこう。
 あたしはパジャマを脱いで、部屋の鏡の前に立った。
 まずは深呼吸を二回。目を瞑って。
 ケリュケイオンの力を借りながら、ゆっくりと羽を皮膚の中へ織り込んでいく。
 ――それから目を開けて。
 肌を露わにしているあたしが映る。
 幾分透けた肌の下では、雪のように白い羽が微笑んでいた。
(これを隠さないとね……)
 こういうときは“生きている服”が役に立つ。
 これをあたしの肌に擬態させるのだ。例えるなら、傷ついたテーブルの上へ極め細やかな絹のテーブルクロスを広げるように――見られたくないものは覆って隠してしまえば良い訳だ。
 ただし匙加減が難しい。
 太陽の光を浴びたときや、蛍光灯の青白い光に照らされたときの肌の色合いや透明度、触ったときの滑らかさ、細やかさ……。あまりに大雑把では人間の肌でなくなるし、かと言って象牙のような肌になってもおかしい。
 まずは白く不透明な肌を作ってあたしの身体を覆い、それを徐々に変えていくことにした。透明度を上げ、色を血の通った人間のものへと。
 陽の光を混ぜたような白い肌の完成に、あたしは心の中で吐息を漏らした。朝も感じていた、遠い夢を見ているような気がした――、


 その甘い吐息は、外に出てすぐに焦燥を帯びたものへと変わった。
 天気が不安定な最近では、この前のお天気雨が嘘のように暑かった。アスファルトは熱い息を放ち、あたしのスカートを汗で湿らせた。
 背中もじんわりと汗をかき始めてきたが、するとそこが痒くなってきた。
 内部から“何か”でつつかれているような感触で――、冷や汗が首筋から滴り落ちた。
(羽が芽吹こうとしているの?! 汗の刺激のせいで?)
 すぐに対応しようにも、目の前が歪んでくる程に熱い。心が乱れてしまいそうなくらいに。
(何とかしなくちゃ……)
 あたしはなるべく身体を刺激しないように、しかし速く、早歩きで学校へ向かった。

 高めの温度設定とはいえ、冷房の入った校内は涼しくて、汗も引いた。
 気持ちも落ち着いたせいか、あたしは壁にそっと手を添えて、深く呼吸をしただけで事を終えることが出来た。
 授業が始まってしまえば、羽のことも忘れられた。
 決して成績が上位とは言えないあたしにとって、授業中に他のことを考える余裕なんてなかった。テスト前のこの時期だからこそ、学校を休まずに来たのだから。
 先生が板書することをノートに写して、重要そうなところにはオレンジ色の細いボールペンで花を描いた。
 解けない問題もあって気持ちが暗くなりそうだったけど、解決のポイントを書いたポストイットの色が偶然今日の天気と同じ空色で、そんな些細なことに救われた。
(……焦ったって仕方ないよね)
 家に帰ったらノートを開こう。あくまで気楽に、問題を解いてみよう。
 そう思った。

 それなのに、

 不安を晴らしてくれたのが空色の文房具なら、あたしを暗く突き落とすのは現実の空の色だった。
 ううん、原因は水だ。
 授業が終わって家に帰ろうとすると、雨が降っていたのだ。
(こんな日に雨が降らなくったって、いいじゃない……)
 朝は晴れていたせいで、傘は持ってきていない。
 学校がいくつか用意している置き傘は全て貸出中になっていた。同じように傘を持って来なかった人が多いのだろう。
(仕方ないかあ。濡れて帰るしかないよね……)
 諦めて走り出し、校門をくぐる頃になって、あたしは大きな間違いを犯したことに気がついた。

 忘れていたのだ。水に触れると人魚の力を活性化させてしまうということに。
 本能が理性を超えることだってあるということに。

 背中から羽の群れが現れてきた。
 それはいとも簡単に擬態させていた肌を突き抜けてしまっていって、あたしの心に小さな芽生えを残していった。
 ――心地良さという、芽生えを。
 今や、羽はあたしの皮膚を土として、花のように咲き誇り始めていた。雨を滴らせた羽はますます息づき、雨を吸いこんでも小さく萎みはしなかった。
 それどころか、膨れ上がるようだった。
 羽はその繊細そうな先端まで己を力強く広げ、弓のようにしなった。雨は力強くアスファルトを叩き、あたしの髪も、肩も、靴のかかとも激しく打っていた。
 目の中に入りそうになる雨を手の甲で払いながら、あたしは走った。走って、走って、心臓がおかしくなりそうなくらい脈打っていた。

 ――大丈夫、誰にも見られてなかった!
 ――大丈夫、誰にも見られてなんかなかった!
 ――確かに誰もいなかった!
 大丈夫! 大丈夫! 大丈夫! 大丈夫……。

 学校の敷地内に戻って、近くの倉庫の中へと滑り込んだ。
 ここは運動会の道具から文化部の道具まで置いてある所で、今の中途半端な時間には誰も来ない筈だった。
(それに、ここには演劇部の道具もある。いざとなったら……)
 早鐘のように鳴り響く心臓に逆らうために、あたしは急いで考えた。いざとなったら、演劇部の新しい小道具が届いたことにすればいい。その試着だと言おう。だけど恥ずかしい気がしたから、誰にも見せたくなくてここで確認しようと思った――そう説明しよう。だからこんな暗い倉庫に一人でいたのだと。あたしは演劇部にも入っているのだから、不自然ではない筈だ。
(大丈夫、大丈夫……)
 呪文のように同じ言葉を繰り返していたら、やがて乱れた羽も落ち着いてきた。
 今、嘘のように不安感は消えていた。
 後に残るのは――、

 一つの空想。

 まるで絵画を眺めているような気分だった。
 それは遠い遠い夢物語を絵にしたもので、深海を泳ぐ少女たちが描かれているのだった。
 碧い視界を俊敏そうに泳ぐ――、人魚の姿をした少女の背中には翼があるのだ。
 その翼は天使のように横に広がりを見せたものではなく、少女を包み込むように半円を描いている。羽は少女を守る盾であり、一目で少女を異質にする鎖であるようにも思える。
 そして一人の少女は、その半円状の翼を広げて他者を抱え込んでいた。抱きしめているようにも、慈愛深く癒しているようにも、ただ相手の哀しみを受け入れているようにも見えた。
 混沌とした、意味のわからない絵の中で、一つ確かなことがあった。
 ――この絵はあたしの心を掻き立てる。

 暗い倉庫の中で一人きり。あたしは指先を自分の羽に這わせた。
 今、自分の羽の形がどうなっているのかを知りたかったから。
 手探りで羽の先から根元へ指を滑らせていくと――胸が高鳴った。

 何処からともなく、甘い匂いがあたしを包み込み始めていた。



終。


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『ホットミルク』の続きにあたるお話です。
 甘いミルクの匂いというのは母性というか、包み込んでくれるイメージがあります。羽のイメージに近いかな、と思って入れました。
 学校から帰宅して、夜、布団の中であたしは考えた。
(天使病に取り込まれてしまったんじゃない、あたしが天使病を取り込んだの)
 そう言える状態にしたい。
 ピンチはチャンス。天使病に冒されきった身体をどこまで制御出来るか――。
(どうせ今は眠れない夜だもの……)
 寝返りを打ちながら朝が来るのを待つよりは、甘美な野望を抱く方が良い。

 月明かりが零れる部屋で、あたしは本能の赴くまま身を委ねた。
 透き通った肌から羽が一枚一枚、顔を出す。
 ぷつり。ぷつり。羽が芽吹いていく。
(う……)
 あたしは身体を震わせた。薄い肌を突き破られていく感触が、あたしという水面に波紋を立てた。
 羽はますます勢いをつけて。
 仄暗い中でも光を求めるように、柔らかなその身を広げていく。
 そこには天使の羽という無垢なイメージとは程遠い、貪欲さがあった。
(飢えているのね……きっと……)
 無理に制御され続け、あたしという中に羽を押し込められていた“天使”は――確かに、自由に飢えていた。
(いいの……今は……解放して……)
 無数の羽が伸びていくのを、あたしは感じていた。
(…………!)
 まるで自分の身体が伸ばされていくような心持ち。羽の中に神経が張り巡らされているみたいだった。
 じんわりと広がり続ける羽と、羽。
 羽同士が触れ合う度、柔らかくくすぐられているような感覚に襲われて、あたしは小さく声をあげた。悦びとも悲鳴ともつかない、一瞬の吐息を。
 ――甘い香りがする。
 花の香りとは違う、砂糖を入れたホットミルクみたいな匂い。
 甘く、幸福に包まれるような……気持ち。
 ――伸びきった羽が、あたしの身体を包み込み始めていた。

 全身が羽に覆われていた。
 歩こうと思って、足を畳につけただけで……だめ。
「ふふっ……」
 くすぐったい!
 それに羽のせいか力が出なくて。笑いだした拍子に膝が折れて、あたしは畳に倒れ込んだ。
「きゃあっ……ふふふ……く」
 くの字に身体を曲げて。あたしは笑いを抑えられなかった。数え切れない数の羽と畳の目がこすれあって、くすぐったくてたまらなかった。
 今や翼と化した手足では、役に立たなかった。力の入れどころがわからなくて、手で物を掴むことも出来なかった。
 羽となった指先で布団をなぞると、羽の膨らみを通してひんやりとした布団の温度が伝わってきた。撫でているのか撫でられているのかわからなくなる。
 背中を畳の上に投げ出したときが一番気持ち良い。
 ザラザラとしたイグサの感触と匂い、羽の柔らかな感触と甘い匂いが混じり合って、あたしの身体に快楽をもたらした。
 そこには浮遊感があった。
 絵に描いた雲の上に、寝そべっているみたい――。
(そうだ、浮遊……)
 羽があるのだから、宙に浮けば良いのだ。
 あまり羽ばたいては天井に頭をぶつけてしまうから、そっと……そっと。
 ゆっくりと全身の羽を震わせて、あたしは宙に浮いた。
(出来た……出来たっ)
 天使病に初めて感染してから経験を積んでいるだけに、以前より上手く扱えるのだろう。
(すっごい……あたしにもやれたんだあ……)
 羽の動きを調節しながら、あたしは失敗しつつも前に進んだ。
 口で部屋の電気をつけて。
 この姿を一目見ようと、鏡の前に降り立った。

「いや……いやああああああ!」

 唇を割いて溢れてくる悲鳴を、押し込めるのが、どれだけ大変だったか!
 鏡には顔から胸から手足から……羽を伸びきらせた、奇妙な生き物が映っていた。
 天使のイメージからほど遠い、気味の悪い姿――。
 小さく震える羽は、透明な肌を突き破ってぶるぶると蠢いていた。
(こんなの、こんなの……あたしじゃない!)
 い、や、ア、ア、ア。
 ――歯茎に違和感を覚えた。
(何かが――)
 うぞうぞと、歯の間を割って生えてきたそれは、見るまでもなく羽だった。
 口を閉じても、ふっくらした唇の間から、零れ出てくる。柔らかく、しなやかに。
 羽は穏やかにあたしを冒す。あたしの乱れた感情を突いて。

 目を開けても、純白の色しか見えない。
 目の前は羽で覆われてしまった。
 見えないけど、後ろもきっとそうなんだろう。
(……繭、みたい)
 羽で塞がれた口の中で、呟いた。
 この姿を人が見たら、どう思うんだろう。
 あたしって何?
 あたしってどんな存在?
(お父さん……あたし、こんなの嫌……)
 ――ふいに、お父さんの手紙のことを思い出した。

『失敗してもあまり落胆しないように。時間はたっぷりあるのだから、「きっといつか上手くいく」と大きく構えていなさい』

 お父さんの優しい声が頭の中に響いた。
 そうだ、お父さんは前に、そう書いた手紙をくれた。植物化に失敗して、異形の姿になったときに、そう励ましてくれたんだ。
 こんな姿のあたしでも、家族なら、きっと――。
 羽がふわりと動き始めた。風に揺れる木々のように。
 静かに視界が開けていった。
 鏡の前に現れたのは、羽の塊のようなあたしだったけど、もう悲鳴は出てこなかった。
 かわりに。あたしは鏡に向かって、微笑んだ。
 唇から零れていた羽の群れが、中へと戻って行く。

 繭に包まれた蛹だって、いつかは羽化する。


終。

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ループ
『繭』の続きのお話です。
 天使病に冒されるPCさん。『繭』よりもおどろおどろしくなりました。(私のせいです;)
 繭から出たあたしは、身体に違和感があった。
 生温い泥の中に沈んでいくような気分なのだ。
 否、この表現は正確ではない。
(欲望の沼に身体が沈みこんでいくような――)
 意識の中で、足をつけて立っていても、ズブズブと沼の底へと引き込まれていく。魅力的な欲望だ。

 欲望とは何か?
 それは勿論天使の、

(だめ、足を取られる……!)

 ぐるり、
 と身体が回転して、あたしは畳に倒れ込んだ。
 繭から解放されて、人間のモノに戻っていたあたしの足が、再び羽に覆われていた。
 以前より酷い。羽の塊そのものだった。
(芯、がない。完全に)
 あたしの足だった筈の塊は、今やあたしのため息一つでフワフワと揺れている。
 足として全くの役立たずの存在。
(それがどうしてこんなに心地良いの?)
 足の指だったところ――羽の先っぽから始まって、足の甲だったところ、ふくらはぎの膨らみへと蕩けていきそうな感覚が走っている。
 痛みさえ感じない。
(これは“揺らぎ”)
 意識の揺らぎだ。寄せては返す、反しながらじわじわと寄せてくる、天使の欲望なのだ。
(だめ……)
 太ももまで、揺らいだ。
 くっついていた両足の太ももが、羽の重なり合いになって。急激にくすぐったくなる。
「……ふふ」
 小さな笑い声を零し、足を少し開いてしまうと、今度はその刺激で足の付け根が揺らいだ。

 ――あたしの身体に何が起きているんだろう?

 上半身だけで這いずって鏡の前に行くと、奇妙な姿が映っていた。
 下半身は雪のように白い塊と化している。
 反して、上半身はと言えば、ヒトの形をしていた。薄くなった肌に一つ一つの羽が折り畳まれた、天使病の姿をしていたけれど。
(どういうこと?)
 上も下も天使病に冒されているのは同じ筈なのに。
 形が違う。感覚が違う。
 ここには二つの天使病がある。
(わからない)
 ……沼へ引きずりこまれていく。
 腰が蕩けていったので、あたしは心の中で呟いた。
(……また、揺らいだ)
 ――舌の上に違和感がある。
 また羽が生えてくるのかもしれない――ぼんやりした頭で、あたしは思った。

 ぼんやりしていたのは、眠かったからだ。
 数時間前の出来事で疲れていたのだろう。
(だめよ。天使病に冒されている最中なんだから……)
(こんな……ところで……寝たら……)
 精神も、肉体も、奮い立たせようとしたけど、どちらも蜜蝋のように溶けて混じり合い、形をなさなかった。
 あたしは眠りに落ちていく――……。


 夢の中で、あたしは大きな白い塊になっていた。
 隣には、風になったもう一人のあたしがいた。

 風のあたしが、その白い塊へ息を吹きかけると、表面がぶるぶると震え出した。
 それは、一つの物体ではなく、小さな羽の集まりだったからだ。

 きもちがわるい、とか、きみがわるい、とは思わなかった。
 あたしは、受け入れていたのだ。自分が羽の集合体であるという事実を。

 でも、風であるあたしは、その受け止め方を普通とは思わなかった。
 きっと、羽のあたしはあたまの中まで羽でおかされてしまったからだと、考えていた。
 のうまで羽になったら、もうきみがわるいかそうじゃないかの判断さえつかないんだと、ぼんやりと、思った。

 ……ぼんやりと。


 耳障りな機械音で、目が覚めた。
 上半身だけでも起き上ろうとして、崩れ落ちた。腕が、羽の塊になっていたからだった。
 崩れ落ちても、痛くなかった。もうぶつけて痛む胸がなかった。そこは白い羽で覆われていたからだ。
 ほとんど、芯のない、身体になってしまった。
 それでも、首や顔は、残っていた。
 首まで羽になってしまっては、頭を支えられない。
 頭まで羽になってしまっては、もう、考える力さえなくなってしまうかもしれない。畳の上をコロコロと転がるだけの、しろいしろい、物体になってしまうかもしれない。天使なんて、名ばかりの。
 眠っている間に、そんな酷いことに陥らずに済んだのは、ケリュケイオンのお陰だろう。本能で、回避してくれたのだ。
 最近は、無意識に発動出来るようになってきたのか、あの耳障りな音も意識しなくなっていた。だから、久々に音を聞いた気がする。
 ――大きく深呼吸をした。
 腕の付け根から、肘、手首へと、ゆっくりと肌の内側へ羽を仕舞い込んでいく。
 きちんと、ていねいに、一枚一枚の羽を畳み込み、皮膚が膨らまないように注意した。
 胸も同じように。徐々に、身体が重くなり、弾力のある肌に戻っていく。
 繭になったときと違って、あたしはとても、れいせいだった。

 足の裏まで羽を肌の中へ畳み込むと、あたしは鏡に肌を押し付けた。
 鏡のひんやりとした、硬い感触が肌に当たった。皮膚の内側で、僅かに羽がざわめいていた。
 あたしの顔は鏡の間近にあった。
 ……あたしは、とても、れいせいだった。
 だから、さっきから一つの疑問が湧き出ていて。
 こつん、と鏡に頬を当てて、心の中で問いかけた。

 あたしの、のうは、羽におかされていないだろうか?
 ――足の指先が、ジリジリと、疼き出していた。



終。
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混じり合う水
『ループ』の続きにあたるお話です。
 初めてPCさんを書かせていただいたお話で出した湖を再度出しました。
 繋げてみたかったのです。
 学校帰りに湖へ寄った。
 ここは昔からあたしが一人で遊んでいた場所で、人魚の力に目覚めた頃は毎日のように来ていた。
 肌寒くなってきた季節なのに、ここは豊饒な土の匂いと、透明感のある葉に包まれていた。
 風はなく、湖は凛と咲く花のようにそこにある。
 嘘か本当か知らないけれど、この湖には精霊が住むという。確かに、あたし以外の人間をここで見たことがなかった。
(だから、よくここに来たんだよね)
 人魚の力に目覚めたとき、毎日が不安だった。
 自分の身体が変わってしまったという不安、人間の世界から弾かれてしまったような疎外感からくる不安、人魚の世界と馴染めるのかという未知への不安……。
 人間にも人魚にも、あたしを受け入れてもらいたかった。
 だけど、誰にも見られたくなかった。事実と向き合うのはとても怖いことだった。
 人のいない湖は、あの頃のあたしを癒してくれた。
 ――久々にここへ来たのには理由がある。

 水が恋しい。
 水が恋しい。

 先日からあたしは激しい飢えを感じていた。
 臓器から、皮膚から、喉から、心から、あたしは水が欲しかった。欲しくて欲しくてたまらなかった。
 人魚の本能、なんだと思う。
 何かが変なのだ。あの羽に冒された日から――、

 夕暮れの湖はオレンジの光を受けてキラキラと輝いていた。
 あたしは服を脱いで湖にそっと足だけ浸からせた。
 季節柄、水は冷たいだろうに、寒くない。水は生温かくさえある。
 まるで、水という一つの巨大な生命が、湖の底で蠢いているよう――。
 ……ふう、と小さく息を吐く。
 本能が自然にあたしを人魚の姿へと変えていく。二本の足首は鱗で覆われ、一本の太い尾ビレへと。
 程度の差はあれ、変化への痛みは完全に消えてなくなることはない。決して。
 なのに心地良い。頭の中で白いモヤがかかり、あたしの感覚を鈍らせる。
(これが人魚としての……)
 あたしの中で一個の生命が跳ね踊る。
 人魚という生き物に、あたしの身体は支配されているのだと思う。
(人魚も人間も、どちらもあたし自身なのに……時々、わからなくなる)
 ズクズクと、皮膚が疼きだす。言い知れぬ不安を呑み込み、飢えて飢えて、目を覚ます。

 天使が産声を上げる。

 オレンジの光を浴びた、薄い皮膚から、白く小さな羽が咲きだした。
 繊細そうな、透明感のある白い羽らが、ふるふると震えて、更なる羽を呼び込んでくる。
 太く分厚い尾ビレから、羽が出てきた。鱗という蕾を破り、弾むように羽ひらく。
 湖はそのたびに波紋を作り、水面に大きな花びらを作っていく。
 ――痛い!
 いたいたいたいたいたいたい。たすけてたすけてたすけて。
 唇から激しい音が溢れていく。あたしの悲痛な声も、羽の群れに呑まれていって、そこは白い塊しかない。
 羽がブルブルと踊り狂い、歓喜の言葉を語りだす。
 すてきよ、みなも。すてき、すてき。いのちの、たんじょうなの。

 ねえねえみなも、いたいの、いたいの?
 ほんとにいたいの? もう 大丈夫 なんじゃない?
 いたくないよね、いたくないよね。
 みなも、みなも。もういたくないでしょう? ほんとは ずっと前から――……、

 耳の奥で、ゴウゴウと、風の音がする。
 羽の言葉が、聞き取れない。

 耳の奥で音がして止まないのは、そこから羽が生えてきたからだった。
 歯の間から、羽たちが目覚め出ていく。
 舌の小さな突起を種に、羽が狂い咲いた。
 口を閉じても、間から出ていく羽たち。
 あたしは強い渇きを感じた。羽が生えても羽が生えても羽が咲いても羽が震えても、まだまだ。まだまだ欲しい。
 ゴウゴウ、ゴウゴウ。
 視界が白く覆われてきた。目も羽に冒されているんだと思った。
 ――だけどそれがなんだっていうんだろう。
 太陽が昇れば、花が咲く。
 誰がそれを止められるっていうんだろう。

 そうよ、みなも。みなもが正しい。
 だってもう、わたしたちは みなも そのもの になるの。
 みなもはわたし。わたしはみなも。そうなるの。

 風の音の外で、羽が何か騒いでいる。
 聞き取れないけど。
 頭の中が真っ白になって、軽い頭痛がする。
 もうなにもかんがえられなくなってしまう。

 きこえない? きこえないの、みなも?
 みなも、みなも。みなもみなも。
 きこえるはずよ。あなたの 耳は 羽という せいじゃくの みずのなか。
 さあ、目をこらして。しろく すきとおった 羽の目で。

 白く冒された空間から、確かに見た。
 半透明の柔らかな肌をした天使を。
 彼女はあたしの羽の塊と違って、絵本に出てくる天使のように気高く見えた。
「みなも。私と一つになりましょう」
 穏やかな声が、あたしの中に響き渡る。胸の中で淀みなく染み込んでいくその声は、あたしそっくりだった。
「あなたは私。私はあなた」
 彼女の指が、あたしの羽先に触れた。指の爪と白い塊が混じり合い、砂の城のように崩れていく。
 嗚呼と、吐息一つ零れていった。
 ほろほろと、落ちていくあたしと彼女の砂たちは、湖の底で一つになった。
 水はうねる。あたしと彼女と湖が一個の生命になるように。
「参りましょう」
 陽だまりのように温かな話し方。
 相反して、あたしの身体は激しい痛みに襲われた。
 のたうち回る身体もなく、あたしは涙をぽろぽろと流した。それも湖に溶けてしまった。
 いや、涙も彼女に溶けてしまった。
 彼女の声に包まれて、それはとても居心地が良く。
 痛みも辛さも彼女の声に溶かしこまれてしまったよう。
 崩れたあたしたちの身体。こうして混じり合っていると、胸の中で込み上げてくる感情がある。
 これが歓びということなのだと、彼女は言った。
「これでもう大丈夫。あなたは私。さあ、心の目をあけて」

 夕闇の中で、あたしは陸に上がっていた。
 濡れた肌には土が張り付いて、蒸れた自然の匂いがした。
 足が二本あった。裸足には土の感触が気持ち良かった。ひんやりとした土に触れたことで、今の季節を思い出した。
 ――羽は一枚もなかった。
 肌についた土を払い……こんな状態なのにあたしは落ち着いている。
(さっきのことが何だったのか……わからないけど……)
 天使病は怖いものではないと思った。

 なぜなら、
 あたしはあなた。
 あなたはあたし。
 


終。
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予報通りに雨は降る
 シチュエーションノベル(シングル)です。
 初めましてのPCさんです。SF&老科学者との恋愛話。怒るときに方言が出るのって可愛いです。
 雨が降っている。
 綾鷹郁は壁に寄りかかりながら窓を眺めていた。
 どうせなら、晴れの日が良かった。その方が暗い気持ちにならなくて済んだ筈だ。
「予報でも雨だったから、仕方ないわね」
 自分に言い聞かせるように呟いた。涙が溢れそうだった。


 時代は流れて、今や太陽は老いてしまった。黄昏の国の科学者は長年培って来た知恵を絞り策を立てたが、失敗が続き、財政難にあえいでいた。
 そんな中、黄昏の国の老科学者がTCの旗艦を訪ねて来た。一国では厳しくとも、TCと共同で太陽のカンフル爆弾を開発出来ればあるいは、とのことだった。
 今年六十になる老科学者は、目に力があった。笑うと目の横に笑い皺が出来て、白い歯が見えた。普段は老けていたが、笑ったときだけ若く見えた。

 イイ。
 郁は思った。最近のチャラ男ばっかりの世界には、もーうんざりしていたのだ。
 研究第一の男。硬派な男。うん、彼に決めた。
 
「好きになりました! あたしと付き合ってください!」
「………………ハぃ?」
「年の差は気にしませんから、大丈夫!」
「私は気にするのだが。それに君、妻は亡くなったとは言え……私の娘は君より年上なんだよ」
「あたし年上の娘が欲しいと思ってました! 偶然ですね☆」
「年上の娘て」
「お弁当作ります! タコさんウインナー作れるんですよ!」
「私でも作れるよ……」
「得意料理は冷ややっこです!」
「弁当に入れる気か」
「あたしって結構尽くすタイプなんです。お買い得!」
 郁は思ったことを心の中にしまっておけないタチである。
 このせいで少しでも良いと思った男には即座に告白し、いらぬことまで喋ってしまう。そして結局、相手に逃げられてしまうのだ。

 だがこの老科学者は逃げ出さなかった。
 郁のストレートさに呆れたものの、彼女の恋心を利用しようとしなかった。
 そこがまた郁の恋心に火をつけた。

 研究の合間を見つけては、郁は老科学者の元を訪ねていった。アイサイ弁当を持って。
 実際、郁の料理の腕は上手く、老科学者を感心させた。
「何だ、美味いじゃないか」
「えへへっ。よく考えたらあたしって器用なんですよね、あたしの作る武器って最低でも百人は殺せるんですよ」
 にっこりとほほ笑む郁。勿論、器用さのアピールのつもりで言ったのである。
「どうしました? 顔が青ざめてますけど」
「い、いや……。…………。まあ、いいさ。それが君の個性なんだろう」
「? 身体には気をつけないと駄目ですよ。三か月後には試射があるでしょう?」
「――そうだなァ」
 珍しくのんびりと返事をした老科学者だったが、数秒の沈黙の後、吐き捨てるように笑った。
「身体に気を付ける、か。そりゃあいい」
「?」
 首をかしげる郁に、老科学者は言った。
「もう敬語は使わなくていい。君らしく振るまえばいいさ」
「ほんと? それって両想いになったってことー?!」
 嬉しさのあまり、声が裏返りそうになるのを堪えながら、郁は可愛らしく微笑んだ。
 郁の頭の中ではパレードが始まり、まるで世界中が自分の恋愛成就を祝福してくれている気分だった。
 老科学者の吐き捨てるような笑いのことなど、もう忘れていたのである。


 カンフル爆弾試射の日、郁は甲板に立ち固唾を飲んで見守っていた。
(大丈夫、きっと上手くいく。彼はあんなに頑張っていたんだから)
 だが無情にも試射は失敗に終わった。ターゲットとした星は一度強く輝いたものの、爆発してしまったのだ。
「でももうちょっとで成功しそうだったね。当日には上手くいきそうじゃない!」
 郁は明るい声を出して老科学者を励ました。
 しかし彼の表情は暗い――、
「これで終わりさ。私にはもう少しの時間もない」
「何を言ってるの?」
「明後日は私の誕生日なんだ。聞いたことがないかい? 決別の儀式のことを」
 老科学者は呻くように言った。

 決別の儀式――、
 成人は満六十歳になったとき、家族立会いの元で自殺すること。
 黄昏の国で千年前から続く風習だ。

 郁もこの風習は耳にしたことがあった。
 だが気に留めていなかった。TCという仕事上、知識として記憶されただけの、ごくつまらない情報――……の筈だった。何故なら郁にとって、あまりにも遠く、馬鹿げた風習だったからだ。

「くだらない! そんな風習が何なの? 無視しちゃえばいいじゃない!」
「ふざけるな! 先祖の知恵が生み出した、大事な儀式だ。誰も破ることは許されないんだ!」
「三日後は実験当日なのに!」
「それでも駄目なんだ! どうして分からないんだ!」
「分からんもん! 野蛮な風習やか!」
 郁の目からは大粒の涙が零れていった。真っ赤な瞳で老科学者を睨みつけると、立ち去った。

 その夜、郁は甲板に寝転がり、ぼんやりと夜空を眺めていた。
 思い出すのは老科学者のこと。郁が顔を出す度に、彼は研究の手を止めて郁を見た。そしてすぐに目を落とす。郁と向き合って話をしてくれるのは食事中くらいのものだった。
 そんな短い時間でしか一緒にいられなかったのに、悠久の時のように色濃く思い出として残っている。
(彼にとって研究は全てだったんだ)
(それなのに、こんなことで……)
 もう一度彼と話してみようと郁は思った。さっきは感情的になり過ぎていた。冷静に話せば、きっと――。


 翌日の朝、郁は老科学者へ会いに行った。
 昨日の非礼を詫び、自分たちの話をした。ダウナーレイスは水着姿で飛翔する。かつて女性の露出は破廉恥とされたが、服を着たままでは上手く空を飛べない。時代は変わっていくものなのだと。
 老科学者は郁の手を取った。研究を完成させるために、彼は亡命することを決意したのだ。

 だが政府の対応の方が早かった。儀式を執り行わないなら老科学者を国賊とすると脅し、彼の娘を向かわせた。説得させるためである。

「私は国のために生き残ることにしたんだ。私がいればもう少しで研究は完成する」
「研究なら若い人に引き継げばいいのよ。それより儀式を大事にして……」
「それでは間に合わないかもしれないじゃないか!」

 応接室のドアの外で、郁は複雑な表情を浮かべていた。
 郁には彼らのやり取りが理解しきれなかった。黄昏の国と無関係に育った郁にとって、彼らの考え方は頭では想像出来ても、それは一種の区別でしかなかったからだ。自分たちとは異なる国で育った、異なる価値観の人たち……。
 どうして娘は折れないのか。自殺を親に勧めることが出来るのか……。
 言いたいことは山ほどあった。
 けれど、郁は応接室へ入ることはしなかった。娘の声が上ずる度に、何度もドアに手をかけたが踏み留まった。それはTCとして様々な時代を駆け巡って来た経験からだろうか――二人の間に踏み込んではいけない気がしたのだ。
(娘と話し合って、彼が決めなきゃいけない。彼自身が決めなくちゃ意味がない)
 そう思っていた。

 やがて、娘の泣きじゃくる声が聞こえてきた。それは途切れ途切れに、低く響いていた。
「国賊の娘として生きていかなきゃいけない……。それがどんなことだかお父さんは考えたことがあるの……? 私一人残されて……どう生きていけば……」
 やや間があって、老科学者が何か呟いた。
 聞き取れない程の小さな声だが、呻くような話し方だった。
 その声を聞いて、郁は昨日のことを思い出した。
「明後日は私の誕生日なんだ。聞いたことがないかい? 決別の儀式のことを」
 彼が呻くようにそう言ったとき、もうこの未来は決まっていたのだ。
(ううん、そうじゃない)
 もっと前から決まっていたのだろう。千年も前から、決定されていたことだったのだ。

 ドアが開いて、老科学者が姿を現した。
 彼はまっすぐに郁を見た。
 視線は揺らいでいなかった。強い眼差しが郁を捉えていた。郁に恋をさせた目だった。
「分かってる」
 郁はポツリと言った。老科学者の言葉を聞く前に、自分の気持ちを伝えてしまいたかった。
「聞きたくないし、納得しきれてないけど。大好きだから、分かってる」
 郁は俯いた。顔を上げる気になれなかった。


 翌日は雨が降っていた。
 一週間も前から予報で言われていたことだった。今日は雨、明日は快晴。予定は覆らなかったのだ。少なくとも今日は。
「雨なんて嫌だったの」
 長い廊下を歩きながら、郁は呟いた。俯いた唇から言葉がポロポロと零れ落ちていくようだった。
 対して、老科学者の声は晴れ晴れとしていた。
「仕方ないさ」
 老科学者は更に言った。仕方ないさ、そういうものなんだと。
 大きなドアの前で二人は立ち止った。
 儀式のための部屋。ただそれだけの部屋。だがこれ以上の重みを持った部屋が、この世にいくつあると言うのか?
「娘が中にいる。君も一緒に来るかい」
 長い沈黙。
 その末に、郁は顔を上げた。老科学者の目を見て、今までで一番美しく微笑んで見せた。
「辞めておくね。大好きだから、踏み込みたくない」
「……そうか」
 老科学者は微笑んだ。目じりに笑い皺が広がった。二人が一緒にいる中で、初めて彼が心から微笑んだ瞬間だと郁は思った。


 壁に寄りかかりながら、郁は窓を眺めている。
 雨は止みそうになく、ますます強く窓を打ちつけている。
「予報でも雨だったから、仕方ないわね」
 顔を上げながら呟く。そうしないと、涙が零れていきそうだった。
 ――ドン!
 無感情な音が、低く低く、響き渡っていった。



終。
全体の表 >
ロン青年とタマス氏
 シチュエーションノベル(シングル)
 初めましてのPCさんです。タマスは私が以前に作ったNPCです。まさかタマスを書かせていただける日が来るとは……!
 ほのぼのギャグ(?)を目指しましたが、どうでしょう。
 ここはとある図書館。美しい薔薇園の中央に位置するこの建物には、これまた美しい司書がおりました。ロン・リルフォード青年です。
 彼は書物に関してのあらゆる知識を得ていましたが、それを図書館の来館者にひけらかすことはありませんでした。代わりに、彼は静かに微笑みかけるのでした。例えそれが少し奇妙な来館者であっても――。
 今からお話することは、この美しい司書・ロン青年とある奇妙な生き物との対話の記録です。


 ある日のことです。色とりどりの本の背表紙に囲まれて、ロン青年は首を捻っていました。
 彼が手にしているのは一冊の書物。タイトルは『ヒポポ ポッ ポポヒー!』。
 カタカナを覚えたばかりの子供が書きそうな言葉ですが、ロン青年にはこれがヒポポ語の本であることがわかりました。
 ページをめくってみます。
 クレヨンで描かれた可愛らしいカバの挿絵が現れました。
 隣に、このような文章が載っています。

 ヒポポ、ポッ、ポーヒポ。
 ヒポヒポポヒヒポヒポヒヒ。
 ヒポポ
 ポヒヒポ
 ヒポポ ポ
 ポヒポ。
 ヒポポ―!

 意味がサッパリ分かりません。
「ひ……ヒポポ、ポ、ポーヒポ……?」
 好奇心から口に出してみたものの、それが正しい発音なのかも分からず、ロン青年は一人顔を赤らめました。
 そもそも、タイトルの意味からして分からないのです。ヒポポ語というのはとても癖のある言語で、ヒポポ語圏で育った者から直接教わらないと理解し難いのです。残念ながら、ロン青年はヒポポ語を習ったことがありませんでした。
 そこへ突然の来館者。
 反射的に穏やかな笑顔を向けてから、ロン青年は内心驚きました。神様の悪戯でしょうか、来館者は二足歩行のカバ……もとい、ヒポポ語の教師であるタマス氏だったのです。
 ヒポポ語を知りたい青年に、ヒポポ語を母国語とする教師。何て素敵な組み合わせでしょうか。ヒポポ語を教えてもらわない手はないのです。


 タマス氏は膨大な本の中、とてとてと歩いていきます。
 あっちをウロウロ、こっちをウロウロ。書架を見ては首を傾げ。目当ての本が見つからない様子です。
「何をお探しですか?」
 口元に笑みを湛えたロン青年、まずは声をかけました。
 その静かな声を聞いて、大きな体躯のカバ……打ち間違えました、タマス氏が振り返ります。
「ヒポポ、ポッポ、ヒヒポ? ポッポー!」
「………………えっと……」
 ロン青年、さすがにこれは困りました。
 タマス氏はヒポポ語しか話せなかったのです。タマス氏が教鞭を取る中学校では、生徒たちから「わからない!」と評判のヒポポ語ですが、無理もないことだったのです。基礎がない状態からの勉強がこれでは……。
 タマス氏も少し困った顔をしています。そう、タマス氏も言葉が分からなくて困っていたのです。彼がこの図書館に来たのもそのためでした。
 事情を察したロン青年は、そっと一冊の本を差し出しました。日本語の発音練習の本です。
 表紙のシンプルな本でしたが、中身はとても特殊なものです。ページをめくると言葉がリズミカルに飛び出してくる、文字通り“飛び出す本”なのですが、それが読み手にあったレベルの文章で出現するのです。日本語を勉強しようとしては何度も挫折してきたタマス氏も、これなら学ぶことが出来るでしょう。
「ポッポー!」
 満面の笑みで本を受け取ったタマス氏、さっそく椅子に腰かけて読み始めます。本に集中しきっているのか、その眼差しは真剣です。
 タマス氏を気遣って、ロン青年はお茶を出すことにしました。
「何が良いですか? どんなものでもお出し出来ます」
 タマス氏はしばし考え込んでから。
 短い両手を握り締め、こめかみに当てました。そして、グリグリと手を動かします。タマス氏ったら、自分でやっておきながらキューキュー苦しんでいるくらいです。
 その仕草を眺めて、ロン青年……。
「梅干しですね?」
 大きな湯飲みに、塩のみで漬けた昔ながらの梅干しを入れ、熱い緑茶を注ぎます。
 それを手にしたときのタマス氏の嬉しそうな顔と言ったら!
 お茶を飲み飲み、梅干しを美味しそうに頬張ります。
 ボリッ、ゴリゴリゴリ、ボリリリリ……!
 タマス氏は種ごと食べるのが好きなようです。
 ――ロン青年は知りませんでしたが、タマス氏の梅干し好きはとても有名でした。タマス氏の勤める中学校では、生徒たちが梅干しを餌にタマス氏をおびき寄せたくらいです。
 生徒たちの意図は何か?
 期末テスト前の闇討ちです。
 タマス氏はまんまと罠にひっかかり、夜道に落とされた梅干しを無邪気に頬張りました。悪ガキの作戦は成功したかに思えます。
 しかし、です。
 暗闇の中、巨大な生き物がボリボリとモノを貪っている様は、中学生には恐ろしすぎました。闇討ちしようと構えていた彼らは一目散に逃げ出し、布団に潜り込んで震えたそうです……。

 五時間後。
 タマス氏は本を開いたまま、ロン青年を見つめました。その目は自信に満ち溢れています。果たして、タマス氏は日本語を話せるようになったのでしょうか?
 聞いてください、と目で合図するタマス氏。
 ロン青年も目で頷くと、一言一句聞き洩らすまいと耳を傾けました。
「ワ…………………………………………」
「ワ…………………………………………!」
「ワタシノ クニ チュウゴクデハ」
「すみません、少し確認させて下さい」
 早口で言うと、ロン青年は開かれたままの本を注視しました。どうやらテレビのコマーシャルがいくつか出現しているようです。短い文章の中に意味が込められたものが多く、発音しやすいかもしれませんね。
「イ、イトウニ、イク……」
 これ、タマス氏が行う授業で使える言葉なのでしょうか?
 しかしタマス氏は初めて日本語を話せたと大喜び!
 勉強では学ぶ喜びを得ることが何よりも大切だと言う教師もいます。ロン青年もこれで良いのだと思いました。タマス氏にとって大切な一歩なのです。


 タマス氏の用事が済んだので、ロン青年は小さなお願いをしてみました。ヒポポ語について学んでみたかったのです。
 外国語を学びたい気持ちは同じ。タマス氏は大きく頷いてくれました。
「ヒポポ。ポポポ、ヒッヒ」
 しかしこれでは……。
 タマス氏とて、教師です。普段のほほんとした生徒たちを相手にしているのですから、これくらいではへこたれません。
 タマス氏は、リュックからホワイトボードとマジックペンを取りだしました。
 なるほど。どうやって生徒たちにヒポポ語を教えているのかと思えば、文字を書くという手があったのですね。
 ……発音は出来ないけれども、言葉なら書けたのですね。
 タマス氏は下手な字でホワイトボードに書きました。
「ヒポポ。ポポポ、ヒッヒ」
 同じじゃないですか!
 しかしそこは聡明なロン青年。ホワイトボードの文字をじっと眺めて、あることに気付きました。
「……トメとハネが重要なんですね?」
 笑顔で頷くタマス氏。
 確かに、タマス氏の書いたカタカナには不自然なトメとハネがありました。例えば同じ「ポ」でも、ある字では左側にハネがあり、またある字ではないのです。
 ヒポポ語は「ヒ」と「ポ」しかないのですから、小さな変化をつけて意味を区別していたのでした。このハネとトメが微妙な発音の変化に通じているのです。
 ロン青年はとても優秀な生徒ですから、タマス氏の教えをどんどん飲み込んでいきました。
「ポッポ」
 帰り際、タマス氏はそう言って手を振りました。
「ポッポ」
 ヒポポ語で挨拶を返したロン青年、まだ拙い自分の発音に少し恥ずかしげに微笑みました。


 ここは何種類もの薔薇が咲き誇る図書館。
 朝。紅い薔薇に水やりをしながら、漆黒の髪をした美しい司書・ロン青年が口を開きます。
「ヒポポ ポッ ポポヒー!」
  ヒポポ ポッ ポポヒー
   ヒポポ ポッ ポポヒー……
    ヒポポ ポッ ポポヒー…………
 澄んだ声が、そおっと風に乗って流れていきました。
(……うん、大分掴めてきた)
 ロン青年は一人図書館に戻りました。
 捩じれた書架に、色とりどりの背表紙の本。その中にはヒポポ語の本があります。
 ……理解してしまえば、何てことのない本だったのです。


『ヒポポ ポッ ポポヒー!』(お口のあそび!)

 ヒポポ、ポッ、ポーヒポ。 (お口のたいそう)
 ヒポヒポポヒヒポヒポヒヒ。(みんなで言ってみましょう)
 ヒポポ          (きょうも)
 ポヒヒポ         (げんきだ)
 ヒポポ ポ        (ごはんが)
 ポヒポ。         (うまい)
 ヒポポ―!        (ワンモア!)



終。
全体の表 >
クチクラの洞窟
 シチュエーションノベル(シングル)です。
 魔力を宿した水があるという洞窟に向かったPCさん。そこは魔族の少女の縄張りで……。

 魔族の少女の一人称が、私とあたしで混ざってしまいました……。「私」を「あたし」に変えたのですが、直し損ねが出てしまい……。気をつけて、なんてノベルで書きましたが、気を付けなければならないのは私の方です……。
 私からの忠告です!
『危険! 立ち入り禁止』
 こんな看板、見ますよね。
 注意書きは守った方がいいです!
 ……ちょっとくらいなら入ってもいいじゃないかって?
 もぉー、とんでもないっ。
 立ち入り禁止って書かれていたら、引き返さないとダメなんです。無視して進むと、ひどい目に遭っちゃいますよ。
 ……え? 例えばどんなことかって?
 それはですね……、



 鬱蒼とした茂みを通りぬけて、辿り着いた先は暗闇の中。
 ここはとある洞窟だった。人里離れたこの洞窟の奥では、魔力を宿した不思議な水が沸くという。
 この情報を小耳に挟んでから、ウズウズしっぱなしの私。
(どれくらいの広さの洞窟かな?)
(やっぱり薄暗くって、人っ子一人いなくって)
(そこに溜まった水は綺麗なんだろうなぁ。神秘的で、闇の中でゆらめいて……)
(おまけに魔力が詰まっているの!)
 とうとう、いてもたってもいられなくなって、水を汲む水筒を持って洞窟へ!
 入り口には立ち入り禁止の看板が立っていたけど、臆することなく中へ入った。
 外と違って陽の光の入らないこの場所は、暗く、湿った匂いに包まれていた。
 普通の女の子ならここで怖がったかもしれないけど、私はむしろ期待で胸が膨らんだ。
 だって、私は魔法修行中の竜族。おまけに好奇心も勇気もある。ちょっとの冒険は最高のデザートなのだ。
 洞窟は大きな鍾乳洞だった。翼を広げて飛んで行ってもまだ随分と余裕がある。
 魔法の光で照らしながら、奥へ進むにつれ匂いが変わって来た。
 湿り気を帯びた、例えば雨が降る直前の匂いだったものが、瑞々しい果実の香りに変化したのだ。
(桃……みたいな匂い……)
 甘く蕩ける匂いに鼻をくすぐられる。
(水だけじゃなくて、桃もあるのかなぁ)
(魔力の水を水筒に入れたら、桃もかじりたいなぁ……)
(うーっ、楽しみ! ここって桃源郷みたいっ)
 心が華やぐ香りに導かれ、道は枝分かれしていたのに、私は迷うことがなかった。


 噂通り、洞窟の奥には水が湧き出ていた。
 水は光り輝き、周りの鍾乳石を碧く照らしていた。
 水面には私の姿も映っていた。硬い翼の骨まで碧くしなやかそうに見え、私の目にも幻想的な映画のワンシーンのように映った。
 ロマンチックな光景に、ちょっとの間、目を細めて。
(そうそう、水を持って帰るんだった)
 当初の目的を達成しようとしたそのとき。

「勝手に持っていったらダメでしょぉ?」

 お腹の中に響くような、低い声。
 私が振り向くと、長い髪をした華奢な少女が一人立っていた。私のように翼はないけれど、手が足と同じように長く、一目で魔族と分かる姿をしていた。
「ここは私の縄張りなの。許可を得るのが筋でしょ?」
 目を煌々と輝かせ、少女は私の身体をじっと眺めていた。私の頭から始めてつま先まで見た後、翼と角と尻尾を舐めるように観察している。瞬きなんて一回もしないくらい。こんなこと私がやったら、目がお皿になってしまいそうだ。
(何だか、変てこな子に見つかっちゃったなぁ……)
 そうは思っても、勝手に入って来たのは私の方。
 ふわりと地に降り立つと、私は頭を下げた。
「縄張りって知らなかったんです。ごめんなさい」
「いいわよぅ。怒ってないもの。あなたも魔力の入った水が欲しくて来たのね」
 少女はえくぼを見せて笑っている。
 釣られて私もニッコリ。
 良かった、話の分かる人なのだ。
「そうなんです! 水、分けてくださいねっ」
「イ・ヤ」
 …………む。
「そんなこと言わないでお願いします。ちょっとだけでいいんです」
「お・こ・と・わ・りぃ」
 ……むむ。
「私、そのために来たんです。この水筒一杯でいいですから」
「残念でしたぁ」
「じゃあ、はんぶん……」
「とっととお帰りあそばせ?」
 ムカムカムカムカ。
「いいじゃないですか、ちょっとくらい……」
 パシャッ。
 私が言い終わらない内に、向こうが水を掛けて来た。
「つめたっ。何するんですか!」
「おとといきやがれって言うのよ」
 その言い方ときたら、まるでこちらを嘲笑うみたい。
「そっちがその気なら、こっちだって!」
 私が放った炎を寸での所で避けて、少女は叫び声を上げた。
「な、何するのよぅ!」
「言っときますけど、私って、売られた喧嘩は買っちゃいますよ!」
 次々と連弾を浴びせる私に、向こうは逃げの一方。
 正確には時々、水を掛けてくるくらいで――、

 ガクン、
 足を取られ、私は前のめりに倒れた。
 起き上ろうと両手をつき、立ちあがってはみたものの、そこから足が一歩も前へ出ない。
 飛ぶことも出来ない。
 翼の先がピクリ、ピクリと痙攣するだけだ。
「何で? どうして……」
「やっと効いてきたぁ。あたしの能力って発動するのが遅すぎるのよねー」
 見れば、無邪気に笑う少女の姿。
 逃げ回っていたさっきまでの少女と同一人物とは思えない。
「何で水を掛けていたと思う? あなたを石化させるためよぅ」
 ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ。
 少女がどんどん近付いて来る。
「やっ、やだっ」
「そんなに怯えることないでしょ。取って喰おうって訳じゃないんだから」
「うぅ……じゃあ、どうするんですか……?」
 頼みの綱の炎も出せない。私は無防備な姿のまま、聞くしかなかった。
(もう、涙声になっちゃったよぉ……)
 竜族だっていうのに、今の私には何の勇ましさも残っていなくて。
 恥ずかしくて余計に涙が出そうになる。
「さっき何て言ったっけー? 売られた喧嘩は買うんですって?」
 少女の目が爛々と輝き出す。
 それはそれは楽しそうに。
 遠足の前日、興奮してなかなか寝付けない子供のように。
「わわわ、ごめんなさい! い、言い過ぎました……」
「そうそう。それから?」
「み、水も、もういいです……」
「あらぁ。そーぅ? イイ子ねー」
「じゃ、じゃあ、もう、元に戻して下さ…………ひゃあっ」
 ザラリ、ザラリ。
 少女の長い指が、私の二の腕を撫でた。人型とは思えない、硬く、尖ったものが私の皮膚を這った。
「なななっ、何です、これ?」
「分かる? これはね、あたしの産毛なの。硬いけど、あなたも固くなっているから、痛くない筈よぅ。変な感じはするでしょうけど」
 ザラリ、ザラリ、ザラリ。
 ザラザラザラザラザラザラ。
 少女は私の腕の付け根を撫でた。
「ひゃっ……え? あれ? あれ?」
 ザラザラと、ヤスリのような感触がなくなっていく。
「私の能力って中途半端でね、水を掛けるだけじゃあ大雑把にしか固められないの。こうして仕上げをしなきゃいけないのよぅ」
 そう言いながら、少女は熱心に私の腕を撫でている。特に付け根の窪みや、肘の凹み、指の間の小さな溝に指先を這わせていく。肉眼では見えない、硬くて細い産毛が私の窪みに入り込んで来るのが感触で分かる。
 だけど、その確信が薄らいでいく。
 少女の硬い感触さえ遠くなっていくから。

 ザリ、ザリ、ザラザラ。
 ……パキン。
 奇妙な音と、手の長い少女の匂い。
 瑞々しい桃の匂いは、少女の体臭だった。
 芳しい香りを嗅がされて夢の中にいるみたいな気持ちになっては、少女の声と感触で現実に引き戻されるのだった。
(匂いでおびき寄せるなんて……食虫植物じゃあるまいし……)
 あの匂いに胸を踊らせていた自分が情けない。
(な、何で私がこんな目に遭わなきゃいけないの……?!)

「ふーぅ。腕は完成っと」
「も、元に戻して下さい! そんな小学生が工作しているみたいな態度……むぐっ」
 唇の隙間に、少女の産毛が押し込まれた。
「勝手にやって来たあなたが悪いんでしょ」
 ザラザラ、ザラリ。
 パキパキ、パキリ。
 少女の指は私の唇を何往復もした。
「もー、意外と唇を綺麗に固めるのって大変なのよぅ。唇って膨らんでいるだけに見えて、目に見えにくい細かな筋があるから……リップ塗るとき感じるでしょー?」
「……………む…………ぐぅ……」
「あ。そかそか。もう喋れないのね。了解ぃ」
(こ、こんの〜)
 言葉に出せなくなったので、私は心の中で文句を言うことにした。
(喋れないのね、なんて呑気そうに言うけど、自分が固めているせいじゃないの!)
(さっさと元に戻してよぉ!)
「えっとぅ、凹んでいるとこ、凹んでいるとこ……、あ。おヘソね」
 ザラザラ、パキン。
「それから、くるぶしの所も窪みが多いよねー」
 ザリザリザリザリ、パキリ。
「ふくらはぎの膨らみと、膝の凹んだ所の固め具合を調整して〜と」
 ザラザラ、ザリザリ。
 ザラリ、ザラリ。撫ぜ撫ぜ。パキパキ。
 と、少女がポツリ。
「本当に工作みたいね、これ」
(こ、この……悪魔ぁ!)
 毒舌をふるってみても、少女の耳には届かない。
 だから少女は気にもしない。鼻歌まで歌ったりして、工作工作。
「髪の毛! これが難しいのよぅ〜!」
 私の髪を少しずつ手に取って。
 少女は髪の内側を中心に撫でていく。
 毛先には細心の注意を払っているのか、一際輝く瞳が私の前に迫っていた。
 その雰囲気に呑まれてしまって、私も息を飲んだ。
 髪を固め終わって、少女が一言。
「あたしって美容師みたいね! あなたもそう思うでしょ?」
 ……こんな身勝手な美容室、嫌になる。
「翼もツルツルにしてあげるわねー」
(あぁ、そうですか。嬉しくないです……!)
 もはや罵る気にもなれなくて。
 私は心の中で少女と話をする。
「翼って初めて固めるわよぅ。難しい〜!」
「………………っ」
 小さな破裂音が、私の喉の奥で鳴る。
 翼は凸凹が多かったからか、水を掛けられただけでは固まり方が弱かったようだ。
 お陰で、骨付近の窪みを撫でられる、むず痒さと言ったら!
 身体をねじって避けたいのに、いや、今すぐ逃げ出してしまいたい程痒いのに、逃げ出すための足はもう感覚さえない。
 逃げ出せないのなら、いっそ早く固めて欲しいくらいだと思った。
 心の中で葛藤しながらも、他に選択肢がなかったから、私はただ大人しく立っていた。
 目に涙を湛えて。
「さて、と。終わった終わった」
 少女はそう呟くと、私の背中をスルリと撫でた。
 少女の産毛はもう硬くなかった。
 否、硬く感じなかった。
 それは私の身体が少女の産毛よりも硬く固まり、感覚を失っていたからだ。
 私はただ、水の光に照らされて碧く輝く鍾乳石に過ぎなかった。
(もう家に帰してくれますか?)
 見上げる私に、少女は恍惚とした表情を浮かべていた。
「どんな芸術品だって、あなたには叶わないわ」
 そして。
「実は唇以外の顔はあんまり固めていないの。最後に笑顔を見せて?」
 少女の言葉に、私は微笑んでみせようとした。
 唇の中央はまるで感覚がなかったけど、端っこだけならごく僅かに動かせた。
(こ、こんな感じかな……?)
 顔の表面が引きつる感じがして違和感があったものの、目を細めて柔らかに笑ってみせた。
(これで帰してくれるんですね?)
 私の心の声に答えるように、少女も微笑み返してくれた。
 私に「怒っていない」と言ったときと同じように、えくぼを見せて。
 その笑顔のまま、私の顔を手でそっと包みこんできた。
 パキパキ、パキリ!
「これで完成よぅ」
 ……後で気付いたことだけど、少女は悪だくみや嘘をつくときに、えくぼを見せて笑うのだった。



 ――ということがあったんです。
 やっぱり注意書きを見たら、その通りにした方が良いんですよ。
 ……え? 私は今どうしてるのかって?

 実はまだあの洞窟にいるんです。
 彼女ったらひどいんですよ。飽きるまで一緒にいてね、なんて言って、私を洞窟の奥で飾っているんです。
 一日に何回も私を撫でて来るんですよ。もっとも、私にはもう感覚がないから、爪を立てられたって分かりはしませんけど。視界に入って確認出来る場所だけ、ああ今撫でられているんだなぁって認識するだけなんです。
 あ、見えない場所だけど、尻尾を触られるときも分かります。彼女が自作の『尻尾にぎにぎの歌』を歌いながら握ってくるから……。

 ……え? 仲良くなってないか、って?
 とんでもないです!
 毎日早く元に戻して欲しいって思っています!
 だって彼女ったら、仲間の魔族に私を自慢しては、最高の芸術作品だとか躍動感があってどうとか笑顔が可愛いとか褒めてばっかりで、恥ずかしくって……。
 恥ずかしいのに、表情を変えられないんですよ。俯くことだって出来ないんだから……。
 とっても困っています。
 本当なんですよ。
 みなさんも、立ち入り禁止区域と桃の香りには…………気を付けて下さいね。




終。
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魔剣の少女
 シチュエーションノベル(シングル)です。
 ある専門学校からの依頼を引き受けたPCさん。今回のテーマは「剣」だそうで……?
 
 夏休みに入った頃、新しい風鈴を買った。
 友達と寄った雑貨屋さんで、一目ぼれした物。
 値段を見て一度は諦めたものの、一か月悩んだ挙句に財布を開いた。
 ――今年の夏は暑い。
 掃除に熱中していると、窓を開けきっていても汗が滴り落ちる。
(それだけだと嫌な気分なんだけど)
 掃除が終わって、顔を洗い、纏めていた髪をほどく。綺麗な畳の上に座り、よく冷やした麦茶を飲む。
 風鈴がちりんと鳴る。耳に馴染む、涼しげな音で。
(……夏っていいなあ)
 いつの間にかウトウト。
 夏休みだもの、このまま畳の上で横になって、猫のように――、
(ってだめだめ!)
 学校が休みなんだから、アルバイトしなくちゃ。
 ――そんなとき、ある専門学校の生徒さんたちから電話があった。いつものメイクの依頼だ。
「剣ですか? 剣って、あの、武器の?」
 無機物の……と驚くあたしに対して、生徒さんの声は明るい。
「ふふ、みなもちゃんで戦ったりしないわよ? 宝飾品のような、美しい剣を作りたいの。魔剣ね。それにはみなもちゃんがうってつけなのよ」
「どうしてですか?」
「完成すればわかるわ。やってくれる?」
「はい!」
 生徒さんが楽しそうに話すから。
 あたしは二つ返事で引き受けた。
 生徒さんたちに会うのは久しぶりだったし、依頼内容も興味がある。それに。
 ……風鈴、買っちゃったんだもん。


 アルバイト当日。専門学校に着いて、冷房の効いた中に入ると、慣れた匂いがした。
 何かの薬品が混ざった匂いなんだろうか。これから自分が何らかのメイクをされるのだと想像してしまう、不思議な匂い。
 数人の生徒さんたちの顔を見ると、何だかホッとした。懐かしいような、柔らかな気持ちになって、あたしは笑顔を見せた。
「無邪気な顔しちゃって。あどけないわねー」
 からかう声に、あたしは頬を膨らませた。
「そんなことないです。もう中学生なんです」
「ふふ。“もう中学生ちゃん”は、毎日宿題やってる? 日記とかね。溜めると後が怖いわよー?」
「う……」
 言葉に詰まるあたしに、大笑いする生徒さんたち。
 アルバイトを通じてだけど、生徒さんたちとあたしの間には一種の信頼関係があると思う。
 ――だからあたしは身を任せることが出来る。
 服を脱いで台にそっと横たわる。冷房の当たったメイク台はひんやりと冷えていて、肌が微かに震えた。
 まな板の鯉が跳ねているようね、と一人の生徒さんが冗談を言った。
 鯉より人魚のようよ、と隣の生徒さんが返す。
 その言葉にあたしは息を呑む。
 ――忘れていた緊張感を思い出してしまった。
 意識し始めると、こうやっていつものようにメイク前に肌を晒していることも恥ずかしくなり、あたしはぎゅっと目を閉じた。
「……………………ひゃっ」
 生温かいものが足の指に絡みついた。
 ななななななな何ですか、と跳び起きようとしたけど、生徒さんたちに押し戻された。
「目なんか瞑っちゃうから驚いちゃうのよ〜。ちゃんと見ないとね?」
 生徒さんが刷毛を持って笑っている。
「す、すみません……」
 身体を動かさないように謝りつつ。
 何を塗るんだろうかと気になる。
「これは新素材のパウダーなの。湯に溶かして使うんだけどね、濃度を変えて何度も重ね塗りしていくのよ」
「濃度を変えて? どうしてですか?」
「透明度を出すためなの。美しい剣がテーマだからね」
 手を掴まれ、足を掴まれ、足の裏から脇の窪みにまで満遍なく素材を塗られていく。
 最初は濃度の高い方から塗るらしくて、粘り気があってノビが悪い。刷毛が何往復もするので少しチクチクする。
「うーん、刷毛だとちょっとやり辛いわね……」
「スポンジに変えてみようか?」
 大きくて柔らかいスポンジは肌当たりが良い。お風呂で身体を洗われているみたいな気持ちになる。
 この素材は象牙色をしていたので、一度目の塗りが終わる頃にはあたしの肌からは生気が感じられなくなっていた。
 二度目の塗りでは粘度が多少下がっていて。それでもスポンジじゃないとまだ上手く塗れないようだった。
 髪を守るためにお団子にして帽子を被されているので、事情を知らない人が見ればあたしは人間と思われないだろう。
 だって、肌が象牙色で。唇にも荒れ防止のリップを塗った上から素材を重ねられて、今はもう唇の境目すらわからない。目を閉じてしまえば、完全にマネキンだ。
(これで剣になんてなれるのかなあ……)
 この素材は身体を固めるものではないみたいで、あたしの肌は柔らかいままだ。見た目も地味だし、とても宝飾品のようだなんて……。
「芯が出来たわ」
「キャンバスと言ってもいいわね」
 ほほ笑み合う生徒さんたち。
(キャンバス?)
 意味がわからないあたしに、生徒さんが言う。
「人の身体って“生”に溢れているのよ。肌色もそうだし、毛穴、キメ、色のムラもね。普段当たり前に思っているから気にしないけど、静物になると途端にそれらが主張するのよ。“この子は生き物です”ってね」
「そういうものなんですか?」
「そうよ。マネキンを近くで見てどう思う? ヌメっとした肌で、均一に白いでしょう? ああいうのを見て、私たちは人工的だと思うのよ。静物になるなら、まずこの人工的な土台を作らなきゃいけないわ」
 デパートで見たマネキンを思い出してみると、確かにそうかもしれない。
「象牙色にしたのは品を持たせるためよ。そしてこれから……ねえ! 入ってきていいわよ」
 生徒さんの言葉の後に、ドアが開く音がして、一人の女性が姿を現した。初めて見る人だ。手に絵筆を持っている。
「初めまして」
「は、はじめまして……」
 ニッコリと笑う女性に対して、声がうわずってしまうあたし。
 だって。初対面の人に見られるには、この格好は、何だか…………その。
「みなもちゃん、恥ずかしがらなくていいわよ。この学校の生徒で、絵を専攻している子なだけだから。抽象画が好きなのよね?」
「うん。人をキャンバスにするのは初めてなんだけど」
 生徒さんたちの会話を聞いていて。
 あたしにもだんだん話が見えてきた。
 剣の“芯”になったあたしに、絵を施すってことなのだろう。象牙一色では地味過ぎるからだ。
 絵筆を持った生徒さんは、楽しそうにあたしの肌に絵を描いていく。生徒さんが作る色は全部青色だった。黒っぽい青色や、くすんだ緑色を混ぜた蒼色、群青色や、ごく薄い水色。それらを象牙色にしたあたしの肌に躍らせていく。
 絵筆は硬くて、胸先と背中のあたりがチクチクした。
 皮膚の薄い首と顔は絵筆では刺激が強すぎるので、柔らかなスポンジでやってくれた。これは描くというより、スタンプみたいに色を押し当てていく感じだった。ふわふわとしたスポンジの感触が肌に触れたり離れていったり。夢見心地な気分になる。
 絵を描かれた後は、濃度を薄めた素材を塗られていく。薄められた素材にはもう色があまりついていなくて。乾いたら、更に濃度を薄めた物を。もうほぼ透明だ。
 これから一体どうなるんだろう?
 と、ワクワクしていたら。

「じゃあ、これから金属でコーティングするわね」
「えっ?」
 思わず聞き返すあたし。
 だって金属にしてしまったら、この絵が見えなくなっちゃう。
「絵が分からなくなっちゃいますよ」
 とあたしが慌てても、生徒さんは動じない。それが面白いところなのよ、なんて笑っている。
「それより、これをつけましょうね」
 と、装着させられた妙な機械。身体の筋肉が小さく引っ張られるような気がして、ピクピクする。微弱の電気が流れていて、筋肉をほぐしてくれるものだそうだ。剣になってしまうと動けないので、万一筋肉が固まってしまうのを防ぐためだとか。
(うぅ、何だか気になる……)
 意図しない刺激を受けているので、ちょっと不快感がある。レリーフのメイクをしたときもつけられて、あのときは楽になったと思ったんだけど。あれは身体が痺れているときだったからかな。
(少ししたら慣れるかなあ……)
「じゃあ、剣のポーズを取ってもらおうかしら」
「? ポーズですか?」
「そっ。両手を耳に当ててみて。肘を曲げたまま横に広げてね。それから足を閉じて、しっかり伸ばしてね」
 言われた通りのポーズを取り、型を作られる。首から下を金属で固めるためだ。
 この型作りが凝っていて、顔以外にも固めない所を作るのだ。一本のラインを縦に通して、そこだけ残す。
 金属でコーティングされるなんて変な気持ちになる。じっとしていなければならない辛さもあって、改めて生き物が生き物でなくなるのは大変なことなんだと痛感する。

 型を割った後、今度は残した縦のラインと顔にガラスを被せられた。窒息しないように顔の所には爪ほどの大きな穴が複数開けられている。
 さらに頭には柄をつけられた。
「鏡を見てみましょうか」
 もう自分で立つことは出来ないので、生徒さんたちに支えられて鏡の前に立つ。
 そこには人の姿ではなく、大剣が映っていた。
 あたしの曲げた肘は鍔になっていた。
 人間らしい身体のラインは消えて、何の膨らみも窪みもない。二本の脚はくっついて一本の剣身になり、尖りきった切っ先が蛍光灯の光を浴びてヌラリと光っていた。
 その不気味な切っ先から視線を上げていくと、一本の縦のラインが目に入る。そこには重なり合った青が映っているのだ。濃い青やら儚げな水色、くすんだ蒼色がランダムに混じり合って、その剣が昔からここに存在していたかのような架空の歴史を積み上げている。
 顔はと言うと――、……本当にこれはあたしの顔なんだろうか? ここに、あたしの顔はあるのだろうか――、分からなくなるような姿に形を変えている。
 生徒さんがスポンジで付けた色たちが、象牙色の芯の中に閉じ込められていて、光の当たり具合によってその色の濃さが変わる。濃度の違う素材を重ね塗りしたせいか、光によって透明度が変わり、それによって色合いが変わるのだろう。
 青色がこんなに禍々しく映るなんて、と思う。
 なのにこんなに美しいと思うなんて。


 剣立てに飾られたあたしは、ある小さなギャラリーに設置された。
 瞬きをすると人間だと気付かれてしまうので、目を閉じたまま。
 レリーフのメイクを施されたときのことを思い出しながら、あたしは心静かに置かれていた。
 あのときと違うのは、足場が不安定なことだった。
 あたしは自分の尖った足先――切っ先を剣立てに預け、壁にもたれていた。
 これらがなければあたしは床に倒れてしまう。そして自分で起き上ることも出来ない。倒れたまま、そこに在るだけの物となる。
(完全に、受身の存在なんだ)
 この意識が、あたしを心穏やかにした。騒いでもどうにもしようがない、諦めの境地というか、達観したというか……。
 現に、瞼を開かず、口を閉ざしていると、いくつもの人の声が遠くの存在に感じられる。
 静物であるということは、静謐な時を永く過ごすことと同義であるのではないかとさえ思うくらいに。
 でも実際にはすぐに解放された。
 機械を装着していたお陰か、筋肉に痛みはなく、もう少し長く出来そうだったけど。食事や生理現象の問題があった。
(そうだよね。仕方ないことだもん)
 あたしは生物なのだから。

 メイクを取る前に撮影したい、と生徒さん。
 シャッターを切ったあと、デジカメを覗き込みながら生徒さんが呟いた。
「――勿体なかったな」
「何がですか?」
「目を閉じてもらわなきゃ展示出来ないなんて……。みなもちゃんに頼んだ意味が半減よ」
「?」
 心の中で首を傾げているあたしに、生徒さんは言う。
「宝飾品のような剣、ってテーマが出たときに、真っ先にみなもちゃんを思い浮かべたの。あなたの青い瞳はサファイアより綺麗だから」



終。
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魔剣の少女は夢を見ない
 シチュエーションノベル(シングル)。
『魔剣の少女』の続編です。
 幻想怪奇なお話ということで、自分の好きな雰囲気で書かせていただきました。
 いつもお世話になっている、とある専門学校。
 メイクのアルバイトを終え、あとはメイクを取ってもらうだけ。
 ……だったんだけど。

「ごめんなさい。クレンジング剤の在庫が足りないみたいなの」
「え?」
「これじゃあメイクを落としきれないわぁ。ちょっと待っていてもらうしかないわねえ」
「ええええええ?!」
 思わず大声を出してしまったあたし。
 そして声しか反応出来ない状況でもある。
 剣のままの姿なので、メイク台に転がされたまま、動けないのだ。
(このままずっと倒れているの? 追加分が来るまで?)
 そんなのは困る!
(やることがないし、ご飯が食べられないし、トイレにだって行けない!)
 ……ぐううううう。
 お腹の音にあたしは顔を赤らめた。急に空腹になったのだ。
「ど、どうしましょう……」
「大丈夫よ。足りないのは“芯”に使った新素材を取るものだから。金属部分は取れるから、取ったらすぐに食事にしましょう?」
 あぁ、良かった。
 胸を撫で下ろしたあたしに、生徒さんは優しい声で言った。
「そしたら、またメイクしましょうね。せっかくだからね……」
 本当に、甘くてふんわりと優しい話し方で。
 それがとても奇妙に思える。
 トラブルと言うより、予定調和な気がするんだけど……。


 食事をしてトイレに行ったあと、再びメイクをすることになった。
 ――まだ夕暮れ時なのに、ひどく眠い。
 何度も経験しているアルバイトとは言え、やっぱり身体が緊張していたんだろうか。決められた分の仕事を終えて、無意識に気が緩んだのかもしれない。
「疲れてない?」
「いえ、大丈夫です……」
 まともに発音出来たのかも判断がつかないくらい、浅い眠りと目覚めを繰り返していた。
 生徒さんの声もさざ波みたいに、近付いて聞こえたり、離れて聞こえたりする。
「ごめ……なさい……。ご飯を食べてから、急に眠く……って……」
「そう……」
 遠くで、生徒さんの声がした。
 今度は前と違った形状の“魔剣”にしたい、と。今回はおまけみたいなものなのだから、もっと大胆にやりたい――。
「両手を頭の上で組んで、背中を大きく反らせてくれる?」
「…………………………………………」
 生徒さんの声は耳に入って来る。
 でも頭の中を通り過ぎてしまう。
 あたしは動かないで、メイク台の上にうつ伏せに倒れていた。そこに飾られた置物のように、自分では動く気にならなかった。
 ――いくつかの手が、あたしの肌に触れた。
 手をそっと掴まれて上へ伸ばされ、両足を閉じたまま後ろ側へ持ち上げられた。それから上半身も後ろ側へ上げられた。鏡に映し出されたあたしの身体は、ゆるやかにカーブを描いていた。
 生徒さんの声も、あたしの意識も、遠くに感じられた。
 鏡に映ったあたしの姿も、自分のものとは思えなかった。青い抽象画を描かれた、象牙色の塊。それがしなやかに曲がっていた。
 三面鏡で見ても印象は変わらなかった。ポーズのせいか背中とお腹は凹み、胸とお尻は丸みを帯びていた。だけど命は遠くにある。
 生徒さんの一人が、あたしに首輪をつけた。首輪には横幅と厚みがあった。ラインストーンが埋め込まれていて、冠のようにまばゆく映った。それは剣の鍔だった。
 組んだ両腕から手の先まで筒を付けられた。
 そして金属でコーティングされる。今回はガラスのラインがなく、あたしはただの金属の塊だ。
 手首から先には柄が取り付けられた。
 一振りの剣になったあたし。
 なのに意識はウトウトとしたままで、まるで現実感がない。


 目を開けると、視界が青く染まっていた。
 床に至るまで、そこら中が鏡に囲まれていた。無機質なあたしが無数に映しだされていた。横たわった生命のない冷たい塊が、いくつも、いくつも。
 青い世界の奥には碧い淀みが漂っている。
(こんなの現実な訳がない……)
 あたしの意識は眠りの世界に沈みこんでしまったんだろうか――。
 視界の片隅には生徒さんたちがいた。

 サア、イキマショウ。

 生徒さんが柄を握り締める。あたしは腕を引っ張られて、ゆっくりと持ち上げられていく。あたしの身体は剣身としてそこに在った。揃えた足先は鋭い切っ先になり、ヌラヌラと不気味に光っていた。
 あたしは、鏡を通して、あらゆる角度から自分を眺めていた。ある鏡はあたしの濡れた切っ先を映しだし、ある鏡はあたしの愕についたストーンを煌びやかに誇示させていた。またある鏡ではあたしの曲がった剣身だけを映しだしていた。背中を反らせたあたしの身体は金属特有のギラついた光を纏い、まったく奇妙な存在に思えた。
 それでも心は落ち着いていた。あたしの心は冷えていて、感情というものから遠ざかっているようだった。これは少しも不思議なことではなくて、当たり前のことのように受け止められた。
 何故ならあたしは剣なのだから。
 ――嗚呼、やっぱりこれは夢なのだ。

 生徒さんは、あたしを碧い淀みへ突き刺していく。
 ヌルリと音を濡らして。尖った切っ先が淀みへ嵌め込まれる。曲線を描く剣身が入り込み、膝を通り過ぎ、反らせた腰を呑ませた。
 淀みの中は陽だまりのように暖かった。それはあたしが冷たい金属だからかもしれなかった。というより、その感覚は本当かどうか分からなかった。本来、感じる筈がないからだ。
 胸の半分まで、淀みの中へ突き刺された。
 生徒さんはその剣を縦に下ろす。
 途端、前にカーブした腹部に強い抵抗を感じた。ギリギリ、ギリギリ、ギギギギギ。硬く尖った音が肋骨にまで響いた。裂けていく淀みの屑を金属で出来た胸が受け止めた。そして更に切り裂いていく――……。
 夢の中にいる筈なのに、まどろめない違和感がある。心は冷たく落ち窪んでいくばかりで、決してなくなりはしない。
 ギチギチとあたしを跳ね返そうとする、弾力豊かな淀みを切る。
 ギチギチギチギチギチギチィィィィィ。
 音はあたしの鼓膜を震わせ、奇妙な音を耳に残していく。裂かれていく音の残骸を拾い上げながら、嗚呼あたしは人間だったような気がする。音が聞こえている間はそう思える。


「みなもちゃん、みなもちゃん」
 複数の声に呼ばれ、目を開けると、生徒さんたちが覗き込んでいた。
 あたしはメイク台に横向きで寝かされていた。いつものメイク室だった。
 ――ほら、やっぱり夢だったんだ。
 安堵の息を吐いた。
 けれど、鏡を見て、あたしは悲鳴を上げそうになった。
 鏡には夢で見た通りのあたしが映っていたからだ。弓のように曲げた身体で、金属に覆われていた。この両手を見て、これが人間の腕を二本集めたものだと思う人がいるんだろうか?
 大きな愕にはラインストーンが散りばめられていた。あたしの青い瞳だけが人間らしさを残し、瞬いていた。
 全身に痺れを感じていた。違和感を伴う、鈍痛に似た痺れ。鏡を眺め続けていると、その違和感がだんだんと大きくなってきた。
 人であることの意識への違和感が確信をもたらす。
 あれは確かに夢じゃなかった。



終。

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おかしな絵本
 一冊の絵本をもらったPCさん。
 中に入れる絵本なのだそうです。さっそく読み始めてみるのですが……?

 PCさんが後半言っているように「とてもゆかいでおかしなおはなし」というイメージで書かせていただきました。怖くはない……と思うのですが;
 ●●にさせられるのだったら、やっぱりこういう脅しとか流れになるんじゃないかなって考えています。

 あと、このお話でちょうど東京怪談の納品数が200本になりました。マイペースに活動してきただけに、この数は嬉しいです♪
「ティレイラちゃん、良い物をあげるよ」
 配達先のおばあちゃんが一冊の本をくれた。
「中に入れる絵本だそうだよ。年寄りになっちゃうと、もう冒険心もなくってね。若い子に使ってもらった方が本も喜ぶでしょう」
「ありがとうございます!」
 冒険心のカタマリみたいな私にはすっごく嬉しいプレゼントだった。
 表紙には可愛いロゴでタイトルが書いてある。
『お菓子の花々、お菓子のひとびと』
 さっそく、家に帰って本を開くことにした。


 地面にふわりと降り立つと、まず土の弾力に驚いた。半透明のオレンジゼリーで出来ているのだ。ジャンプするとよく弾む。
「わぁ! こんなの初めて!」
 翼で飛んで探検しようと思っていたのをやめにして、歩くことにした。
 走っても、歩いても、スキップしても、下から跳ね返してくる感触が楽しい。グニグニと足の裏を押し返してくる弾力がある。
 あちこちにある大きな樹も、足元の小さな花々も、全てお菓子で出来ていた。一本の樹に抱きついて葉っぱを一枚噛むと、口の中で砂糖が溶けていった。
「あまぁぁぁい……!」
 もう一口、更にもう一口。
 あむあむ。もぐもぐ。
 ハムスターみたいにお菓子を頬いっぱいに詰め込んで……すっごく幸せ!
「あ〜こんな世界に住んでみたい!」
「……その願い、叶えてあげましょうか?」
「ふえ?」
 目の前には一人の少女。真っ白なワンピースに、フワフワの巻き髪、青い瞳。お人形みたいな顔をした子だ。随分小柄で、私のお腹の上までしか身長がない。
「あなたの願い通り、ずっとここにいられるようにしてあげますね」
 ぱちん!
 女の子が指を鳴らすと、突如としてお菓子で出来た魔犬が襲いかかってきた。
 尖った牙からはよだれが垂れていて、とても砂糖菓子には思えない。
 飴で出来た目はギンギンに光っていて気味が悪く、直視したくない程だった。
 だけど私だって竜族だもの、負けていられない!
(炎で対抗よ!)
 連弾を浴びせると、魔犬はダラリと溶けてゼリーの地面に落ちていった。
 ぱちん!
 今度はお菓子で出来たサイだ。
 突っ込んで来る猛獣を寸での所で交わして、大きな炎玉で一撃!
 サイは燃え盛る炎の中へ消えていった。
 ぱちん!
 ――現れたのは、私よりも大きなトラだった。
「わ。わわわわわ!」
 思わず私は後ずさり。ゼリーで出来た土の上を転がり落ちるように逃げ出した。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ギブですギブ〜!」
 何を口走っているのかわからないまま、言葉もどんどん転がって行き。
 グニグニ弾むゼリーに足を取られ、前のめりにすっ転んだ。
 痛……くない。ゼリーの上だから。大丈夫!
 だけどこのままでは追いつかれてしまう。
(そうだ、私には翼があるんだった!)
 大急ぎで人型のまま翼を生やし、空へと逃げる。
 いくら何でもトラには追って来られないでしょう!
 ぱちん!
 ああ、もう、嫌なその音――、
 見るとお菓子で出来たペガサスがいるではないか!
「いやああああああああ! もう勘弁してよ〜!」
 泣きごとを叫びながらグルグル回る。ペガサスも回る。まるでメリーゴーランドのように、グルグルグルグル。
 追われて逃げて、逃げては追われて。
 絶体絶命に追い込まれて、ハタと気付く。
(……元の姿に戻れば勝てるんじゃない?)
 そこで私は大変身。空中で本来の竜族の姿に戻ると、炎を吐き、尖った爪で引き裂いた。

(あ、危なかったぁ……)

 胸を撫で下ろして着地する。そこは最初に魔犬を倒した場所で、私の足が魔犬の溶けた残骸の上に降り立つと――、
 そこから琥珀色のスライムが出てきた。
「いやああああああああああああ!!!」
 抵抗する間もなくスライムに呑みこまれ、私は辺りが震える程の大声で悲鳴を上げた。
 だけど誰も助けになんて来ない。
 目の前にいるのはあの女の子だけだった。
 その女の子ときたら――、スライムを指でつつきながら、私を見上げて笑っていた。

「紫のカラダなんですね。へ〜え?」
「もしかしてこれが本性だったりするんですか? 強そうですものね」
「最後に変身って言うのがいいですよね。満を持してってやつですね」
「それがこんなに簡単に捕まっちゃうなんて、ちょっと恥ずかしいですね?」

 私を捕えた余裕からか、女の子は言いたい放題に私をからかってくる。
 悔しいけど、返す言葉がない。
 私は人の形を残さない姿で顔を赤らめ、牙を立てた。爪を喰い込ませ、尾で弾き、太くなった足で踏ん張った。全身でぶつかりさえした。
 けれど、スライムはびくともしない。
 それどころか、爪の中にスライムの断片が入り込み、その不快な存在を強く残した。生温かい感触が舌に残り、気持ちが悪かった。
 だんだんとスライムは萎んでいった。丸い琥珀色の球体になり、ゆっくりと私の紫の身体と一つになっていく。
 竜族の硬い皮膚の上を、気味の悪い粘膜がバターのように蕩けていくのだった。
「や、やややややだ!」
 慌てて暴れ回るけど、どんどん球体の中央に押し込められていく。
「助けて! 助け……ふああああ?!」
 口の中にまで粘膜が入り込んできていた。
 私は、女の子曰く「強そうな」竜族の姿から、何も喋れない「何か」へと変わるのだ。
 ――「何か」が何なのかはすぐに分かった。

「あなたはこれから飴玉になるんです。もう抵抗しない方が良いですよ。さもないと……」
 女の子は粘膜越しに私のお腹に自分の頬を押し当てた。
 そして私のお腹の辺りをぺろりと舐めた。粘膜を隔てているので、何の感触も感じなかった。それが逆に奇妙に思えた。
「わかりますか? 私が言ってる意味……」
 そう言って、女の子はスッと私から離れた。
 一輪の花を摘んで、私に見えるようひらひらとチラつかせるとそれを口に含んだ。
 一秒、二秒、三秒……。
 女の子が口から茎を抜くと、花びらの殆どが消えていた。砂糖で出来たお菓子の花は、舐めたらなくなってしまうのだ。
「だから大人しくしていてくださいね。そしたら食べませんから」
 私が飴玉になる間、女の子は目の前で花をいくつも平らげた。頬を膨らませて砂糖菓子を頬張る姿を眺めながら、私は静かに飴玉の材料に包まれていった。
 私は動かないでいた。
 既に爪先を動かすことも出来なくなっていたからだ。
 爪の中に入り込んだ異物の感覚はもうなくなっていた。

(ただ絵本の世界を楽しみたかっただけなのに……)
 私の心の中に吹き荒れる嵐など、誰にも伝わりはしない。
 私はもうただの飴玉なのだから。話せないのだから。
 だから、目の前にいるこの女の子は知りもしない。私の心の中の泣きごとなんて。

 女の子は私に抱きついて、腰を撫でていた。
 青い瞳は上目遣いに私を捉えていた。僅かに開けた唇から覗く歯を、私のお腹に押しあてていた。
 そして女の子は悪戯気味に歯を軽く立ててくる。
 ――ちょっと怖いような気がする。食べられるかもしれないって。
 ――でも笑いだしたいような気がする。おかしいよって。
 とてもとても愉快な気がしてくる。
 だって、こんなの。こんなの。こんなの。
 私の、まだ辛うじて動く目がルーペのように女の子の唇を大きく映し、まだ残っている意識の中で何度も再生させる。
 それはワンピースと同じ、真っ白な歯だった。雪のようにまばゆかった。
 なんておかしな絵本の世界。



終。
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魔剣の少女は考える
『魔剣の少女は夢を見ない』の続きにあたるお話です。
 前回起きたことを考えるPCさん。


 身体がだるくて仕方ない。お腹を中心に痺れが残っていて、背骨のあたりがギリギリする。
 頭の中はまだぼんやりしている。
 現実はさめない夢のようだと思った。
 ふわり、ふわり、と幻想世界に引っ張られそうになりながら――。

 あたしは口を開ける。
 目も心も蕩けたまま。
 親鳥を前にした小鳥みたいに。

 舌先で甘味を感じ取る。
 生徒さんの介助で、あたしの口に入ってくるご飯は凄く甘い。
 プリンみたいな感触。砂糖多めのカフェオレみたいな味がする。
 反射的に溢れて来る唾液と、甘いご飯と、ぼんやり漂う現実を呑みこんでいく。

(さっきのはどういうこと?)
(あたしは剣になっていた)
(そして使われた)
(剣として)

 馬鹿げた空想をゆっくりと浮かび上がらせる。土に染み込む雨のように、静かに。
 ――ただ剣として使われただけなら、淀みは切れなかった筈だ。
 あの青い淀みが幻でなかったのなら。
 あたしは特殊な能力を使っていたのではないか。人魚としての、未だ掴み切れていない自分の可能性を。

(だとしたら)
(だとしたら……)

「自分で食べてみる?」
「――……え?」

 自分が動けない身体であることに、慣れてしまっていた。
 だから自然に視線だけ上げて、生徒さんを見た。
 あの鏡に囲まれた状況だったら、面白いものが映っていただろうと、心の奥で思った。
 鞘に収められた剣が、目を持ち、口を持ち、それらを当たり前に動かしているのだから。

 生徒さんの一人の手には、焼き芋があった。
 今さっき、石焼き芋の屋台が学校の前を通りかかったのだという。
「甘いもの尽くしになっちゃうけど」
「味覚って甘いものが一番鈍くなりやすいんだっけ?」
「私なら意識が薄れていたって分かる自信があるわ。甘いのだーいすき」
「冬は焼き芋が一番よね」
「牛乳もないと……。持って来る!」
 春になって、小道に小さな花々が咲き出すように。
 ポツポツと賑やかな声が咲いた。
 あたしは小さな声でくすくすと笑った。よく分からない現実、という夢が、あたしを掴んでいたので、殆ど喋らなかった。

 あたしは石焼き芋にかぶりついた。
 手を使えないことは不便だった。
 かぶりつく、というのは、ただ口に入れられたものを噛むだけと違って自発的で、手を使わないとちょっと恥ずかしい。
 身体は食べることに集中させながら、それでも頭はぼんやりと考えていた。

(前から持っていた人魚の妖力を使った)
(だけどあたしは水しか使えない筈なのに)
(生徒さんがあたしを振り上げていたのだから……剣として使われているとき、あたしは重力を操っていたことになる)
(青い淀みはどこから来た? 元からあった?)
(あたしが目に見えない、隠れた淀みを生徒さんたちに見えるように視覚化させていたのだとしたら。空間も操っていた?)
(視覚化なら光もかな。……時間は?)
(分からない。仮に操れていたのなら、それはもう霊力か魔力だわ)
(あるいは神力かもしれない……)

 今までだって、あたしは特殊な力を出していた。だけどそれはアイテムを使ってのことで、今回のあたしはアイテムとして使われた側だった。
 無意識にアイテムの能力を発動させていたのだろうか。
 だけど、例えばケリュケイオンを発動させていたとして。
 逆鱗で補佐したとしても、重力なんて水からは程遠い筈なのに――。

 口の端に吸いのみが差し入れられた。
 冷たい牛乳が口の左端から小川のように細く入ってきた。中央にある喉という滝へ向かって。
 こくん。こくん。
 むせないように、少しずつ滝へ落としこみながら、ふと思う。

(水の概念を極限にまで広げたらどうかな?)
(身体には血液がたくさんある。人間の体内の60%は水。ケリュケイオンを作動させてあたしの体内に混ぜ込み、身体自体を一つの湖として扱えば……)
(霧状にしたケリュケイオンを空気に混ぜ込めば、教室のように狭い空間なら少しは操れるかもしれない)
(雨の中の虹みたいに……何らかの反応で、目に見えない淀みを視覚化出来ることも……)
 そんなの何の根拠もない。
 馬鹿げた空想話。
 なのに、いや、だからなのか。とても胸が躍る。
 自分に隠された潜在能力があるのなら、それがどんなものか知りたい。

「みなもちゃん、美味しい?」
 焼き芋から目線を移し、生徒さんを見た。
 あたしはまだ焼き芋を食べていた。
 冷たい牛乳のあとは、焼き芋のほかほかとした温かさが引き立つ。
 最後の一口をごくりと飲み込んで。
 口の中が空になると、あたしは無機質な身体に似合わず、軽やかに話した。

「はい。とっても!」



終。

全体の表 >
嘆きの笛
 シチュエーションノベル(シングル)です。
 二度目ましてのPCさんです。
 シリアスなお話なのですが、、時々ギャグっぽくなってしまいました^^;
 ……ランチもやっているバーか、最近出来た24時間営業の店ということでお願いします……。
 上空に浮かぶ事象艇。綾鷹郁は真下に広がる琵琶湖を眺めていた。
 長い年月を経て、カラカラに乾き切った地面。水豊かな琵琶湖は遠くに行ってしまった。
 郁はかつて湖だった土地を眺めながら、ある同僚の顔を思い浮かべていた。
 友人でもあった同僚。困り顔まで鮮やかに思い出せる。彼女の思い出はあまりに近い。
 普段お喋りな郁は、しかし、口をつぐんでいる。
 ――今だけは、ただ、静かに。


 事の起こりは、美しい琵琶湖畔での艦対抗女子マラソン大会のときだった。
 艦対抗女子マラソン大会は恒例行事だ。郁もブルマを履き、闘志に溢れて参加した。女子同士の本気のぶつかり合い、これも毎年見られる光景だった。
 が、奇妙な音を郁は聞いた。
 フラットの多い不安定な旋律。音は小さくなり、大きくなり、か細く消え入りそうになったかと思えば突如叫び狂う。それは笛の音色であった。
 音に誘われるように、郁は視線を動かし。
 見た。

 沿道に一人の笛吹き男が立っていた。
 傍らではブルマ姿の女性が倒れていた。彼女は膝を折って、片方の臀部から崩れ落ちていた。奇妙な形だった。まるで飽きられて放り出された西洋人形のようだった。その身体からはブルマと同じ色の体液がドクドクと流れ、小さな湧水をコンコンと作り出していた。
 彼女は郁と同じTC――航空事象艇乗員だった。
 彼女は郁の友人でもあった。
 彼女は死んでいた。
 郁の叫び声が辺りに響き渡った。

 検死の結果、彼女の死亡原因は曖昧なものだった。他殺でもなく事故でもなく自殺でもない。病気は最もあり得ぬことで、突発的な自然死でもない。非常に稀なことで、この死は一種の不運の重複によるものであると検視官が言う。
 郁は頭に血が上った。
 友人が死んだのだ!
 それなのに死因が“不運”だと言う。
「ふざけないで! あのとき笛吹き男がいたわ。無関係とは思えない!」
 郁は無論、そう睨んでいた。笛吹き男が忽然と姿を消さなければ、すぐ郁は男に詰め寄っていた筈だ。だがあのとき、郁が悲鳴をあげた頃には男の姿はなかった。
 ならば聞いて回るしかない。
 それは成果をもたらした。
 郁が彼女の身体を抱き起こしていたとき、上空に紅色の笛が浮かんでいたという。沿道を警戒していた事象艇が見つけたのだ。だが笛を回収しようとして、事象艇は怨霊に襲われてしまった。笛の回収どころか艦艇一つ墜落したのだ。
 その奇妙な話の結びに、艦艇から命からがら逃げ出したTCが言った。
 空中でクルクルと回る紅色の笛は、それは奇妙だったと……。


 郁はバーに就職した。草間武彦の調査で笛吹き男の出没スポットが割れたからだ。
 男は無名の作曲家で趣味はマラソン。つばの広い帽子を被り、紅の笛をクルクルと回す。ときには昼間から安いバーで呑んでいる。
 そんな男と接触したいのなら、バーに勤めるのが一番だ。郁は本気だった。
 作戦は成功だった。笛吹き男が幾度も客としてやって来たのである。
 男はフラフラと店にやって来ては、チビリチビリとビールを呑んだ。酒に弱い男で、少量のビールですぐに出来上がった。
 酔うと彼は頻繁に軽口を叩いた。そのくせ、高いプライドが覗き見える話し方をした。今は売れない作曲家だが、そのうち宇宙飛行士になるのだと言った。

 ある夜、男はひどく酔っていた。

「さァお立会い。ここにありますのは我が家宝、嘆きの笛にございます。美しい深紅笛、この色は血の涙にて染められました。琵琶湖で理不尽に殺された先祖の怒りであります。この笛は先祖の彷徨える魂を救うためにございます。さて、今から吹きますのは、試し斬りされて琵琶湖に捨てられた武将妻への鎮魂歌……」
 そう言って、男は笛に唇を当てた。
 だが笛を吹こうとして、男は見る見る青ざめた顔になり、遂にはぎゃっと叫んで笛から口を離した。
「いけない、いけない……。俺は酔うといつもこうだ。こんな所じゃさすがにダメだ……。手元に置いていたら、いけないな」
 取りつくろうように、男は笑った。ニヤニヤと安っぽい作り笑いだった。
 郁は上等な微笑みを作り、男のグラスにビールを注いだ。
「も〜、変なのっ。どんどん呑んで〜!」
 日付の変わった頃、郁は草間から情報を掴んだ。
 先程まで、皇居のお堀で男が笛を吹いていたという。
 現場に向かった草間が声をかけようとしたが、男は笛を吹くのをやめ、ふらりと姿を消したそうだ。
「やめた、やめた。……そうだ、もっといい使い道がある。これで宇宙飛行士になれるじゃないか! どうして気付かなかったんだろう!」
 消える前、男は一人ごちたという。

 翌日、事象艇からの連絡で艦艇に行った郁は、小さく声をあげた。
 空中には昨夜見たばかりの笛が浮かんでいたからだ。
「今日から突然よ。昨日までなかったのに」
 と艦長が言うが、当たり前だ。昨日は男が持っていたのだから。
「霊的エネルギーの反応が凄いのよ。霊障被害が出るから、排除したいのに、手出し出来ないわ」
「あの笛を取れるのは、あいつくらいってことね」
 大きな瞳で、笛をキッと睨む郁。
 あれが友人の仇なら。
 この笛を、あの男を。逃しはしない。


 先手は男から打たれた。
 バーにやってきた男は、既に酔っていた。
 男は千鳥足で郁に近づくと、例のごとく安っぽくニヤニヤと笑った。
「よう、仮面女」
 腰に回された手を払い、郁は笛吹き男を睨んだ。
「どういうつもり?」
 男は尚も笑っている。
「知っているんだぞ。お前の正体。ホステスなんかじゃないんだろう。本当はTCなんだよな? お前のせいで、俺の計画はおじゃんになるかもしれないって訳さ……」
 抑揚のない話し方に、感情を抑えつけた男のプライドを郁は察した。
 男は苛立っているのだ。
 その苛立ちが、郁の感情に火を付ける。
「計画って何? どうせロクなことじゃないんだから、さっさと諦めることね」
 男の顔が憤怒に歪み、赤くなった。
「小娘が!」
 後はもう、聞き取れない程の早口で郁を罵った。呂律の回り切らない舌で、男は郁を狡賢い女と決めつけて罵倒した。
 郁の可愛らしい外見からあらゆる妄想を働かせ、こういった女は尻軽に決まっているとまで言った。こういう女は男に遊ばれるので云々……。
 ブチ。郁の中で何かが切れる音がした。
「黙って聞いときゃゴラアアアアアアアアアア! おまんの奥歯ガタガタ言わせてドツキ回したらアアアアアアアア!」
 笛吹き男の酔いが醒めたのも無理はない。
 逃げなければという本能が勝ったのだろう。千鳥足どころか非常にしっかりとした足取りで、脱兎のごとく逃げ出した。
「逃がすかアアア!」
 ヒラリ、とスカートを脱ぎ捨てる郁。
 身の軽いブルマ姿となって追いかける。

「郁! 加勢するわよ!」
「いてこませエエエエ!」

 同じくバーに潜入捜査していた同僚たちも男を追い始めた。
 女性は三人なら姦しいだけで済むが、大勢となれば恐ろしい存在である。
 厨房にいた同僚が包丁を持ちだした。
「ヒイィィィ! 殺される!」
 後ろを振り返った男が叫び声をあげる。
 阿鼻叫喚の世界……!
 もはや笛吹き男は絶対悪である。
 同僚の死はこの男のせい。
 嘆きの笛の存在もこの男のせい。
 消費税が上がるのもこの男のせい。
 郁が男にフラれるのもこの男のせい。
「許さないけんね!」
 郁の目が血走っている。
 笛吹き男の寿命もあと1分程で尽きるだろう。
 アーメン!

 ……それでは困る、と冷静なのが事象艇で見ていた艦長である。
「ちょ、ちょっと! 落ち着いて! 元凶は笛による霊障なのよ! 笛を何とかしないと!」
 艦艇で騒いでも、興奮した郁たちの耳には届かない。
 空中に浮かぶ笛を取れるのは男だけである。先に男を倒されてしまっては大変と、艦長も慌ててブルマ姿となり追いかける。
「早く笛を取って! 呪いを何とかして頂戴!」
 艦長の声に笛吹き男が我に返る。
「そうだった! 笛を取りに来たんだった!」
 男は軽やかに跳ねて笛を握り締めた。
 郁たちには近寄れなかった、黒い瘴気を放っていた笛も、持ち主の手には簡単に収まった。
 そして、男は咳払いを一つ。
「可愛いお嬢さん! 先ほどは言いすぎました。酒の上での暴言、お許しください」
 郁も、血気盛んな同僚たちも、我に返って立ち止まる。
(可愛いお嬢さん……)
 郁の頭の中でリフレインする、素敵な言葉。
 お嬢さんと言われたから、少し冷静になってもいいと郁は思った。
 可愛いお嬢さんと言われたから、話くらいは聞いてあげてもいいかとも思った。
「それで、どうする気なのよ?」
 郁は愛らしく首を傾げて、それでいて語気を強めて言った。
 対して、男は幾分芝居がかった口調で。
「みなさんもお気付きでしょうが、この嘆きの笛は呪われているのです。琵琶湖に沈んだ女の恨み節を謳うのです。呪いを解くにはただ一つ。長い年月を経ることです」
 男は踵を返し、再び脱兎のごとく逃げながら。
「そういう訳ですから、笛の持ち主である俺が宇宙に持って行きますよ! 呪いを解くために! 仕方なく! 許可も取っておきましたからご心配なく! アデュー!」
 捨て台詞が長すぎて、音がどんどん遠ざかって最後の方は聞き取れなかった。

 …………………………。

 郁はスマホで草間に電話をかけると。
 怒りで震えた声で告げた。
「空港に笛吹きバカが行くから、ぜっっったいに掴まえて。アシッド族よ!」
 電話を切ると、郁はスタンディングスタートを切った。
 長いマラソンの始まりだった。


 宇宙飛行士になるための口実に、呪いの笛を使ったアシッド族。
 哀れな笛吹き男は艦内で吊るし上げられ、そのまま未来へ。
 呪縛から解けた笛は静かに燃え尽きていくだけである。
 紅の色が蕩けてく。
 郁は口をつぐみ、それを眺めていた。眼下に広がる、枯れた琵琶湖と共に。
 ――今だけは、ただ、静かに。



終。
全体の表 >
ケンタウルスの少女
 シチュエーションノベル(シングル)です。
『魔剣の少女は考える』の続きにあたるお話です。
 神馬の情報からケンタウルスになろうとするPCさんですが……?
 新年になって、お父さんから手紙が届いた。
 新年の挨拶と共に、神馬の毛が同封されている。
「ケリュケイオンは使いこなせていますか? 今年は午年です。これで練習しなさい」
 真っ白で美しい毛を撫でながら、あたしは考えた。
 これを元に、馬に似た別の動物になってみよう。
 例えばケンタウルスに。

 この前のアルバイトで、あたしは自分の能力に疑問を持ち始めていた。
(水を操るだけじゃないのかな)
(他にも能力があるんじゃない……?)
 ではどうすればいいのか?
 ケリュケイオンを使って自分の能力を広げられる可能性は前からあった。
 それを試して良い頃だと思った。

 服を脱いで、部屋で一人、あたしは目を閉じる。
 緊張からか、いつもより背がピンと伸びているようで。
 冬の寒さが身体の芯に響いて、身体が強張っていきそうだ。
(意識してケリュケイオンを使うのは久しぶり……)
 スゥ、と静かに息を吸って。
 ケリュケイオンを呼び覚ます。
 一匹の蛇は音もなく対象へと這い寄り、霧に姿を変えて対象を取り込む。

 あたしは両肘を畳に付き、呻くのを堪えた。
 痛みにも取れる、強い刺激があたしの体内を駆け巡っていた。
 別の、血肉を持った生き物が、あたしの血液に入り込み、暴れ狂っているみたいだった。
 あたしは歯を食いしばる。耐えていれば、やがて刺激は無くなる筈だと。
 だけど、その生き物は、やっと走れる場を見つけたとばかりにあたしの中で跳ねまわり、命の産声を上げる。
 弾むような刺激は、完全な痛みに変わり――、
「うぅ……イイィィ……」
 寒さも相まって、痛みが膨れ上がる。
 あたしはガチガチと歯を鳴らして、声を出す。
 どんどんと声が零れていく。
(これを制御しなくちゃ……)
 残っていた自制心で、自分の唇を噛んだ。
 悲鳴に変わりそうだった呻き声を抑えつけると、耳の奥で無機質な金属音が響き渡っていることに気付いた。ケリュケイオンの音だった。
 冷静に。冷静に。
(…………………………………………)
 気が静まってから、あたしはそっと鏡を見た。
 そこには、あたしが映っていた。
 頬がいくらか赤くなってはいるけど、いつものあたしだった。

 ケリュケイオンで取り込んだ神馬の情報をそのまま出すのではなくて。
 アレンジさせて自分の想像通りの姿になりたい。
(ケンタウルスは、以前特殊メイクのアルバイトでやったことがあったし……)
 あのとき生徒さんが言っていたあたしらしいケンタウルスを想像して、感覚を思い出して。
 ――指の間からこげ茶色の毛が現れる。
(意識して……意識して……)
 神馬とあたしの妖力を混ぜて、それを体内で増幅させる。
 身体の中にあるたくさんの水と一体化させていくのだ。
 あたしの中にある別の生命を、コントロールしながら芽吹かせなければならい。
 植物化したときのように、本能に負けてしまわないように。
 ゆっくりと時間をかけて獣の毛を生やしていく。

「…………っ」

 あたしの中で波打つ生命は、あたしの人魚としての本能と溶け合い。
 一つのうねりとなってあたしの心を蹂躙したがる。
 ぐるぐると、獣のうなり声にも似た音がして、濃くて長い毛が出てくる。
 あたしの白い肌は茶色く覆われ、すべすべした感触はどこにもない。
 ギリギリのところで理性を残して。
 あたしは肘を伸ばし、四つ這いになる。
 その姿がどれだけ奇妙なものであるか、自分でも想像がつく。
 手足と腰まで深い毛に覆われたのを確認して、あたしは深呼吸をした。
 ギュルギュルギュルギュル……。
 幾分不快な音と共に、腹部へ鈍痛が走る。
「うう……グググググ……」
 お腹がメリメリと音を立てる。
 二本の太い足を生やしているからだ。
 それも深い毛で覆われ、獣の臭いが漂った。四つ這いになって足が近くにあるせいか、あたしの鼻いっぱいに臭いが広がって、咽そうになる。
 何とか堪えて、あたしは顔を上げて鏡を見た。
 ――まだ足の増えた、奇妙な獣の“なりかけ”でしかない。
 足の多い生き物で、こげ茶色の毛を生やしてはいるが、腰から上はつるりとした肌の人間だった。
 ひどくバランスの悪い生き物のように見える。
(アルバイトでやったケンタウルスはこんなのじゃなかった)
(もっと胴が長かった)
 胸から下に力を入れて。
 グーッと胴を伸ばしていく。生やした足と、元の足との間のバランスも考えて、ゆっくりと。
 お尻の形も変えていく。あたしのお尻は丸い形をしているけど、それでは獣らしくなかった。新しく作った足に力を込め、気張る。臀部は一度グニャグニャと形を失い、そこから馬の命を出す。少し間延びさせ、硬くなったお尻へ。
 そして尻尾を出さなければいけない。
(……黒がいいかな)
 服を合わせるような気持ちで決めた。
 黒々した、漆黒といえる毛を長くうねらせて。
 あたしは背筋を伸ばし、鏡に向かって四本の足で立った。
 新しい足と、元々の足とで。両手を広げて、毛の流れや生えていない所がないかチェックした。
(うーん……)
 上半身が弱々しすぎる気がした。下半身は獣毛に覆われて力強く立っているが、上半身は少女のままだったからだ。
 だからと言って、上半身を下半身と同じように獣毛で覆ってしまうとただの怪物になってしまう。
(どうしよう……)
 鏡に身体をつけんばかりに寄って、自分の身体を観察する。
 すると、白くつるつるとした肌でも、産毛が生えていることに気付いた。ごく細かい毛で、目を近付けてもやっと判別が付くか付かないかのものだけど、確かに存在している。
 あたしは集中して、少しずつ体毛を長く太くなるように、獣の情報を混ぜていった。
 上半身の皮膚も変化させた。あくまで人の肌でありながら――成人男性くらいの硬さに、皮膚を強くした。
 日焼けした肌の色にもした。これは神馬の情報を混ぜて皮膚の膜を作って、覆わせることで出来た。
 色白の少女の肌では獣の姿と合わなかったから、小さな違和感もこれで消えた。

 大分時間はかかったけど、鏡の前にはケンタウルスの姿をしたあたしがいた。
 少女の顔。少し硬くなった皮膚。力強い獣毛。太い足。うねる漆黒の尾。
 これがあたしの考えるケンタウルスだった。
「…………あたしにも出来た」
 小さく呟いた。



終。

全体の表 >
仮想世界を走り抜けて
 シチュエーションノベル(シングル)
『ケンタウルスの少女』の続きです。
 ケンタウルスになったPCさん。さすがに生徒たちに見せに行く訳にはいきません。
 そこで仮想世界で走ることを思いついて……?
 鏡に向かって、犬が尻尾を追いかけるみたいにクルクルと回ってみた。
 様々なポーズをとってみた。
 蛍光灯の下、鏡に映るケンタウルスを眺めていると、長い夢を見ているような錯覚を覚える。
(夢の中にいるなら、外に出てみたいけど……ここは現実だもの)
 そこまで考えて、ふと。
 仮想世界になら行けることを思い出した。
 前にお父さんからプレゼントされていたアイテムがある。『仮想世界シミュレーター』という名前の、チョーカーに似た装備品。
 これがあれば、あたしは外へ行ける――。


 ……ザシュ。
 乾いたアスファルトを前足で擦る。
 息を大きく吸う。
 冬の空はとても澄んだ青色をしていて、冷たい空気が喉をヒリヒリさせる。
 そんな小さな痛みさえ、心地良い。
(よぉーい。どんっ)
 心の中で声を張り上げて。
 あたしは走り出す。

「う、あ? わわわわっ」

 しまった。前後左右、出鱈目な足の出し方をしてしまった!
 足がもつれて、倒れ込む。
 仮想世界なら、土の道にしておけば良かった!
 アスファルトの上で転ぶと、痛い!
 硬くした皮膚と剛毛があるから、すっかり油断していたのだ。
「うー……」
 俯きながら起き上り、そっと辺りを見渡す。
 仮想世界だから他に人はいないのだけど。
 つい確認せずにはいられない、小心者のあたし……。
 ……――気を取り直して。
「いち、に。いち、に。いち、に」
 子供みたいに声を出して、ゆっくりと歩き出す。右足、左足、右足、左足。
 バランスがとりやすいように、両手も振りつつ。右。左。右。左。
 だんだんと足を速めていって、やがて走り出す。
「1、2、1、2、1、2、1、2」
 自転車に乗れるようになった子供が、自転車から降りたがらないように。
 一度走れるようになったら、止まる気になんてならなかった。
 大通りに出て、颯爽と交差点を走り抜けていく。
 仮想世界って何て素敵なんだろう。どこまで行っても青信号!
(まるでテレビのコマーシャルみたい)
 街中なのに誰もいなくて、時が止まったように静かで。その中を一人、あたしだけが軽やかに走っていく。
 タネも仕掛けも分かっているのに、凄く不思議で、ロマンチックで……ドキドキする!

 商店街を通り過ぎて行く。
 次々に変わる景色。
 いつも立ち止まる八百屋さんの前や、コロッケの美味しい肉屋さん、立ち寄りたいけど我慢して速足で過ぎる雑貨屋さんの前も。
 ビュウビュウと風を切って、後ろへ置いて行く。
 胸の高鳴りが大きくなって。
 心地良さが風船みたいに膨らんでいって。
 ――そしたら、悪戯心も出てきた。
 塀の上に林檎を一つ置いて。
 さてお立会い。取り出したるは一本の弓、これで林檎を射ってみせちゃいます。
(なんてね)
 仮想世界はあたしを大胆にさせるみたい。
 あたしは奇妙な前口上を述べて、走りながら弓を放った。
「あー、違う!」
 弓は大きく外れて、塀を飛び越えて明後日の方向へ行ってしまった。
 ノリで出来ることではないのだ。何回も練習したけど、まぐれで一回当たっただけ。悔しくなって、あたしはこの遊びに夢中になった。
 ただの馬の姿だったら弓を射ることは出来ない。上半身が人間のケンタウルスならではの遊びだった。

 次にやったのはハードル。
 ハードルと言っても、体育で使う物ではなくて。車だ。
 仮想空間なので、自由に車を置くことが出来る。800メートルの中に何台も車を配置して、走り抜けるのだ。軽自動車もあれば、キャンピングカーもあり、トラックもある。ゴール前には漆黒のリムジン!
 助走をつけてテンポ良く跳ねる。膝を柔らかく使って、尻尾を揺らし、ペガサスのように舞いあがる。
 高く、高く。そして遠くまで飛び上がった。
 キンキンに冷えた冬の風を、全身の毛で受け止めた。足に生えた長いこげ茶色の毛が風に靡いて、自分でも分かるくらい、獣の臭いがした。
 リムジンを飛び越えて軽やかに着地したとき。足の裏が少し痺れた気がした。でもそんなことはどうでも良いくらい、気持ちが良かった。このままどこでまでも、どこでまでも、走って行きたかった。
 塀を駆け上がり、砂利道を跳ね、原っぱを通り過ぎ、土埃を巻き上げた。
 空はどこまでも澄んでいて、あたしの髪からはシャンプーの匂いがしていた。その下からは獣の蒸れた臭いが立ち上り、あたしの髪の匂いを覆い隠していた。

(明日は筋肉痛かも)
 少し不安に思った。
 でも次の瞬間には、再び地面を蹴っていた。



終。
全体の表 >
アルラウネ
 シチュエーションノベル(シングル)です。『花、ひらく』で手に入れた種を使用するPCさんですが……?

 アルラウネのような姿ということで、妖艶なイメージで。
 自分の好きな世界観、雰囲気で自由に書かせていただきました。
 イランラインの香りは催淫効果があると言われています。大好きな匂い!

 迷ったのですが、三人称にしました。いつも一人称で無理やり押し切っていたのですが^^;
 三人称にして正解だったと思います。
 東京に雪が降った。
 夜の中で、シンシンと積もって行く雪を窓から眺めていた。小さな庭が純白の世界に変わっていた。東京の人は雪に慣れていないから、みんなとうに家に帰っているか、どこかに泊っている。人通りの全くない街……。
 ――まるで仮想世界みたい。
 そうだ、と思いついた。
 試してみたいことがある。

 寒さの中、手袋もせず、簡単にコートだけ羽織って庭に出た。
 吐く息が白い。風はないけど、空気が冷たくて、頬がちくちくする。
 ……みなもの右手には、小さな種がたくさん。
 前に植物化したときに作った種だ。元に戻る前に取っておいたものだった。
 それを口に流し込む。
 プチ、プチ、プチ、プチ…………。
 胸の奥から破裂音が響いてくる。その音はとても小さくて。雪の降る静寂な夜でなかったら、聞き逃していただろう。
「…………あぁ」
 声を一つ落とす。
 コートを静かに脱いだ。大きく息を吐く。白い吐息がふわふわと空を漂って消えていった。
 服を脱ぐより早く、種が芽吹いていた。タイツごとふくらはぎを細く突き破り、スカートの下で茶色い根っこがうねっていた。みなもはもどかしくスカートを脱いだ。
 細い根っこたちは足から次々と生えてきて、各々勝手に土を求め彷徨う。やがて柔らかな新雪に辿り着き、そこへ深く根を下ろしていった。
「わっ……」
 ズルズルと、みなもの足先が土に引きずり込まれる。並行して、足の感覚がなくなる。膝から下がぐにゃりと歪んだ一つの塊になって、茶色く変化していた。足は太い根っこになったのだ。
 腕から、お腹から、胸元から、ギザギザした葉っぱが生えてきた。無数に、無数に。プチプチプチと音を立てて。細切れに生命のリズムを打ちつけて。
(あたしの葉っぱが)
(あたしの葉っぱが)
(あたしの葉っぱが)
 大きく育ち、ざわめき出す。
 膝から上は、緑色の肌になった。茎だった。みなもの身体の一部は根っこに、大部分は茎になったのだ。
 けれど、少女の面影も残していた。顔はそのままだったから、緑色の身体の上に透けるような少女の肌があった。青い髪も長いまま、雪を乗せて肩へ流れていた。肩は茎の色をしていたが、それが少女の肩であったことを物語るように、ふるふると小さく震えていた。
 みなもの胸元から、プツンプツンと弾ける音がして、淡いピンク色の花が開いた。
 肩の傍と、胸の谷間に、三つの花が艶やかに揺れていた。
 むせかえるような花の匂いが鼻をついた。イランイランによく似て、夜を抱くような匂いだった。

 この頃には、もう、みなもの心持ちも変わっていた。いつものみなもではなかった。胸に咲かせた花びらを誇っていた。尖った葉っぱを愛していた。花の娘のような気持ちであった。
 みなもの心は、香りが抱いている夜の一部になっていた。自分が花でありながら、花に包まれている思いがして、感極まっていた。
 この昂る気持ちを言葉にするための口はあったが、言葉が出てこなかった。花の娘は言葉を発したがらなかった。
 代わりに、庭を歩きまわった。
 ズボッ……ズボッ……ズボッ……。
 地中から根っこを引き抜いて、また雪へと差す。身体である茎をくねらせながら、みなもはもどかしく歩きまわった。
 根っこが上手く引き抜けず、みなもは一度、雪の上に倒れた。
 まだ誰にも踏まれていない雪は、綿あめより少し硬いくらいで、心地良かった。スプリングの効いたベッドで遊んでいるみたいだった。頬は感覚がない程冷えていたが、茎になった身体には寒さは感じなかった。
 くすくすくす……。
 みなもは葉っぱを揺らしながら、笑った。くぐもった声だった。
 それからゆっくりと起き上ると、再び歩きまわった。
 白い吐息が、フワフワと夜に消えていった。
 花の匂いはより強くなり、眩暈を覚えてしまいそうだった。みなもが放つ香りが、みなも自身を誘い込んでいった。
 深い雪の夜へ――……。



終。

全体の表 >
吸血鬼を捕縛せよ
 シチュエーションノベル(シングル)です。
 初めましてのPCさんです。vs吸血鬼。霧化して攻撃をかわしてしまう吸血鬼を捕縛するために、吸血鬼を石化させるPCさんですが……?
 お尻と書くか、臀部と書くか、尻と書くかで、すごーく悩みました(笑)。
 地の文だし、臀部と書くべきか? と考えたり。
 結局、想像しやすさを優先して、お尻にしました。
「うー。さむさむ。天気予報に騙されたわ。どこが初夏並みの暖かさやねん!」
 深夜の××市郊外。セレシュ・ウィーラーは震えていた。薄手のコートだけを羽織って颯爽と家を出たものの、時間が経つにつれ寒さが身に染みる。近くにコンビニはない。
 こんな時は自動販売機を探すのが正しい。セレシュは無事ホットコーヒーを買うと、嬉しそうにそれを飲みつつ、坂道を下りていた。
 午前二時半。長い坂道の両脇には林、坂道を下った先にあるのは遊具の少ない寂れた公園である。
 深夜に人気のない道を、見た目年齢十五歳の少女が独りで歩いている。これがどのような意味を持つのか、セレシュは勿論理解している。
 ――後ろで物音がした。
 セレシュが振り返ると十代の少女がいた。黒髪に黒い瞳、細身の身体。容姿は普通の少女だった。だが猫の目のように瞳孔を大きく開き、歯を見せて笑う姿は尋常でなかった。
「………………!」
 セレシュは持っていた空き缶を落とすと、両手を口に当てて後ずさった。
「大声を出さないなんてイイ子ね。可愛がってあげる……」
 セレシュは逃げた。転がるように坂を下り、公園まで走ったが、相手の方が速かった。
 宙に浮いた少女はセレシュの前に回りこむと、舌舐めずりをして嬉しそうに笑っていた。
「鬼ごっこは終わり。逃げられないわよ」
「せやな。逃がさへんわ、吸血鬼のお嬢ちゃん」
 セレシュは宙に浮いた少女――吸血鬼を上目遣いに見ていた。ニマニマと悪戯っ子のような笑いを堪えつつ、だ。そこに怯えた少女の面影はなかった。
 異変に気付いた吸血鬼は身を翻して逃走を図ったが、どうしても公園から出ることが出来ない。
 最初からセレシュの罠だったのだ。IO2から吸血鬼捕縛の依頼を受けたセレシュは、自ら囮となって結界を張った公園にターゲットを誘い出したという訳だ。
「IO2の調査じゃここ一月、週に二回のペースで襲っとる。それも少年少女ばかりや。ターゲット層が明確で、証拠もざっくざく。自分、目立ち過ぎやで。捕まえてくれ言うてるもんや」
「…………ふん」
「おとなしゅう、お縄につくことや。もうここから出られへん」
「イヤよ。逃げてみせるわ」
「出られへんよ。うちの結界は破れへん」
「アナタが生きているうちは……でしょ?」
 吸血鬼は哄笑した。黒かった髪は紅く色を変え、瞳は火のように燃える色をしていた。唇の端から牙が見えていた。彼女が喋る度に、ニイ、ニイと牙が動き、それだけで独立した動物のように思えた。
「私が人間を襲うのは血が欲しいからじゃない。愉しいからよ。人間が恐怖して、苦痛に歪んでいくのを、ただただ見たい…………。だから、アナタでも……!」
 言い終わらない内に、吸血鬼の牙がセレシュを襲った。
 ギリギリのところでセレシュは身を反らせると、ため息交じりに呟いた。
「……アホらし」

 IO2の情報通り、この吸血鬼は霧化する能力を持っていた。霧相手では剣でも魔法でも捕縛に必要なダメージを与えることが出来ない。
「きゃはははは! そうそう! もっと抵抗してよ!」
 ビウ、ビウ、と風を鳴らす吸血鬼。実体がなければ無敵である。
(……けど、常に霧のままって訳にもいかんようやな)
 適度に応戦するフリをしながら、頭の中で考えを巡らすセレシュ。攻撃する瞬間に吸血鬼は実体化するようである。霧化したままでは吸血も出来ないからだろう。
(となれば……ま、アレしかないわな)
 吸血鬼がセレシュに襲いかかる。長い爪がセレシュの脇腹を掠め、コートの裾を引き裂いた。
「…………ッ」
「動きが鈍くなってきたんじゃない?! なぶり殺しにしてあげるわよ! 最後の血の一滴まで舐めつくして……」
「ちゃうちゃう。もう終わりや」
 セレシュはゆっくりとかぶりを振った。指先が黄金色に光っていた。
「は?! ここからが……きゃあああああ!」
 吸血鬼は前のめりになって転んだ。あたふたしながら起き上り、立ち上がろうとした。
 が、動きを止めた。膝を伸ばすことが出来ないのだ。吸血鬼は土の上で膝をついたまま、それ以上立つための動作を行うことが出来なかった。
「どうしてよ! どこかに怪我を……」
 自身の足に手を伸ばし――、吸血鬼は悲鳴を上げた。
 足が硬く冷たかったからだ。指を押し返さず、弾力のない、ツルリと滑る肌をしていた。
 否、もうそれは肌ではなかった。石だった。
「石化魔法……!」
「ま、そういうこっちゃ。諦めて、心の中でもいいからごめんなさいしとき」
 裂けてしまったコートの裾をポンポンと叩きつつ、セレシュは淡々と言った。
 反して、吸血鬼は悪意に満ちた形相でセレシュを見上げた。体勢だけで言えば、吸血鬼はセレシュに向かって土下座をしているように見えた。だが瞳は憤怒に満ち、瞳孔は紅く開ききっていた。唇の端から出ている牙が震えていた。ギリギリ、ギリギリと歯ぎしりの音が響いていた。
「……殺してやる! 絶対に!」
「キサマの血を飲み尽くして! 臓物を貪って! 胸骨を踏み砕いて! 蛆が涌くまでの間、キサマの死体を玩具にしてやる!」
「私にこのような屈辱を与えたことを、あの世まで懺悔させてやるから!」
「――口達者やなあ、自分。昔ある人が言うてたで。山より高いプライドは持つだけ損やて」
「煩い! 足が石になるくらい何よ……私は飛べるんだから……!」
 吸血鬼は飛んだ。
 否、飛ぼうとした。
 一瞬だけ膝が地面から僅かに浮いたが、すぐに土の上に落下した。吸血鬼は土の上を転がり、体勢を戻すのに時間を要した。
 前日の雨のせいで湿っていた土が、吸血鬼の膝にくっついていた。それを払うプライドが吸血鬼には残っていなかった。
 水気を含んだ土の匂いをさせながら、それでも、吸血鬼は飛ぼうとしていた。
 だが今度は宙に浮くことさえ出来なかった。膝を立てて、祈りのような体勢のまま、吸血鬼は呆然とそこにいるだけだった。
「身体が重うて飛べへんよ。無理に飛ぼうとしても落ちるだけや」
「そんなことない! 私は飛べるのよ!」
「気持ちだけで飛べたら世話ないわ。イカロスがどうなったか知っとるやろ」
「…………」
「それから、これ以上暴れるとヒビが入って折れるで。……自分の足、細くて脆そうやわ」
 ビクン。吸血鬼が肩を大きく震わせた。そして、もう一度、セレシュを見上げた。
 瞳の奥で恐怖心が息をしていた。
 ――……………………パキパキ。
 不揃いな音を立てて。吸血鬼の太ももが石に変わっていた。

 ピシピシ……パキパキパキ!
 石化したスカートが砕けて地面に散らばった。
 瞬間、吸血鬼の悲鳴が広がった。
「先言うとくけど、霧化したら自分終わるで。身体がバラバラに砕けてどうにもならへんよ」
 怯える吸血鬼と対照的に、セレシュの声が冷静に響く。
「アナタ一体何者なの……?!」
「敵に正体教えるアホはおらん」
「…………何よ……何よぉ……」
 震える身体を抑え、吸血鬼はセレシュの魔法に抗っていた。しかし暴れる足も勇気もなく、怖々と、そっと手を動かしているだけだった。それはとても奇妙なダンスのようだった。
 パキパキ、パキリ!
 石化は進んでいく。太ももを通り過ぎて股関節が固まり、腰が石になり、ヘソの窪みもただ彫刻刀で削られたような飾りに変わった。脇腹も灰色のくすんだ色になり、腕も石になった。
 上半身の重みに耐えられず、吸血鬼は地面に転がった。湿った土は無遠慮に彼女の石となった身体にまとわりついた。プライドの塊であった吸血鬼は、土まみれのただの石像のナリカケでしかなかった。
「イヤ……助けて……」
 弱々しい声だった。か細く、震えている。
「うちかて、好きでやっとる訳やない。けど、自分の被害者かて同じような助けを求めたこともあったやろ。因果応報やで」
 服は完全に石化していた。薄い石となった服は、土の上で小刻みに震える胸に摩擦されて砕けていった。胸も石化した。
 パキパキ、パキリ!
 首も石化して、吸血鬼は唇と牙を震わせていた。動かせる所がもうそこしかなかった。肩も、手も、背中も、お尻も、足も。恐怖に震わせることすら出来ない、硬く冷たい静物と化していたからだ。
 ごく僅かに開いた唇は、血のように紅く、小さく柔らかな花びらのようだった。その二枚の花びらも、ゆっくりと色を失い、柔らかさを奪われ、くすんだ石になった。
 その最中、吸血鬼は悲鳴を上げようとしていた。だが声が出なかった。声帯はとうに石化していたからだ。
 パキパキパキパキパキ……。

 ひっそりと寂れた公園にいるのは、セレシュと、地面に転がっている石像である。
「さて、と」
 セレシュは石像の前で屈みこんだ。後は封印をすれば任務完了である。
(万が一石化しきってなかったら、大変やからな)
 コンコンと石像の丈夫な所を叩く。
 それから石像を触った。石化されているかどうかの確認である。
 吸血鬼の足の指から順に上へ撫でる。細い足首はセレシュの忠告通り脆そうだった。セレシュの指を押し返すような生々しい弾力はなく。ただツルツルした、冷えた塊である。
 少し前まで、吸血鬼の肌だった。そこを、セレシュの指先がなめらかに滑っていく。
 胸の谷間は細い小川のようだったが、滔々と流れる水がない。その小川を上って行くと、そっと突き出た鎖骨に出くわした。勿論それも石化している。そしてツンと盛り上がっているだけの塊でしかない胸……。灰色の牙を、セレシュはコツコツと指で弾いた。
 硬く、冷たく、体臭もない。ただ土の匂いがする。
「ま、これはサービスや」
 セレシュは吸血鬼にまとわりつく土を払ってやった。
 それから魔力を指に込めて、封印の模様を石像に印した。
「よっこらせっと。撤収、撤収! ……あ。途中でうちが捨てた空き缶、拾わないかん。ゴミはゴミ箱や」
 セレシュは石像を担ぐと、家路を急ぐのだった。



終。

全体の表 >
金の精
 シチュエーションノベル(シングル)
 錬金術の実験をしているPCさん。金の精の純度が良すぎて身体が金化してしまい……?

 セレシュの自宅、地下工房。セレシュは夜毎、ここで様々な研究、あるいは実験を行っていた。そして今日も。
 セレシュはビーカーを手に満足気な微笑みを見せた。中には粘土の高い黄金色の液体が煌めいている。
 異なる素材の性質を組み合わせた魔具を作るための基礎実験。そのために金の精を抽出したところだった。万物融解液を使って丁寧に作業したせいか、純度の高い良い物が取れたので、セレシュは上機嫌だった。
 さっそく鉛に金の精をトロリと掛けると、たちまち鉛は金に変わった。
 しかし机も床も金に変わってしまったのである。
(あかん! 純度が高すぎたんや!)
 セレシュは反射的に後ろへ飛びのいたが、遅かった。首から上と腕を残して、瞬時に金化してしまったのである。
 キィィィィィン。
 金属音を響かせて。セレシュは背中から床に倒れた。
「痛たたたた……」
 まず状況を確認しなければいけない。
 セレシュは動かせなくなった足を手で触ってみた。金属のツルリとした感触を得たが、金化した足からも感覚があった。掌のぬくもりだ。つまり、完全に金化している訳ではないようだ。
(金と生体の性質が混ざっとるんやな)
 倒れたままでは、これ以上のことは分からない。
 腕だけでジタバタともがいて。足が動かないから骨を折る作業だったが、何とかうつ伏せになった。
「よいしょ……っと」
 腕だけで匍匐前進を試みる。
 ……が。
 金化した胸はいくら体重をかけても潰れず、キラキラと光りながら存在を誇示していた。それはそれはまん丸に。これでは摩擦も起きず、腕だけで進むのがとても辛い。
(何やねん。胸が邪魔って……うち、きょにゅーさまとちゃうんやぞ……)
 恨めしそうに俯くセレシュ。そこには黄金色の球体が二個、悪びれもせず輝くばかりである。文字通り谷間が眩しいが、嬉しくない。
 亀よりも遅い歩みで、セレシュは椅子の脚まで辿り着いた。
 椅子の脚を頼りに身体を起こすと、セレシュは机にもたれかかった。非常に不安定な体勢である。金化した身体では立位保持が出来ず、机に身体を預けることしか出来ないのだ。しかし、まあ、立ってはいる。

 改めて状況を確認するつもりで、セレシュは俯いて自分の身体を眺めた。
 黄金色に輝く自分の身体があった。一番目につくのは胸で、無機質な二つの球体が煌めいていた。谷間がクッキリと影を帯びて浮かび上がっていた。蛍光灯の下でも、その輝きは美しかった。
 セレシュは自分の身体を撫でてみた。ツルツルと掌が滑っていく。何の引っかかりもなく、弾力もなく。膨らんだ胸からくびれたウエストまで、流れるようにスルスルと撫でた。
 腰や太もも、手の届くところまで触ったが、自分の身体とは思えなかった。ひんやりと冷たく、肉体より硬く、命がなかった。掌には体温のない、寂しい感触だけが残った。
 だが触られた部分にも、感触を感じていた。セレシュの、金化していない生々しい肉体。それが掌を通して、金化したセレシュへ語りかけてくるのである。
 掌はじんわりと温かかった。セレシュが撫でるのに従って、ぬくもりもスルスルと移動していくのだった。
 ――不思議な感覚。
 セレシュは、両手で胸を包み込んだ。命を確認するように、そっと、大切そうに包んだ。
 やはり温かかった。掌はシットリと汗ばんでいた。じっと手を動かさずにいると、その湿り気まで金化した胸に伝わってきた。
 ぬくもりは心地良かった。しかし心のどこかで、金と混じり得ない違和感があった。金化した部分と生物としての部分、両方が残っているせいだと、セレシュは判断した。双方の性質が反発しあっているのだ。
 違和感は、胸にも広がってきた。
 胸が重く、息苦しい……。
 金化したから呼吸が出来なくなってきたのだ。
 だったら、いっそ完全に金化してしまうのはどうか――とセレシュは思った。呼吸しなくて済む身体にすれば楽になれる筈だ。
「ま、しゃーないな……」
 とポツリと零し。セレシュはゴーレムの魔術を自分に掛けた。こうすれば身体を動かせる。そして金の精を口の中に流し込んだ。
 金の精は、上質な蜂蜜のようにトロトロと粘度の高い物で。おまけに無味なため、食感だけが強調されてしまい、大変まずい。味のないバリウムのようだ。セレシュは眉をひそめて、唇をへの字にした。
(こ、こんなん飲み込むんか……)
 決心がつかずに、口の中でモゴモゴしている内に。
 舌が金化した。そして、歯も、喉も。
 あとは野となれ山となれ。金の精は我が物顔で、ゆったりとセレシュの喉へ侵入していった。
 ピンク色の唇が黄金色に変わり、ぬくもりを失う。
 血色の良い頬も同じように、引きつったようにこわばり、固まった。
 少し丸みを帯びたおでこも、指で叩いても金属音しかしない塊に。
 それから腕も金になって、指も美しい黄金へと。
 セレシュは完全に金化した。セレシュ・ウィーラーは、体温のない美しい金塊へと姿を変えたのである。

 耳をつんざくような音が地下室に響き渡った。
 セレシュは床に倒れていた。元々机に対してただ身を預けていただけだったから、ふとした瞬間に倒れてしまうのも仕方のないことだった。
(ま、ええわ……)
 セレシュはぼんやりと天井を見上げていた。青白い蛍光灯が見えた。
(完全に金化しても意識はあるんやなあ……)
 研究者としての性か、セレシュは自分の現在の状態について分析しようとして――辞めた。
 意識は残っているものの、頭の中はぼんやりしていた。あの蜂蜜みたいなトロトロした金の精が、頭の中まで蕩かせてしまっているようだった。
 ――固まった身体に、蕩けてしまった思考。
 動く気にもならなかった。
 当たり前だった。
 金塊が動く筈ないのだから。
 行動なんて性質、金塊に必要ないのだから。
(どえらい作家も言うとった、うつし世は夢って……)
(ええこと言うわ。夢と同じ……どうでもええわ……)
(ぼーっと天井眺めて……。こんな時間もええやろ……)
(……何や、スースーするわ……)
 視界の隅に椅子が入っていた。椅子には破れたトップスが引っかかっていた。この前買ったばかりのパステルカラーの物だ。今日おろしたばかりの……。
 ぼんやりと破れた自分の服を眺めながら、セレシュはやっと気が付いた。自分が今、あられもない姿であることに。金化した衝撃や倒れた時に、服が破けたり、脱げてしまったのだ。
 思い出してみれば、自分の身体を触って確かめている時にはもう、あらかた服は破けていたような気がする。
(はは。椅子にかかった服、破れまくりで、まるで船の旗のようやわ……)
(まあ、ええやないの……)
(半裸だろうと、全裸だろうと……)
(うちは金塊……。些細なことやろ…………)

(……………………)
(………………………………)
(…………………………………………)

(んな訳あるかい!)
 セレシュは再びゴーレムの魔術を自分に掛けた。
 無理やり身体を動かすと、立ちあがった。
 自分の身体を撫でてみると、金属音が響き渡る。感覚は残っているが、どちらも生物のぬくもりがない。奇妙なことだ。
(さあ! 元に戻るで!)
 決断したセレシュの行動は早い。さっそく、元に戻るための作業に没頭するのだった。



終。
全体の表 >
石英の少女
素材採集のために異世界にやって来たPCさん。
オオカミの群れにターゲットにされたPCさんの取った行動は……?
 雨が降る。雨が降る。雨が降る。
 それは全て夜の中で。
 雨は、森の葉を濡らし、川の水に溶け込み、少女の肌を撫でて零れ落ちていく。
 地面に座り込んだ少女は、白いシャツを着ていた。雨で濡れたために透けていて、およそ服の意味を成していなかった。
 服から透けて見えているその肌は、肌色とは遠い乳白色で、艶めかしく夜に隠れていた。

 ……。
 ポタポタ……。
 ……。

 雨の粒は小さなカタマリになって――少女のなめらかな肌にある幾つかの窪みで、休んでいる。
 膝の裏で、足の裏で、首筋で、鎖骨で。
 暗闇の中、雨粒は湿った光を放っている。
 その重みに耐えきれなくなった時。雨は小さな声を上げて、少女の肌を滑り落ちていくのだろう。
 地面に座り込んだ少女は、誰もいない森の中で一言も喋らず、微動だにしない。
 ……セレシュ・ウィーラーは、動かない。


 乾いた土に、透き通った水の流れる川。青い空には赤色の怪鳥の群れが飛んでいる。
 鳥のくちばしには、大きな魚。彼らも食事中なのだろう。
 セレシュは魚を捌いていた。
 岩の上で刃先が黒く煌めいていた。セレシュお手製、黒曜石の短剣だった。
 黒曜石で作った剣は、切れ味が良いものの衝撃に弱い。しかしゴムの性質を加えることによって、しなやかで扱い易い武器になる。懐に仕舞えば軽装で済むところがセレシュのお気に入りだった。
 ――セレシュは素材探しのため異世界に来ていた。
 この異世界には日本と同じように四季があり、季節ごとに採れる物が変わる。今なら、食べると身体が虹色になる虹色プラム、体温を上げる夏ツクシ、幻覚植物の花粉、雨上がりならトウメイソウの葉も狙える。
 採集用の瓶や袋を持って歩く必要があるので、武器は小さくまとめたい。
 素材採集に必要なのは身軽さと機転であるのだから――。

 ぱたり。
 セレシュは立ち止まると、軽くため息をついた。
「あっちゃー。うちがターゲットにされたんか……」
 1、2、3、4、5、6……。
 オオカミの群れに囲まれている。
 ビュッ!
 短剣が風を切った。
 敵は大勢、セレシュは隙が出ないように最小限の動きで立ち回った。
 オオカミは一度逃げたものの、距離を取りながらセレシュの後を付いて来る。
(ま……威嚇になればええやろ)
 そうは思ったものの、オオカミたちは諦めない。しつこく付いて来る。こちらがふと隙を見せればすぐに襲いかかってくるだろう。
(戦うのは面倒やし、無駄な殺生は好かんしなあ……)
 考えあぐねていたが、虹色プラムを摘む時に思い出した。
(そや、新しい魔具作ったんやった。それ試そ!)
 探究心をくすぐる実験に、セレシュはニンマリした。家で一人試すより、相手がいた方が良い。それが鋭い嗅覚と観察眼を持つ野生のオオカミなら尚更だ。
 腕輪に明日の分まで魔力を込めて――、

 スウウウ……。
 セレシュの肌が、ゆっくりと色を失っていく。
 健康そうな肌色から、乳白色へ。人の温もりの“残り”ような、ごく僅かな黄色を残して、殆ど白くなった肌。
 そして硬くなっていく。
 唇が引きつっていた。指で押すと、いつもの柔らかいプニプニした感触がない。硬く、生温かい。静かに静かに……体温が下がっていく。
 指先を滑らせて、首筋を撫でて胸を通った。唇と違って、胸が固まるのには時間がかかるらしかった。掌の中に収まる程のその膨らみは、いつもよりも硬く、しかし強く押せば反発があった。
 元々やや筋肉質の太ももは、まさに固まりかけの状態だった。
 不思議な気持ちで自分の身体をまさぐるセレシュは、そのうち、クスリと小さく笑った。
 ……ミルク寒天を作っているような気分になったから。
 まだか、まだか、と冷蔵庫から寒天を取り出してはスプーンでつつく、あの心持ちだ。
(色もピッタリやからな……)
 セレシュは、穏やかに、腰を下ろした。靴を脱いで裸足になったのは、そうした方が良いと感じたからだった。
 元々そこにあったような自然さで。セレシュは石英になった。

 オオカミたちは、セレシュの周りをくるくると回り、匂いを嗅いだが、やがて去っていった。
(当たり前や……)
(うちは石やから……)
 動かないでいる間にストレスが溜まらないよう、精神も半分石化させていた。
 だからセレシュは、ぼんやりと考えごとをしていた。
 むせかえるような花の匂いを嗅ぎ、だんだんと暮れていく空を見上げることなく、時折吹く風を冷たい肌で受け止めていた。
 石化が進む中で、もう、匂いも分からなくなってしまった。
 嗅覚が完全に失われたのではなくて、石化の過程で意識や五感が遠のいてしまったせいかもしれない――セレシュは靄がかかった頭で思った。
 石化半分、意識半分。
 ……雨が降り始めた。


 夜の中で、セレシュの肌は雨に濡れた。
 乳白色のなめらかな肌から、いくつもの雨粒が滴り落ちていった。
 脇から零れ落ちた雨が、足の付け根に落ちる。そこからスルスルと滑った雨粒が、太ももの裏へ流れ出る。
 脇腹を撫でた雫が、腰へと。
 鎖骨の窪みに出来た水溜まり。それが小さな音を立てた後、溢れ出ていく。ほぼ固まりかけの胸を滑り台のように流れて、なだらかに下る。そして、まだ固まりの弱い部分に行き着く。
 それは鈍くなったセレシュの感覚を揺らす程にくすぐったくて。
 時々、セレシュの心は震えた。笑いだしそうに、なった。
 しかし、セレシュの身体は動かない。微動だに、しない。

(朝になれば雨も止むやろ……)
(そしたら素材探し続行や……)
(雨の後やから、トウメイソウの葉も採ってこ……ラッキーや……)

 夜明けを待ちわびながら。
 セレシュは心の中で身をよじる。



終。
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血玉石と嗤う牙
 呪われたアクセサリーに魅かれたPCさん。
 身に着けた人間を吸血鬼の眷属に変えてしまうという血玉石の効果は……?

 東京怪談の公式キャラクターの一人、アンティークショップ・レンの店主、蓮。
 今回初めて書きました。
 私がOMCのライターになった頃は存在しなかったキャラクターです。
 時が経つのは早いなあ。

 学校帰りに立ち寄ったアンティークショップ・レン。
 曰くつきの物が並ぶこのお店は小さな宇宙のようだ。
「よく来たね。あんたに見せたい物があるんだよ」
 店主である蓮が持ってきたのは年代物のネックレスだった。黄金色のチェーンに、薔薇色の石が三つ並んでいる。
「綺麗だろう?」
 蓮は、そうっと、微笑んだ。
「はい……」
 みなもは小さく頷いたが、一歩、後ずさった。
 奇妙な恐ろしさを感じたからだった。
 その紅い石には光がなさすぎる。
「気付いたようだね。よく見ておいで」
 蓮は小さなライトを取り出すと、ネックレスに光を当てた。
 煌びやかに輝く黄金色のチェーン。
 しかし紅い石は輝かない。それどころか、ますます紅を濃く濁らせ、くすんでいくようだった。
「光を飲み込んで生きる。血玉石という闇の石さ」
「血液みたいな色ですね……」
「吸血鬼の血で出来た、眷属を増やすための呪具さ。身に着けた対象者を浸食し、吸血鬼の眷属へ変える。……これは試作品らしいがね」
「………………」
「恐ろしいかい?」
 少し、とみなもは答えた。
(でも……)
(でも…………キレイ)
 言葉に出さなくても、蓮には伝わっているようで。
 彼女は微笑みを崩さずに言った。
「奥で着けてみるかい?」
 ――蓮は全て見通していたのだろう。
 ネックレス装着の副作用である貧血への対処として造血剤を用意していたのだから。
 彼女はみなもの好奇心の強さをよく理解している。
 みなもの感受性の高さを買っている。


 大きな全身鏡の前に立ち、みなもはそっと首筋に指を這わせた。
 夏服に変わったばかりの制服を脱いで、白い肌を薄暗い蓮の部屋に晒していた。
 鏡には思春期の少女が映っていた。ほっそりとした手足に、高めの背丈、幼さを残した大きめの瞳。潤んだ目が青く澄んで見えた。
 みなもは目を伏せて、頬を赤らめた。自分ではない、誰か別の少女を覗き見した気持ちになったからだった。
 自分が、自分でなくなるような感覚。心持ち。
 時々、みなもはそうなる。
 それは人魚と人間の狭間で揺れ動く自分からの逃避からだろうか。
 それとも、みなもは変わっていく自分と対峙している最中なのかもしれない。
 能力も、見た目も、気持ちも。十三歳の少女は、いくらでも変わる。花はまだ開いていない。
 ……ネックレスを、着けた。

「……………………っ」
 胸を押さえ、みなもはしなしなと崩れた。
 ドクン! ドクン! ドクン! ドクン! ドクン! ドクン!
 心臓が大きく跳ねていた。
 血が身体中を巡って声を荒らげていた。
 血の叫びに、みなもは聞き耳を立てていた。うずくまり、肩で息をしていた。息を吸っても、吸っても、足りない気がした。
(心を強く持たなきゃだめ)
(そうでなきゃ、心を持っていかれる)
 みなもの肩は大きく震えた。吸血鬼への畏怖という感情。その渦に、身を浸しているような気がした。恐ろしかった。
 鏡には、奇妙な少女が映っていた。
 青い髪の毛の先から、徐々に、紅くなっている。ゆっくりと進行する病のように、紅く紅く、一人の少女の身体を冒していく。
 髪も瞳も唇も紅く染まった。
 肌は青白かった。青く透き通るような、病的な白さをしていた。皮膚の外側から青い血管がスウッと通っているのが見えた。
 みなもは、立ち上がったが、少しよろめいた。血が急激に失われていく中で、一瞬眩暈を起こしたのだろうと思った。
「…………ぅぁ」
 みなもは声を漏らした。血の叫びは胸の奥で響いていた。唇から零れたのは、歓喜に沸いた本能だった。
 ――眷属としての。
 柔らかな青白い肌を覆うように、衣装が出てきた。
 ザアザアと音がした。
 六月に降る雨のような音。
 血の音たちがみなものドレスを形作る。
 否、みなもが、作らせている。
 くるぶしまで伸びた黒いドレス。皮膚のように薄く、指を這わせると艶やかに蠢いた。命を持ち、忠誠を誓うように、主であるみなもの肌を守っていた。
 みなもは頬に手を当てた。口の中がくすぐったいからだった。
 唇から、牙が出てきた。奇妙なほど白いその牙は、両端に二本揃うと、意味有り気にニィィと嗤った。
 みなもは、自分の身体に慣れてきていた。
 宙に浮いたように、この身体は軽いのだった。
 ふわりと、鏡の前で回ってみせた。今度はよろめかなかった。
 ドレスの裾が花のように広がった。ふんだんに使われたレースがワルツを踊った。
 足先も漆黒の靴で覆われていた。高いヒールがみなもの高潔さを物語っていた。
 細い指を蝶々のように舞わせた。爪も夜色に染まっていた。

 みなもは、微笑んでいた。


 薔薇の花束をみなもに渡して、蓮が訊く。
「まだこの石が恐ろしいかい?」
 みなもは黙っていた。
 花束の中の一つの薔薇を齧る。花びらを一枚味わう。
 ふっくらとした柔らかな唇で。紅い唇で。
 少女は微笑んでいた。
 牙が嗤っていた。
「…………キレイです」
 大きく開いた胸元に、薔薇色の石が三つ、揺れている。



終。

全体の表 >
仰せのままに
シチュエーションノベル(シングル)
直前まで『人形少女』というタイトルで納品しようとしていたノベルです。
私はタイトルを付けるのが本当〜に下手で、いつも「まんま」なものになってしまいます;
 ……ミーン、ミン、ミンミン……。
 真夏の日中。気温は三十度を越え、セレシュの首筋を汗が滴り落ちていった。
 林を通り、軽い結界を越えた先にあるのは古びた洋館だった。
「こんな辺鄙な場所にあるのなら、気付かれにくい筈やわ……」
 手をウチワの代わりにしながら、洋館を見上げるセレシュ。
 IO2から受けた依頼は少女達の失踪事件。一人一人の足取りを調べると先程の林に辿り着くのだった。それにあの結界では。
「ま、ここで合っとる筈やけど、一応挨拶せな。失礼するで〜」
 入ると冷房完備の家である。ギイギイと煩い傷んだ床に反して、人がいるのは間違いない。
 大広間に探していた少女達がいた。有名な絵に出てくるような大きいダイニングテーブル。ティーカップに紅茶を注ごうとしている少女、お菓子を口に入れようとしている少女、エプロンを着けて布巾でテーブルを拭こうとしている少女……。
 皆十代半ばの美少女だが、全員喋らず、全く動かない。
 時間を切り取られたように、指先一つ震わせていない。
 肌の色も青白く、血の気がない。手にしているお菓子のマカロンだけ、鮮やかな色をしている。レッド、ブルー、イエロー、グリーン。毒を持った植物のように。
 セレシュは近付いて、少女の肌に触れた。瑞々しい弾力とは程遠く、硬くひきつった肌。よく見れば、肘がおかしい。丸いのである。
 ――少女達は全員、球体関節人形なのだ。

「私のお城へようこそ♪」
 犯人とおぼしき少女がセレシュの目の前に立っていた。
 綺麗に巻かれた金髪、内側から滲み出たような赤い唇、シャープな顎。折れそうなくらい細い身体に、低い背丈――まだ十二歳程だろうか。バンビのように大きな青い目をしていた。
「良い時間にいらしたわ。もう少しでパイが焼き上がりますの」
 呑気な言葉に、セレシュは苦笑いした。
「今そんな気分やないなあ。結界を突破して来たさかい、うちが来た理由は分かっとるんやろ?」
「勿論ですわ」
 鈴の音のように笑う少女。
「貴女には奥の部屋を差し上げますわ。家具は備え付けの物を。カーテンは選べますけど……花柄は好きですの?」
「――望んでない流れやねえ」
 セレシュは笑みを崩さないまま、腰を落とし身構えた。
 この少女は被害者達を返すどころか、セレシュまで人形にするつもりのようだ。
 ならば戦うしかない。
 攻撃は意外な所から来た。目の前にいる少女からではなく、右後ろ。人形にされている少女がテーブルを飛び越えてセレシュに掴みかかって来たのだ。
「…………っ」
 前に倒れ込みそうになるのを堪えて振り払った。ほんの一秒。人形師である敵には十分の時間だった。
 ピーィィィィィィィン。
「うぁ?!」
 手足をそれぞれに引っ張られて、セレシュは動きを止めた。
 右手を動かそうとしたが、ダメだった。
 張りつめた糸に吊られているように、全身にヒリヒリとした痛みとつっぱりを感じる。
「あっけないものですわ」
 人形師が、嬉しそうに言った。
 セレシュは唯一動かせる視線で、ぐるりと周囲を眺めた。
 セレシュに襲いかかった少女は、横で床に倒れている。セレシュに振り払われた後、そのままの体勢で床に落ちた。目は開いている。捲り上がったスカートから長い足が覗いているが、彼女は気にする様子もない。このまま動くことはないかのように見えた。
 しかし。
「お邪魔虫さん。元の場所へ戻りなさい」
 人形師の少女の一言で、彼女はすっくと立ち上がる。テーブルに着くと、ブルーのマカロンを持ち、小指を上げて、唇を開いて。止まる。
 くすくす笑う人形師の少女。
「私って美しいものが大好きですの。愛しいものはいつも手元に置いて、眺めて、触りたい……知能の高い人間の本能でなくて?」
「ああん。私の人形ちゃん。今どんな風になっていますの。確認させて下さる?」
『もち……勿論です。ご主人さま……』
 そんなつもりなどなかったのに。
 セレシュの口は金魚のようにパクパク開く。
 そして勝手に喋るのだ。嫌でも言葉が出てしまう。普段の声より少し低く響いて、胸の内側が震える思いがした。

(なんやこれ……)
(変な感じや……)
(うちの身体が……勝手に、うご、いて……)

「あらぁ。おててが邪魔ですの」
 人形師の言葉に、セレシュの手が動いた。胸元にあった手を下ろし、直立不動の無防備な姿勢になった。
 指先に、生温かな感触。
 ぬるい、とセレシュは思った。だがそれは布を通して触れられたような、鈍い感覚になっていた。本当は「ぬるい」ではなく、「ぬくい」のかもしれない。
 セレシュは、今、考える力はあった。
 けれど、そこから強い意志を持つことが出来なかった。
 目の前にいる、少女の思うがままにされていても。
 そしてそれを認識することが出来ていても、抵抗することは考えられなくなっていた。
 首筋を舐められた。
「無味……。人形化すると汗の味がしなくなる。不思議ですわね」
 両腕を幾度も撫でられた。指で弾かれもした。
 痛くはない。コツコツという音を耳にした。
(モノ、の音やな……)
 ぼんやりと思った。
「腕は大丈夫そうですわ♪」
 弾んだ少女の声を聞いた。
 楽しそうやなあ、とセレシュは思うだけである。
 Tシャツを捲り上げられた。
 セレシュは少女の指を感じ取った。長い中指に一番強く肌を押されることを知った。
「透き通るような肌ですわ……。でも、日焼け跡は残ってないかしら? あれがあると急に人形らしくなくなってしまうから、塗装しなければなりませんの。術では消しきれませんから……」
 その声と共に、セレシュはあらゆるポーズを取らされた。両腕を上げて脇を見せ、前屈をして腰を少女の前に出した。座り込んで靴を脱ぎ、足の裏を少女に確認させもした。
 時には、ふわりと回転し、白のフレアスカートを水面に浮かんだ花のように見せもした。
 人形師の少女は玩具で遊ぶ子供のように無遠慮だった。Tシャツと同じように邪魔な衣類はグイグイ押し上げ、セレシュの肌を探った。
 セレシュは刺激を感じ取っていた。

 その、人形師の指先が、だんだんと、硬くなっていく。

「あ、あ、ら、ら、ら」
「ど、どど、ど、う、し、て」

(やっと効いてきたんやな。呪詛返しの術)
 霧がかった頭で、セレシュは思う。
 目の前にいる人形師の少女は、大きな瞳を一際大きくしていた。動かなくなった手足を連れて、視線だけキョロキョロ動かしている。
『簡単なことや。最初の自分との会話中に、うち自身に呪詛返しを仕掛けていたんや。カウンター魔法っちゅう訳やな』
「そ、そそそ、そんな、の」
『あの様子を見てたら、自分がどんな呪いを掛けてくるかは予想もついたしな』
「あな、あななな貴女、何、モノ……」
『…………マズは、うちの確認、やな』
「ちょ、こたえ、てぇ」
 セレシュは一方的に喋っていた。セレシュが今話しているのは、自分自身に掛けた人形操りの術による。予め自分に掛けていた段取りでしか動けないのだ。
 自分の身体状況を確認しようとした。
 が、人形師が邪魔だった。
 二人はもつれ合い、セレシュを上にして倒れ込んだ。
 むくりと起き上るセレシュ。
 立ち上がると、自分の身体を撫でて確認した。
 硬く熱を持たない肌。膝を触ると、丸く硬いものがある。肘に触れても同じ。手首を握ると、血管ではなく球体に触れる、不思議な感覚に囚われる。
 球体関節人形なのだから当然と、セレシュは頷く。
 右胸を叩く。コツコツ。
 左胸を叩く。コツコツ。
 お腹をゆっくりと撫でた。ツルツルと掌が滑っていく。
 時間をかけて前屈する。お尻が露わになる。背中からミシミシと音がする。
 スルスルと指を動かし、腰から太ももを往復する。丸い物が太ももの付け根にあり――ああ、ここにも球体がと発見する。
 足元には人形師の少女がぼんやりと横たわっていた。セレシュの下敷きになったままの、みだらな格好で。上のボタンが弾けていて、胸元の開いた服になってしまったが、少女はまるで気にしていない。ただ大きな目で、こちらを見ていた。
 セレシュは人形操りの術を彼女に掛けていた。
『解呪方法は………………ですわ』
 素直に喋る少女。美しいものが大好きな彼女にとって、今の自分の姿はどう映るのか。
 ――何も感じていないだろう。
 身なりを正すようにとの指示を、セレシュは勿論、出していない。
 少女にも。
 自分にもだ。
 セレシュのTシャツは捲れ上がったままで、フレアスカートは倒れた拍子に端が破けていた。血の気のない、硬い肌が露わになっていた。
 それは分かっていた。
 ――だが何の問題があるというのか?
 セレシュはガラスのような目を開いたまま、術を唱え始めた。


 

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解放の呪い
 シチュエーションノベル(シングル)
 初めて書かせていただくPCさんです。
 そもそも、ソーンが初めて!
 緊張しました;
 ザアザアと音がする。
 雨が降っていた。森の中で密集した葉の間から零れ落ちていく――雨粒。
(ん……眠っていたみたいね……)
 辺りはひっそりと静まり返っている。深夜の森は暗く、レピア・浮桜の意識を鈍らせた。
(あたし、どうしてこんな所に――)
 倒れていた自らの身体を起こし、立とうとした。
 だが膝から崩れ落ちた。肉付きの良い太ももは、レピアの身体を支える気がないとばかりに倒れ込んだ。
 ……気付いたら、四つ這いになっていた。
(何で? あたしの足、立ち上がってよ……!)
 心の声と裏腹に、胸の奥底で充足感が広がった。
 濡れた土にまみれた足は、嬉しがっているように、フルフルと震えた。これでいい。これが普通。そんな声すら聞こえた気がした。
(そんな筈ない!)
 レピアは叫んでいた。言葉は出なかった。獣のような雄叫びが木々を揺らした。
 無意識に、ムッチリと丸い尻を突き出していた。
 犬のようなポーズ。
 レピアは再び、足を震わせた。豊満な胸と尻肉が小刻みに揺れた。それを気にする者は何処にもいなかった。


 数時間前、レピアは黒山羊亭で斑咲と酒を酌み交わしていた。斑咲とは呑み友達だったが、ギブ&テイクの関係でもある。レピアが酒場での噂話を提供する代わりに、斑咲は咎人の呪いを解く方法を調べていてくれた。
 その日は満月で、酒が進んだ。美酒こそ本当の水であると、二人で笑いながら。
「まだ噂の域を出ないけど、こんな話がある」
 斑咲は奇妙な話をした。

 ――聖都エルザードの郊外にある館に、一人の魔女が住んでいる。彼女は館から出ると肉体に激痛が走る呪いを掛けられていた。
 しかし数時間であれば痛みを緩和出来るようになった。
 魔女は転送魔法でエルザードに来ては、美しい少女達を攫っているという。少女達を醜い野犬にするのだ。番犬やペットとして愛玩するために――。

 激昂したレピアは、斑咲の制止を振り切って館へ向かった。
 火照った身体に夜風が当たる。少女への無慈悲な行いに対する憤りと混じり合って、レピアはひどく高揚していた。
 館の前には森が広がっていた。
 レピアは臆することなく入っていく。
 ……ザワ……
 ザワ…ザワ……
 風で揺れる葉が、いくつもいくつも重なり合い、悲鳴を上げていた。
(何?! この臭い……)
 風上から流れてくる悪臭に、鼻を覆った。
「ウオオオオオオオオオオオオ!」
 切り裂くような唸り声。
 土を蹴り、レピアは宙を舞った。くるくると回転し、着地する。
「貴方達は……」
 レピアは目を背けずにはいられなかった。
 十代の少女もいれば、二十代の女性もいる。元々は美しかったのだろう、だがその白い肌は土にまみれ、足の裏には小さな蟲の死骸が張り付き、長い髪は泥で汚れていた。辺りを悪臭が漂っていた。人でありながら、人でなかった。その体臭は獣そのものだった。
「素敵、素敵。すごぉーくいいわぁ……」
 中に一人、目を輝かせている女性がいた。太ももまで伸びた髪を束ね、ぽってりと紅い唇をしていた。半裸の姿をしているが、塵一つ汚れのない身体……例の魔女だった。
「ぅぐっ……!」
 次の瞬間には、レピアは捕えられていた。野犬にされた少女達が二人、レピアにのしかかっていた。押し倒されていたのだ。
 抵抗したが、腕にアザが出来、口の中に土が入っただけだった。土には小動物か何かの死臭が染みついていて、レピアは嘔気に襲われた。
「あ、だめだめ吐いたら。まだ汚れるには早いから……綺麗にしてあげるわね」
 魔女の細い指がレピアの唇を割って入ってきた。レピアは舌を押され、念入りに土を吐き出され……それでもレピアは抵抗を止めなかった。吐くのを堪えたために涙ぐんだ目で、しかし、力強く相手を睨んでいた。
「そんな目されたらゾクゾクするわね。私のモノにしちゃう……」
「誰があんたなんかに……! 少女達も解放しなさい……!」
「あらぁ、これこそ解放よ。こういう生活が生き物の本能で、幸せなの。貴方は綺麗で凛としていて、好きよ。だから貴方も解放してあげる。ね?」
 レピアの両頬は、魔女の掌に覆われた。その掌が、印を結び、肌を撫でていく。
「こんな小奇麗な服、貴方には必要ないわ……ま、どうせすぐに汚れてしまうわね」
 胸元の布を、指で悪戯に弾かれた。


 そこからの、記憶がない。
 否、以前の記憶すら、どうだったか。
 はらはらと、散っていく花びらのように、落ちて消えていってしまう。
 少しずつ、落ちて、落ちて。
 堕ちて――……。

(そんな筈ない)
 時折戻る人間の意識が、叫ぶ。
(あたしは人間よ。人間なのよ!)
 レピアは、口を開けていた。口から覗く舌から、一筋の涎が流れていた。
 泥にまみれた白い肌。揺れる胸の谷間に、汚れた髪が入り込む。四つ這いで、歩いていた。
 目の前には、泥水があった。レピアは泥に顔をうずめると、淀んだ水を啜った。
(あたしは、あたしは――)
 ハアハアと息を吐いた。生臭い……。それが自分の息であることは、おぼろげに、理解していた。
 おぞましい、地獄のような日々――…………。


 半年後――行方不明になったレピアを探しに来た斑咲は、見た。
 破れた踊り子装束を纏い、悪臭を放っているレピアを。
 四つ這いになって歩きまわり、木の傍で粗相をしている彼女は、もう斑咲の知っているレピアではなかった。
「レピア……?!」
 斑咲の言葉に、レピアは唸り声で応じた。尻を強く突き上げ、地響きのような低い声で唸り狂った。髪を振り乱し、胸を大きく揺らしていた。
 斑咲は距離を保ってレピアを眺めていたが、やがて俯き、静かに去った。
 咎人の呪いから解放されたがっていたレピア。
 彼女は確かに、咎人の呪いからは解放されていたのである。
 


終。
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石像、ねだる
 シチュエーションノベル(シングル)
 ちょっと不思議なお話にしよう!
 と思って書かせていただいたのですが、意図通りになっているんだかなっていないんだか^^;
(なんや、ちゃーんと家におるやん)
 最初にセレシュが思ったことだった。
 ある美術部の少女が夜になっても戻らない、朝方ケロリと戻ってくる。そんな日が一週間も続いている。妖魔の仕業かもしれないと依頼を受けて、セレシュはやってきた。
 件の少女の家である。
「お客さんだあ! どうぞどうぞ、上がって下さいね」
 やけに弾んだ声だった。少女ははち切れんばかりの笑顔を持って、セレシュを迎えたのだった。
 少女の部屋は、噂通り個性的だった。
 ピンク色のベッドカバーに、グリーンの枕。壁には彼女の親が学生時代に買ったのではないかと思うくらい年季の入ったペナントが所狭しと飾られていた。勉強机の上にはタケミツが鎮座している。中学一年生、まだまだ勉強する気はないようだ。
「えっとお。紅茶と紅芋があるんですけど、どっちが良いですか〜?」
「紅茶やね!」
 にこやかに返すセレシュ。選択肢おかしいやろ、などとは言えない。嬉しそうにはしゃぐ少女には。
「文化祭が近いでしょ? 今追い込みで、色塗ってるんで……気付いたら夜中なんですよ〜」
 話をしてみたが、少女は変わった子ではあるけれども、特別問題がないようだった。妖魔の臭いがしないのである。事件ではないだろう。
「そろそろ帰りますわ。それにしても凄いコレクションやねえ」
 昭和の香り漂う土産物に目をやるセレシュ。
 途端、少女は興奮気味に話しだす。
「でしょお?! 特にそこの栃木のペナントが一番好きなんです。私初めてペナント見たんですよ! すっごいお洒落ですよね! 人間ってこんなに素敵なセンスを……」
 ピキピキッ。
 奇妙な音を立てて、少女が静止した。
 時が止まったかのように、動かない。
 肌も白くなっていた。
「ど、どないしたん……」
 セレシュは、少女の腕を掴んだ。
 腕は、硬かった。そして冷たかった。髪の毛をつついてみたが、コンコンと音がする。
 少女は石像になっていた。

 …………………………

「はっ!」
「お、気付いたみたいやね」
 頬に赤みが戻った少女に、セレシュは声を掛けた。
 少女はセレシュをぼんやりと眺めていたが、やがて俯いた。
「……ばれちゃったかあ」
「自分、この家の娘やないね? 話聞いてもええ?」
 セレシュはにこやかに訊いた。
 相手に悪意のないことを感じ取っていたからである。
 少女はポツリポツリと話しだした。
 身体はこの家の少女のもので、自分は少女の通う中学校の美術室にいる石像だと。
 古びた石像が心を持ったのだ。
 少しなら、動けるようにもなった。
 次には自由に動く身体が欲しい。こんな白くて硬い肌ではなくて、滑らかで柔らかく温かい人間の身体になりたい。
 文化祭に飾る作品のために残っていた少女に、打ち明けた。
 変わり者で学年でも有名だった少女である、喜んで協力してくれた。
 だが、感情が昂ると、少女の身体を完全に乗っ取ってしまうのである。
 そのため度々石化し、元に戻る頃には夜中、あるいは明け方になっている。そんな日が続いていた。
「相手はまだ中学生の娘さんやから、夜中連れまわしたらあかん。親御さん心配しとるで」
 そう言って諭したものの、人間になってみたいなんて、無邪気な願いである。無理やりに人間の身体に入り込んだ訳でもない……。
「まあ。うちの身体なら、一晩貸したってもええけど……」
 ふともらしたセレシュの言葉。
 少女にとってはこの上ない提案である。
「貸して下さい、下さい! やりたいことがあるんです!」
 まるで目の中に星が散らばっているようだった。
「やりたいやりたい! 私やりたいですお願い!」
「ええよー。ただし、明日の朝までには返却するんやで。明日は仕事や。稼がにゃあかん」
 コクコクと頷く少女。
 やり方は簡単、少女と掌を合わせるだけだ。
 貸すというよりは、融合と言った方が正しい。セレシュの肉体を石像とセレシュの心で分け合うのだ。
 セレシュと石像が融合すれば、少女は元の娘に戻り、一晩ぐっすり眠れるだろう。
 ――掌を合わせた。

 ヌルリ、としたモノがセレシュの肌の下に入り込む。
 冷たい、とセレシュは思った。
 パキン、パキン。
 身体の内側から、氷が張っていくような、音がする。
 自分の身体の芯が固まっていくような奇妙な感覚だ。
「あったかい……」
 声が響く。確かに自分の喉から出た音だ。しかし、セレシュの心ではない。
(何やの、この感じ……)
 胸の内側で、自分の心が喋る。
「凄い、凄い! これがセレシュさんの身体なんですね」
 少女は無邪気に笑い、自分の身体をまさぐる。自分の身体、すなわちセレシュの身体でもある。
 二の腕は硬かった。爪を立てても痛みは殆ど感じない。
 胸は表面だけ柔らかく、芯は硬かった。温かく、左の胸に掌を置いてじっとしていると、手を通して胸の鼓動が伝わってくる。
 トクン、トクンと、命は躍っていた。
 静物と命の混じり合った、奇妙な肉体をしていた。
(やりたいことって、何なん?)
 訪ねてみた。
 その言葉に答えるために、セレシュは時計を見た。セレシュの質問に、セレシュの身体が答えるのである。
「まだ21時ですね。あのショッピングモールは22時まで開いてるから……うん! そこに行きましょ!」
 待ちきれないとばかりに、少女は走り出した。


 向かった先は、アイス屋だった。
「チョコミントと紅芋アイスのダブル、コーンで!」
(ちょ、もう寒いで。今日は今年度一番の冷え込みなんやで?!)
「すみませーん、チョコチップも追加で! トリプルなんて夢みたーい」
(あかん! あかんて!)
 よく冷えたアイスを、秋風吹く暗い公園で食べる。
「うー、美味しい! ほっぺが落ちちゃいそう!」
(表現古いなー、自分)
 アイスを噛んだり、舐めたり。そんなセレシュの肉体をぼんやりと心で眺めているセレシュ。
 思っていたより、寒くない。
 身体の芯が冷えているのである。硬く、固まって、冷え切っている。
(だから寒さを感じにくいのかもしれへん)
 ぼんやりとセレシュは思う。
 石像はと言えば、大喜びしていた。
 コーンの最後の一欠けらを口に放り込むと、叫んだ。
「やーん、もう幸せー!!」
 パキパキパキ!
 動いていた顎が止まった。
 手も、足も。
 肌は、雪を濁らせたような、くすんだ白い色をしていた。
(あかん、乗っ取られたわ……)
 胸の奥で、セレシュは呟いた。
 その声は落ち着いていて、小さかった。だから固まった身体の内側で、溶けて消えていってしまった。
 人のいない静かな公園に、石像が一つ、あるだけだった。

 …………………………

(ああ、もうかまわんわー)
 意識を取り戻すと、口の中に生温い感触が広がっていた。
 溶けたアイスだった。石化した口の中で、ゆっくりと時間を掛けて溶けていったようだった。
 もぐもぐ、ごっくん。
 ――時計を見れば、もう朝の5時である。
(殆ど何もでけへんかったなあ。せやけど、うちこれから仕事やから、終いにしよか)
「んー……セレシュさんのお仕事って何ですか?」
(鍼にマッサージ。あとお灸やね。何でもござれや)
「私やってみたいから、延長で!」
(アホ! んなもんないわ! こちとら一晩石像で野ざらしにされてんやで!)
「いいじゃないですか〜! ねえ、やらせてよ〜! 力強く指圧出来ますよお?!」
 ジタバタするセレシュの肉体。
 興奮のあまり、足先が石化している。
 身体の持ち主であるセレシュは心の中でため息をつき、ベタな台詞を胸の内で呟いた。
(ここでお灸、据えたろか?)




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人形少女は湖底を歩く
 シチュエーションノベル(シングル)
 素材集めに異世界にやってきたPCさん。湖に潜るために人形化の術を自分に掛けます。

 前回のノベル『石像、ねだる』の石像少女が少し出てきます。
 ……連れてこなくて正解ですね(笑)
 歯をガチガチ鳴らしながら、セレシュは湖の傍に立っていた。異世界のこの地域は、風が冷たくて東京よりも寒い。
(あかん。見た目に騙されたわ……)
 セレシュが着ているのは、もこもこのファーとくるみボタンのついた白いコート。あまりの可愛さに買ったものの、思った程温かくない。
(安かったしなあ……。安物買いの銭失いやな)
 これから素材探しのために湖に入らなければならない。考えるだけで肩まで震えてくる。あの石像を連れてくれば良かったと、ちらりと思う。
 だがすぐ打ち消す。
(あんなんに任せたら作業が進まんやろ)
 全く、あの石像ときたら好奇心が服を着て、もとい、石を着ているようなものだ。
 お陰で、一晩身体を貸した後も、石像はセレシュを訪ねて来るようになってしまった。

「わー! このベッド硬いですねっ」
「ちょ、跳ねんといてや! ベッドが折れたらどうすんねん!」
「私じゃなくて、ベッドの心配ですか?」
 深夜の鍼灸院で石像の少女がはしゃいでいる。ツルリとした無機質な顔なのに、好奇心に満ちた声を出す子だ。
「あのー、電気流す機械はないんですか?」
「ん? 接骨院の? あんなん、よう知っとるねえ」
「電気流してもらいたいんですよぉ!」
「石像やからなあ。電気流されても変わらんやろ」
「セレシュさまと融合して電気を流せば分かりますよぉ! あれって肌がピクンピクンするんですよね?!」
「何で融合前提やねん!」
「あ。鍼だあぁぁ! やりたい、やりたいです!」
「せやから、自分、石像やろ」
「ああ、そうですよね」
 少女は硬い肩を落として言った。
「じゃあ打つ方で我慢しますね……。セレシュさま後ろ向いて下さい……」

(あかん。あれはアカン)
 石像を連れて来なくて正解だったと確信したセレシュは、人形操りの術を自分に掛けた。
 以前対峙した人形師の呪詛をアレンジした術だ。セレシュは新しいアイテムや術が出来たら、すぐに試すのが好きだった。好奇心や探究心の強さは折り紙付きである。
 震えていた唇が、動きを止める。
 ――寒くないから。指令されていない動きだから。
 静かにコートを脱いだ。フワフワの純白のファーを地面に下ろしても、何とも思わなかった。見た目なんてどうでもいいと思った。水着姿になる頃には、見た目という概念すらなかった。
 そんなことは、指令にないのだから。
 長い髪で視界を遮らないように、髪を結んだ。高く結んだポニーテールは、セレシュを一層あどけない少女に見せたが、本人は気付きもしないし、興味も示さない。


 セレシュは湖に潜った。水は冷たくなかった。息も苦しくない。呼吸は必要ない。青色のガラスの瞳を大きく開く。周囲を探るため、より多くの景色を貪欲に映し出す。
 湖の底に足を着けると、パキリという音がした。
 貝を踏んでいた。割れて尖った貝殻が、足の裏に付いていた。
 硬くなった肌は、無傷だった。セレシュは一瞥すると歩きだした。問題ないと判断したからだった。湖底を散歩しながら、静かに、貝を集めた。
 やがて、大きな穴に出くわした。するとセレシュは穴に隠れ、置物のように動かなくなった。青い瞳だけが、瞬きもせずに、周囲を観察していた。
 働き者のセレシュである。昼も夜も、動いている。何もせずにじっとしているのは、苦手だった。
(今は……問題あらへん)
 ぼんやりとだが、冷静に判断した。
 二時間もの間、微動だにしなかった。
 三時間経った頃に、小さな淡水魚の群れがやってきた。彼らは弱く、群れて身を守る。穴に入って来た彼らは、セレシュの身体を盾にして息をひそめた。
 彼らを狙う中型魚たちが去るのを確認すると、小さな魚たちは食事にありついた。
 セレシュの肌に守られながら、そこにいるプランクトンをつつくのだ。
 脇の隙間をつつかれても、太ももの内側をヒレで擦られても、セレシュは動じなかった。自分に害がないことを確認すると、すぐに視線を前方上へ戻した。
(水槽にいるみたいや)
 ほろほろと崩れてしまうような、淡い自我の中で思う。
 今の自分は、まるで水槽に入れられた置物のようだと。
 縁日で拾われた金魚が、人工物の置物の下をくぐる。身を寄せる。つつく。
 置物は相手の好きなようにされるがまま、そこに在る。苔に身を隠されても構わない。
 置物は、苦痛を感じず。意味を求めず。ただ在るのである。


 セレシュが動いた。
 目的の蟹が現れたからだった。素早く魔法で氷漬けにして捕獲すると、一斉に逃げ惑う魚の群れを背にして、水面に浮かび上がった。
 魔法で手早く髪と水着を乾かすと、そっと服を着た。足の裏の砂を払い、靴下と靴を履いた。コートを羽織る。そして、自分に掛けていた術を解いた。

 パチン。

 霧が晴れたように、意識がクリアになった。
 だから、叫んだ。
「コート、真っ黒やん!」
 そして呟く。
 安物で良かった。



終。
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眷属の宴
シチュエーションノベル(シングル)。
『血玉石と嗤う牙』の続編です。
前編に合わせて3人称で書いていたのですが、しっくりこなくて、1人称にしました。
 くるくるくるとあたしは廻る。
 踝まで広がったドレスが、大きく花開く。
 夜はこんなにも美しい。
 鏡に映ったあたしは、顔にも花を咲かせている。
 唇という真っ赤な花びらを持っている。柔らかく開かせている。
 人間は不幸だと思う。
 この方のお傍にいることで、あたしは満たされている。
 もし貴方が望むなら、貴方の首に牙を突き立ててあげたい。
 あたしとワルツを踊りましょう。


 さざ波のように寄せて返す声がある。
 低く地割れのような声が、あたしの本能を疼かせる。
 声に導かれてここまで来た。
 滴り落ちる血の門を通り、湖上の城に降り立った。
 湖は紅の羽を持ったあたしを映し出している。湖の底では凍りついた黒い薔薇がひしめき合っている。
 薔薇たちはギシギシと小さく悲鳴を上げている。それは歓喜の声。あたしを待っていたのだ。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
 凍った声が口々に祝ってくれる。
「みなさんもごきげんよう。今日も美しくてよ」
「アア、勿体ないお言葉……。是非今度は私めを召し上がって下され……」
 あたしは微笑みながら城に入った。歩くたびに、牙が、ニィニィと突き出ては唇に仕舞いこまれていった。


 錬金術師の工房では、白衣を着て眼鏡を掛けた白骨死体が待っていた。
「貴女はいつか戻ってくると思っていましたよ。僕は気が長いのでね」
「そんな姿ですもの、いくらでも待てますわ。百年後に来ても良かったかしら?」
「貴方が僕にキスして来るのも待っているんですが、いつまで経ってもその気配もなくてね」
「おあいにくさま。あたしの主は、あの方だけですもの」
「血玉石の作り方を間違えましたね。美女は僕のことも愛すようにすれば良かった」
「その気もない癖に……」
 彼はカラカラと骨を震わせて嗤った。
 人間を吸血鬼の眷属に変える血玉石は、錬金術師である彼が作った物だった。
 全ては主である伯爵のために。
 吸血鬼であるために迫害され、吸血鬼でありながら脆き主を守る為に、盾が必要だった。
「宴は久しぶりです。あの方もお喜びになるでしょう」


 カビ臭い階段を降りると、穢れた土に白い杭が打たれている場所に出た。
 そこに主がいた。
 紅く血なまぐさい土に半身を沈め、金色の髪がサラサラと靡いていた。
 神経質そうな高い鼻と、病弱さを物語るような細面の顔。美男子だが白濁した目をしていて、どこを見ているのかも分からない。
 隣にはコウモリの羽を生やした巨大なカマキリがいた。両手にギザギザと尖った鎌を光らせ、首を傾げている。大きく輝く目は、確かにあたしを捉えていた。
 元は平民出の少女だった。人間だった頃と同じように、伯爵に仕え続けているのだ。
「相変わらず、お幸せそうね」
 カマキリは微動だにせず、あたしを見ていた。
“彼女”にとって、世界は主しかいない。あたしはおろか、作り手の錬金術師でさえも、世界の外に置いている。彼女はあたしを見ているようで、見ていないのかもしれない。あの瞳孔に似た黒い点が、あたしを見ているように思わせているだけなのかもしれない。
 自分と主しかいない世界。
 ――何て羨ましいことなんでしょう。
 あたしは、ナイフで掌を刺すと、滴る血を土に落とした。
 穢れた土は貪欲に血を飲んでいく。血を飲む程、土は乾いていき、更にあたしに血をねだる。

 主のために。
 ただ、主のためだけに。

 降り注ぐ血の雨は、渦となって、音を立てた。
 主は目を覚ました。白濁した目は、そこにはなかった。美しく紅い瞳が静かにあたしを愛していた。
 幾度も胸を焦がされた主の視線。あたしはもう、蕩けていきそうだった。
 主は無言で白骨死体の錬金術師に触れた。見る見るうちに、彼は生前の青年に戻った。銀色の髪。グレーの瞳が眼鏡の奥から覗いていた。
 主はカマキリの首筋を甘く噛んだ。カマキリの少女は、ブルブルと震え出した。
 ――悦び。
 歓喜の震えだった。穢れた身でも、主は平等に愛してくれる。
「宴の始まりですよ」
 主は、確かに、そう言った。
 次の瞬間には、あたしを抱き寄せ、青白い首元へ牙を突き立てていた。

 壁に焼けついた影たちが、ワルツを踊る。
 あたしもヒールを鳴らして、ドレスの裾を広げた。柔らかく、花のように。
 たどたどしい記憶から、グラジオラスの詩をうたいもした。
 ワインにすっかり酔わされている。
 血の翼を広げて舞うあたしが見たいと、主が目を細めて言う。
 ――全てお望みのままに。
 外からは凍りついた薔薇たちの囁きが聞こえる。彼らはあたしが欲しくて堪らないと熱っぽく語っている。
 夜はこんなにも愉しい。
 カマキリは鎌をギラギラと光らせて、無感動にあたしを眺めている。
 あの目はきっと、あたしの胸元で揺れる薔薇色の石を見ている。
 世界はこんなにも美しい。


 もしも貴方が望むなら――……。



終。
全体の表 >
ヒトのモト
 シチュエーションノベル(シングル)
 ちょっとおどろおどろしい変身譚です。
 ――ここは何処?

 夢か現かと問われれば、
「その間」
 とあたしは答える。
 ここは海の広がる内面世界。
 この海は氷が張るように冷たくもなれば、胎内のように生温くもなる。
 いずれにしても海はカタチを変えながら、意識の隅に流れ着いたあたしを手招きする。
 無邪気な子供を誘うみたいに。


 ここにあたしはいるけど、足はなかった。
 足は、溶けていた。
 両足が太ももの所から混じり合って、一つの大きな肌色のカタマリになっていた。
(さっきまで足だった気がするけど)
(どうしてこんな姿に?)
 己に問いかけてはみたけど、驚いてはいなかった。心の底では分かっていた。

 あたしは少し前に、こう思った。
(人魚がヒトの始まりだったら、どんな感じなんだろう)
 ――理科の授業で進化の話を聞いたからだった。
 ヒトは霊長類から進化したそうだ。
 だけど、昔は色んな説があったらしい。ヒトは恐竜から進化したと言う人もいれば、魚から進化したなどと唱える人まで……。
(もしも、人魚からヒトが生まれたのだとしたら?)
 ヒトが還っていく先が、人魚であるなら。
 人魚はどんな生き物になるだろうか。
 おとぎ話に出て来るような姿ではないだろうと思った。
 人間に憧れるような、弱い存在ではありえない。
 もっと力強く、大きく、命が震え出すようなおどろおどろしいモノだった筈だ。

 下を見れば、足が、なかった。
 ぐるぐる回る、意識の海の底へとあたしは呑まれていく。
 生々しい肌色の下半身から、透き通った蒼色の鱗が生えてきた。
 鱗たちは幾つも幾つも、メリメリと肌を突き破って顔を出すのだ。
 最後の一枚まで鱗が出ると、それらは一斉に身を震わせた。まるで穢れを払うように。
 鱗の生えた場所は、一つ一つが、細い針を刺されたように痛かった。
 風船になったような気分だった。膨らみ過ぎて、小さな穴をたくさん開けられる、あたしという風船……。

 あたしは呻いた。
 叫びもした。
 口の中に、生温かな海が流れ込んできた。
 舌先に絡まった海のしっぽは、しょっぱかったけど、苦しくはなかった。
(当たり前のことよね)
(あたしは人魚なのだから)
 もがいている身体とは裏腹に、あたしの意識は冷静だった。
 そして残酷だった。

 半透明の蒼い鱗は花が咲くように開いていった。
 音なく広がっていくあたしの尾鰭。
 幾重もの花びらが折り重なるようにして、命が開く。
 膨張していく尾鰭と、渦を巻く海の咆哮。
 それをあたしの意識が冷たく眺めていた。

 深く深く、落ちていく中で、あたしの指先が舞った。
 そこには黒ずんだ水掻きがあった。
 海の声を聞く耳には、大きな鰭が生えていた。
 ――あたしは、弓のように身体を反らせる。
 上半身も膨らみ続けていた。
 大きくなる場所と、そうじゃない所があって、ぐんにゃりと歪んで膨らんでいくあたしの身体。
(萎んだりしないの?)
(ねえ、ねえ。こんなに膨らんで、萎んだりしないの?)
 悪戯っ子のように繰り返して、あたしの心が騒いでいる。
(馬鹿言わないで。萎んでしまったら、死んでしまうの。あたしの身体なのに)
(あたしの身体だけど、あたしだけのモノじゃないわ。ヒトのモトなのよ。死んだって仕方がないじゃない。淘汰されただけ)
 ああやっぱり、あたしの意識は残酷だ。

 あたしの身体は落ちていく。
 海の底へ。
 鱗の花を開きながら。
 膨らみ続けるカタマリの中で、そこだけが美しく。
 穢れた海とくすんだ身体の中で、そこだけが蒼く輝いて。
 開かれた鱗の隙間から、透明な粘液が流れ出ていた。
 粘液は生温かな海をゆっくりと侵していった。


 あたしは、落ちて、落ちて、落ちて。

 ――特に問題はないと思う。
 ここは夢と現の間だから。



終。
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秘密の蛍
 東京怪談ノベル(シングル)。元シチュエーションノベル(シングル)です。
 初めましてのPCさんです。
 PCさんと幼少期親しくしていた「私」視点からのお話です。
「私」が気付いていない、PCさんのリビングデッド感を出すのが楽しかったです。

 今回よりノベルの名称と形式が変わっています。
 誰にでも秘密がある。そう、一生の内一度くらいは、墓場まで持っていく秘密が出来てしまうものだ。
 彼女のことを、私は誰にも話したことがない。親にも友人にも、束の間の想い人にも。
 信じてもらえないから黙っている訳じゃない。
 彼女は蛍火のような存在だった。人に話してしまえば、私の思い出から消えてしまいそうな気がして、胸の内にしまっておきたかった。小さな子供が、ガラスの指輪を大切に隠しておくように。


 ……あの頃、私は六歳だった。


「だから、アイツはまだ帰って来ねぇんだよ!」
「なんで? なーんーでー!」
 ピカピカのランドセルを背負って、私はふくれっ面で訊き返した。
 春から通う小学校のために、ランドセルを買ったばかり。
 ピカピカの靴に、ピンク色のランドセル、キラキラ光る蛍光色のランドセルカバー、花柄の白いワンピース。
 お気に入りの物に囲まれているのに、大好きなお母さんが今日もいない。
「単なる家出だよ」
 吐き捨てるようにお父さんが言った。
「イエデって、なに?」
「長い散歩のこと。なげぇなげえ散歩」
 私は納得がいかなかった。
 気を紛らわせたくて、ランドセルを背負ったままクルクル回って遊んでいた。
 それを見て、お父さんが呟く。
「……ウッゼェ」

 当時の私には嫌なことがたくさんあった。お母さんがいないこと、お父さんのタバコの臭いと黄色くくすんだ壁、おばあちゃんの陰口、幼稚園の威張りたがり屋。
 好きなこともたくさんあった。ツツジの蜜を吸うこと、たんぽぽの綿毛を飛ばすこと、お気に入りの服を着ること、可愛い靴を履くこと、シャボン玉で遊ぶこと。
 何より彼女――“みぃちゃん”と話すこと。

 みぃちゃんは、私が住む団地の向かいに建つ空き家に住んでいた。
 私の誕生石のエメラルドと同じグリーンの瞳をしていた。
 みぃちゃんは私のお母さんより年上そうだったけど、私は決して「おばさん」とも「お姉ちゃん」とも呼ばなかった。
 ――みぃちゃんは、大きなお腹をしていた。

「……そう、今日はそんなことがあったのね」
 みぃちゃんの声は柔らかくて、ゆっくりゆっくり、広がる。
「みぃちゃんは、幼稚園のときねー、どんな子だったの?」
 ふと思いついた質問だった。
 みぃちゃんは曖昧に微笑んで、首を微かに傾けた。
「……覚えてないの」
「そっかあ。寂しいね」
 空き家の床は冷たかった。
 私はみぃちゃんの膨らんだお腹に耳を寄せて、甘えるのが好きだった。
 みぃちゃんの赤ちゃんはいつも大人しい。
 私がお腹に抱きついても、まるで命を感じなかった。
「赤ちゃん、お腹蹴らないの?」
「…………そうね」
「男の子? 女の子? いつ産まれるの?」
「………………秘密、ね」
「みぃちゃんって、肌、冷たーい」
「…………そうね」
「どうしてー?」
「………………秘密、ね」
 私はお母さんが読んでいた本を思い出した。肩越しに見た本の文章。誰かの台詞だった。
 お父さんのいない夜だった。
“だれにでもひみつがある。そう、いっしょうのうちいちどくらいは、はかばまでもっていくひみつができてしまうものだ……”
 ――みぃちゃんは、まだ寒い春でも薄手の服を着ていた。今にも破けそうな布を通して、古い土の匂いがしていた。
「……みぃちゃんって、よく分からないね」
「……怖い?」
「……ううん。好き。みぃちゃんの声、あったかいの」
 みぃちゃんのお腹ははち切れんばかりに膨らんでいて、今にも赤ちゃんが生まれそうだった。
 なのに氷みたいに冷えている。
 白い吐息を吐きながら、私はみぃちゃんのお腹を撫でて、土の匂いに溺れていった。
 そして土の底――夢の始まりに落ちていく頃、みぃちゃんの声がした。
「私もあなたが好きよ。あなたといると想像するの。私の子供が産まれたら……」


 ――ドォン!
 低い音が、私の記憶を黒く塗りつぶしていく。
(やめて! やめて!)
(今日は良い思い出だけを思い出したかったのに!)
 心の中で叫んでも、一度ほどけた秘密の結び目は、もう元には戻らない。
 ほどけて、絡まって、ほつれていくばかりだ。
 信号無視で突っ込んで来た車から私を守るために、みぃちゃんは盾になったのだ。
 私は叫んだ。
 確かに、叫んだ。
 だけど言葉が出なかった。掠れた音のうねりが生じたに過ぎなかった。
 みぃちゃんは、倒れなかった。風船のように膨らんだお腹を大きく反らせ、枝のようにしなっていた。
 瞬きの後、私は確かに車が横転しているのを見た。
 身体が震えて、震えて。
 両腕で肩を抱いても、止まらなかった。歯がガチガチと音を立てた。
 三月の寒い日だった。
 白い吐息が幾つも幾つも現れて、空へ向かって消えていった。割れていくシャボン玉みたいに見えた。夢の終わりを告げていた。
 みぃちゃんは、私を抱きしめて囁いた。
「怖がらせたのね……ごめんなさい……」
 それがみぃちゃんと会った最後の日だった。


 彼女は淡く、儚げに、私の記憶の中で揺らめいている。
 守らなければ消えてしまう、蛍火のよう。
 その微かな光に向かって、私は時折声をかける。
 あのとき言えなかった、続きの言葉。
「怖くなかった。みぃちゃんのことを怖いなんて、思ってなかった」
 彼女には届かなかったけど、確かにあのとき、私はこの言葉を叫んだのだから。


「――ママ!」



終。




━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【8912/鹿羽根・ミオモ/女/30/リビングデッド】
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狩って刈って勝って!
 東京怪談ノベル(シングル)。
 目が覚めたらキツネでした!
(言い切った!)
 バトルよりコメディー寄りなのは、間違いなく私のせいであります。
 秋も深まってくるにつれ、だんだんと寒くなってきた。
 特に朝は冷える。朝日に照らされている落ち葉をニクキュウで踏みしめ、澄んだ水を舌先で舐めた。喉が渇いていたせいか、ほのかに甘みを感じる。
 ――ビュウ、と風が木々を通り過ぎて。
 あたしは赤茶色の毛をフワフワと震わせた。
「コンコン!(凄い! 寒くない!)」
 ……うん。おかしいぞ!


 思い出せば、あの会話から妙だった。
 数日前、アルバイト先から掛かってきた電話。
「秋と言えば、キツネ狩りよね」
「えっ」
「みなもちゃんは狩る側と狩られる側どっちがしたい? キツネって凄いのよ。どちらも出来るの……クスクス」
「いえ、あの、秋と言えばですよね? 他にありますよね? 紅葉とか、柿とか、芸術の秋って言葉も……」
「芸術の秋! その言葉を待っていたの! 次はキツネと芸術の組み合わせでいきましょうね!」
 プツ、ツーツーツー。
「い、嫌な予感しかしない……」


 そして一週間後、学校帰りに意識を失って、今は森の中にいると。
 じたばたしても仕方ない。短い人生ながら、順応性は高い方だ。
(もう毎回心臓が止まるくらい驚いていたら、命がいくつあっても足りないもん)
 今までの経験を基に考えると、あたしはキツネにされて“キツネ狩り”とやらに参加させられている可能性が高い。
 最初にあたしが取った行動は、現状確認。
(自分の姿を確認しなくちゃ)
 二足歩行だったあたしの身体。
 今は犬のように四本足で歩いている。お尻に垂れさがっているフワフワのカタマリが、あたしの足にねこじゃらしのように当たって「お前は獣なのだから、二足歩行などさせぬ」とばかりに揺れているのだ。
 これ、絶対尻尾だと思うけど、どうかするとこのフワフワが視界に入ってきて、物凄く追いかけたい衝動に駆られる……。
 四本の足にはニクキュウがついている。室内で飼われている儚げな子猫のぷにぷにニクキュウと違って、野生的な硬いニクキュウである。土の上に落ちている小枝くらいなら、踏んでもちっとも痛くない便利な相棒だ。
 ……ちなみに小枝はあちこちに転がっていて、ポキポキと踏んで歩くと少し楽しい。
 朝日が昇る方に森を進んで行くと、小さな湖がある。あたしにとっては姿を映す鏡のようなものだ。

 映っているのは、赤茶色のキツネだった。
(やっぱり!)
 顔の横にある筈のあたしの元々の耳は、現在獣毛に覆われている。代わりに、頭の上にシャキンと尖った耳がくっついている。耳の中は黒くて、一色ではない。四本の足も黒色をしていて、なかなかカッコいい。さながら小柄な狩人と言ったところ。

 ――そう、狩人。

 あたしは湖から離れ、木々の間に身を隠した。
 水場は生き物にとって生きていくのに必要不可欠な場所。
 水分補給の場であり、体温を下げる場所であり、憩いの場であり、狩りの場である。
(って、テレビで観たことある!)
「みなもちゃんは狩る側と狩られる側どっちがしたい? キツネって凄いのよ。どちらも出来るの……クスクス」
 不穏極まりないこの発言、つまりあたしは襲う側でもあり、襲われる側でもあるということ。
(一瞬でも気を抜けば、命取りに…………ん?)
 頭についている耳が、聞き覚えのある声を拾った。多分集音機が中に入っていて、隠れている本当の耳に伝わるシステムなんだろう。
 ちなみに、声はするけど、匂いは分からない。嗅覚は変わっていないみたいだ。
「みなもちゃーん! みんなー! 集まれー!」
「ケーン……?」
 ちょっと迷ったものの、声のする方にポトポト歩いていくことにした。
(緊張感どころか、歌のおねえさんみたいなノリだけど……)


 人間のお姉さんの周りには、牛やヤギ、羊、シマウマやオオカミ、ヒョウやライオン、あたしたちキツネなど様々な動物たちがいた。
 この森では、大きく分けて三分類の生き物がいる。「運営(家畜系)」と「狩る側(肉食獣系)」「狩られる側(草食獣系)」だ。キツネは狩る側でもあり、狩られる側でもある。
「今の時期にピッタリ! 秋の大運動会ならぬ、秋の大狩り祭りよ!」
「みんなそれぞれ、動物に応じた能力を一部授けているわ。上手く活かして、全力で狩りをしてね。期間は明日の朝からスタートして、夕刻まで」
「今日は自分たちの暮らしに慣れて。明日から狩られる側は逃げ切って、狩る側はたくさん捕まえてね。成績によって報酬もプラスするからね!」
 あたしは子供の頃にやったドロケイを思い出した。刑事役と泥棒役があって、逃げたり、捕まえたりするあのゲーム。キツネの場合は、両方の役を入れ替えながら行うのだろう。
「コンコン?(捕まったらどうなるんですか?)」
「クスクス。言葉は分からないけど、ニュアンスは伝わるわね。勿論、狩られたからといって本当に食べられたりしないわ。捕まっちゃったコには、罰ゲーム! 狩られる代わりに刈られます!」
 お姉さんの手にはバリカンが無機質に光っていた。
「めえええええええええええええ」
「メエ、メエ、メエエエエエ!」
 羊たちの哀れな鳴き声が響き渡った。モコモコの毛を大いに震わせている。
 想像するだに恐ろしいのだろう。
 あたしも自分の暖かい毛を刈られると思ったら、ゾッとした。
(あたしたちの毛を何だと思ってるの! これだから人間は!)
「残念ながらネズミやウサギのような小さな生き物はいないの。だから草食動物全般を狩られる側とします。家畜でも野生でもね。身体を上から押さえることが出来たら狩り完了。平和でしょう?」
「モオオオオオォ、オオ!(私たち牛の短い毛まで刈る癖に、平和だなんてヌケヌケと!)」
 温厚っぽい牛まで女性らしいアルトの声で怒っている。
 動物同士だからか、何となく言っていることが分かるのだ。
(……ちょっと、楽しいかも)
 でも負ける訳にいかない!

 かくして動物ドロケイ、もとい、秋の大狩り祭りがスタートしたのだった。



 つづく……かもしれない?
全体の表 >
メイキングビデオ
 東京怪談ノベル(シングル)
 特殊メイクでキツネにされるPCさんのお話です。
 ……倦怠期。
 夫婦やカップルが、パートナーに飽きて冷めてきた時期に使われる言葉。倦怠期のときはドキドキするような刺激を与えあうと良い……らしい。

「最近のデジタル一眼レフって凄いわよね。4Kで動画撮影出来て」
「そうですね、今は一般の人も動画で有名になれる時代ですから……」
「でも長時間撮影するにはやっぱりビデオカメラになるのよね。ほら! 最新のビデオカメラ! 一眼レフには及ばないけど、高画質、4K対応よ」
「わぁ〜良かったです…………ね……?!」
 満面の笑みでビデオカメラを見せてくる生徒さんに返事をしてみたものの、嫌な予感がする。
 ……とても嫌な予感がする。
 だって、今日はあたし(海原みなも/ID・1252)のアルバイトの日。特殊メイクの専門学校からメイクの実験台として呼ばれているのだ。
 特殊メイクの専門学校の教室と、生徒さんと、あたしと。そして最新のビデオカメラ。
 これが今の状況。
(色々想像しちゃうもの……)
 もしも、メイクで動物になったあたしを撮るなんてことになったら。
(動画……って言っていたし……)
 動いているあたしを撮るってこと?
 今日はキツネのメイクって言われていたから。
 キツネとして暮らすあたしを撮影するってこと?
(やだぁ……)
 顔が赤くなってくるのが自分でも分かる。
 肌にじんわりと汗が滲んでくる……。
(もしかしたら、メイク中のあたしを撮るのかも……。そっちの方が恥ずかしい……!)
「みなもちゃん顔に出ているわよ。察しがいいわね。今日はメイク中のみなもちゃんを撮影して、メイキングを作ります!」
「当たったあ! じゃ、じゃなくて! 困ります!」
 動揺して顔の前でブンブン手を振るあたし。
 笑う生徒さん。
 と、後ろから他の生徒さんが困り顔で現れた。
「みなもちゃん焦っているじゃない。可哀想よ」
 良かった、話の分かりそうな人だ。
「ちゃんと説明してあげないから、みなもちゃんを不安にさせるのよ。みなもちゃん、ちゃんとライトもあるし、4Kで仔細に撮ってあげるから大丈夫よ。このカメラは接写の描写に定評があるし、もしバッテリーが切れても、カメラは三台あるからね。半日位は撮れるから安心して?」
 前言撤回、変態さんでした!
「女の子だもの、綺麗に撮られたいわよね。みなもちゃんのこと分かっているから、心配しないでね」
「え?! ぁぁぁ……」
 頭の中がグチャグチャだ。前回のキツネになったアルバイトを思い出し、あたしのアレコレな姿が脳裏をグルグル回っている。
(し、親切な人なのかな?)
 頭が混乱して分からない!


 もう数え切れない位、特殊メイクをされてきたのに。
 ドキドキドキドキドキ。
 心臓の音が煩くて。胸に置いた両手を持ち上げてしまいそうな程、胸の高鳴りが響いている。
「ダメよみなもちゃん、メイクが出来ないわ。手を退けるわよ……」
「はい……」
 あたしの手首に触れた生徒さんの手は、氷みたいで。
(じゃなくて、あたしの身体が熱いんだ……)
 特殊メイクの時間がこんなに恥ずかしいなんて。
 吐息が漏れた。
 心臓が飛び出してしまいそう。
(汗も……)
 無意識に身体をねじってしまう。
 台の上で、太ももを重ねて。ギュッと身体を硬くする。
 時折触れる生徒さんの腕は、冷たくて、ツルツルしている。
 何か、チクチクするものがあたしの全身に付けられた。
 それは細いコードだった。まるであたしは装飾されたクリスマスツリーみたい。両腕の付け根から手首まで。なだらかな丘と谷のようなあたしの肌を――つまり胸の谷間からお腹を通って、白い太ももをスルスルと伝い、コードの終着点は足首だ。
(コードは……細い川みたい)
 後ろにも川は流れている。窪みのある背中を下り、柔らかなお尻を上り、足首まで。
 キツネの毛も植えられた。
 むせかえるような、獣の臭い。
 食べていないのに、口の中まで獣臭が広がった。少し吐き気がして、喉の辺りで唾液がジュジュと下品な音を立てた。
 たくさんの指先があたしの肌に獣の毛を立てさせる。
 くすぐったくて。
 それに、キツネの毛は少し硬くて、暑くて。汗ばんだあたしの肌をチクチクと責めた。
「…………っ」
 言葉にならない声が出た。
 くすぐったさにギュッと閉じていた目を開ける。
 上から生徒さんがカメラを持って見下ろしていた。
「その声久々に聴いた気がする。好きなの。スタッカートの多い音楽を聴いているみたいだから」
 優しい声だった。
 聞いていると、あたしも何だか優しい気持ちになるみたいだった。


 濃い茶色の毛。ひんやりした牙のある口。
 黒くて硬めのニクキュウ。フワフワの太い尻尾。頭の上にピョコンと生えた三角の耳。
 台の上に座って、鏡を見たあたしは感嘆の声を漏らした。
「凄いれす! キチュネだぁ……。あえ?」
「今回は話せるでしょう? あえてそうしたの。牙があるから空気が抜けて、発音し辛いとは思うけど。もっと話してみて?」
「きちゅ………き、キ……ツネ! むじゅかしい!」
「ふふっ」
 あたしの隣に生徒さんが座って。笑いを堪え切れないみたい。肩を震わせている。
「もうー、あたし、真剣なん……で……すよう!」
「そうね、ふふふ。ねえ、口の中見せてもらえる?」
「ふぁい!」
 恥ずかしいけど、出来る限り大きな口を開けた。
 ビデオカメラがグッと近付いて来る。今は膨らみを失ったあたしの唇から、肉感的な舌、相対的に小さな前歯から尖った犬歯。長い犬歯の横にある小臼歯も人間のものとは違っていて、パズルのピースみたいな形をしている。アップで撮ったらきっと、小さな国の形に見えるかもしれない。
(楽しそう! 何だか……ワクワクしちゃう……!)
 トッ。
 あたしは台の上から前足を着いて下りた。
 さっきまで普通の人間だったのに。
 今は四つ這いで尻尾を揺らしている。
 まるで自分じゃないみたいだ。
「みなもちゃん、撫でていいかしら?」
「ふぁい、勿論れす」
 生徒さんのピカピカの爪と、細くて長い指が、あたしの背中に触れる。
 ――と。
 ビクン!
「?! ひゃあっ!!!!!」
 ビリビリした刺激があたしの背中から腰まで走った。
 小さな火花が散ったみたい!
「にゃんです?!」
「皮膚が毛に覆われていると、触られても分からなくなるでしょう? 刺激に敏感になるように、細工してあるの。脳の電気信号の代わりにね。……痛くない?」
 驚いたけど、痛い程ではない。
 あたしはコクコクと頷いた。
「良かった。それじゃあ、少しテストさせてね」
 今度はお尻から背中まで、反対に撫でられた。
 ……人間のときとはまるで違う感覚。
 毛の向きとは逆だから。生徒さんの指に対して、あたしの毛の一本一本が反発していることまで分かる。
 普段は鈍くなっているお尻まで、首筋を撫でられたみたいに敏感だ。
 毛の奥に潜む柔らかな肌。
 なぞられるのに合わせて、しなっていく背中。
 細かく震える肩。

「フフ……ゥゥ」

 全くあたしは繊細だ。
 繊細な獣だった。



━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 お待たせ致しました、OMCライターの佐野麻雪です。
 ご発注ありがとうございます!
 楽しんで頂ける箇所があれば幸いです。
 このお話はおまけノベルに続きます。
全体の表 >
花と獣
 東京怪談ノベル(シングル)
 特殊メイクでマンティコアにされるPCさんのお話です。
 空想上の生き物は世界中にいる。
 神話だったり、伝説だったり。アピスのように宗教的な生き物もいれば、当時人々が恐れただろう獣を合成させたような生き物もいて。
 ――マンティコアはキリスト教の教義では悪魔の化身とされる合成獣だ。人間の顔、ライオンのようなタテガミと肉体をして、コウモリのような翼を持ち、サソリのような毒針の尾で人を襲う。


 いつものアルバイト先の特殊メイク専門学校で、生徒さんは言った。
「怖いものって、センス一つで変わるのよ。グロテスクで、怖くて気持ち悪いものにも出来るけど。怖くて美しいものにも出来るわ」
「それでマンティコア……ですか?」
 小さな声であたし(海原みなも・1252)は返す。抑えられない好奇心から訊いてみるけど、照れから声が小さくなる。
 あたしの手には写真の束。以前のアルバイトでワイバーンや馬になったあたしがたくさんプリントされている。そこには別の生き物にしか見えない自分が写っていて。ワイバーンの翼の質感がリアルで、興味をそそられる反面、それが自分の姿だと思うと気恥ずかしさもあるのだ。
「この前、特殊造形学科でコンペがあってね。それを私たち特殊メイク学科の生徒が、みなもちゃんで再現しようってなったの」
 楽しそう、と思った。

 メイク台に寝転ぶのは、いつまで経っても慣れないけど。
 頭の下に入れられた枕から、甘い花の匂いがした。チューベローズという小さな白い花の香りで、昔は男性を惑わす匂いの代表格とされていたと、生徒さんは言った。花言葉は、危険な楽しみ。
 甘い花の香りに、用意された素材から獣の匂いが強く混じってくる。
 むせかえりそうだ。
 冷たい指で、鎖骨を撫でられた。くすぐったい。さっきまで着ていた服が恋しくなる。
「ここから下を、獣に変えていくからね……」
 スルスルと、鎖骨から下へ、あたしの肌を指が滑っていく。
「でもその前に……」
 マンティコアの皮膚は赤みを帯びている。だから最初に、毛で覆わない手足の先と首から上を色付けして、それから獣の毛を植えていくそうだ。
 大きな刷毛や小さな刷毛があたしの肌を何度も通っていく。
 大きな刷毛は首を大胆に通って。小さな刷毛は耳の後ろを小刻みに動いていった。
 くすくす。
 あたしはくぐもった笑い声をいくつも零した。
 足の甲は感覚が鈍いみたいだ。全然くすぐったくなかった。
 でも足の裏を刷毛で塗られるのは拷問みたいだった。じわじわと遠慮がちに塗られても、ザっと一気に塗られても、物凄く痒い!
「これ尋問に使えそうねえ。……みなもちゃん、学校に好きな人っている?」
「いないです! ふふっ」
「………………………………」
「あはははは! 本当です! 嘘じゃないです! わざとゆっくり塗らないでぇ……ふふふ……」
 赤色に塗るといっても、茶色と赤色の中間の色だ。赤土の色にそっくり。それが今のあたしの皮膚の色だ。
 鏡で見ると、奇妙の姿の人間がいる。青い髪をメイクしやすいようにアップにして、赤土色の少女が写っているのだ。
「過程を見るのも、面白いでしょう?」
「はい。不思議です。人間なのは分かるけど、何だかあたしじゃないみたい……」
 以前と同じコードを身体に付けられた。それから肉付けをするそうだ。
「女性らしい凹凸を失くして、肉食獣らしくでっぷりした身体にしていくのよ」
 起き上がって胸の膨らみと合わせながら、獣らしい肉体を作っていく。赤土色に色づけされた、粘土みたいな粘り気のある柔らかな素材だ。少し温めてあるのか、体温に近いぬくもりがあった。
 まるで自分が建物にされた気分だった。セメントを何度も何度も塗られていくような。
 自分で胸を持ち上げるのが恥ずかしかった。両手でおずおずと胸を上げると、そのすぐ下から生徒さんが粘土のような素材を被せてくるのだった。あたしの肌より少し熱っぽい柔らかなものが、どんどんと重ねられていった。
 下から甘い匂いが立ち上ってきた。だんだんと、何が人間で、何が恥ずかしくて、何がおかしいのか、何が普通なのか、分からなくなっていった。日常のワンシーンなような気さえした。
 その錯覚を、生徒さんの冷たい指先が破っていく。
 手を離していいと言われたので、両手で塗料の乾いた頬を包んだ。
 ――頬は、掌より、粘土より、熱かった。
 
 肉食獣らしく、太くて硬い質感の毛だった。赤土色に染められている。
 毛の長さにばらつきがあり、短いものを手足に、長めのものをお腹に使うとのことだった。
 そして、サソリの尾と、コウモリの翼。
「これが翼よ。天井に向けてみて」
 両手に持ったそれは、とても軽くて薄かった。繊細に出来ていた。
 天井に翳して、あたしは息を呑んだ。
 蛍光灯の青白い光を受けて、黒くて薄い飛膜は透き通って見えた。
 翼の間をいくつも通る赤い血管が、細くほそく、煌めいていた。生々しい造形美がそこにあった。
「……サソリの尾はメイクを終えてのお楽しみね」
 あたしは台の上でうずくまった。お尻を突き出して。
「体勢辛くない? 枕とクッションで調整するわね」
 ……濃厚な花の甘い香りがする。何故だか今は食欲をそそられる匂いに感じる。唾液が溢れてくる。
(まるで獣みたい……)
 俯いていると涎が出そうだ。ジュルジュルと唾を飲み込んだ。
 お尻をトントンと小刻みに刺激される。
 あたしの尾てい骨に続くように、ナニカが伸びていく感じがした。まだ見ていない尾だ。
 お尻にごく小さな重りをつけられたみたいな感じがする。今までやってきたメイクでは感じたことのない感覚だった。
 鋭い牙を三本つけて。
 一度下した髪を再びまとめる。視界に入った青い髪はすぐに見えなくなった。
 鏡は見せてもらえなかった。前後にいる生徒さんたちが「もうちょっと毛先出して」とか「ここどうする?」とか声をかけて調整しているようだった。
 あたしは昼に日陰で伏せをしているライオンのオスのように、動かずにいた。
「ライオンのタテガミの代わりにね。髪をアクセントに使うことにしたの」
 綺麗よ、と生徒さんは褒めてくれた。


 大きな鏡の前で、あたしは目を見開いた。
 四つ這いの、赤土色の生き物。
 頭の上に空色の花が咲いていた。大輪の花はあたしの髪だった。アップにまとめた髪の毛先を出して、一束ずつ花びらとして咲かせていた。
 凹凸のない、太い肉体。むっちりした身体を覆っている毛。お腹のあたりはフサフサと輝く赤土色の毛が、手足は短くて太い毛が。
 口から零れる鋭い牙。赤い舌が見え隠れする。
 黒い翼は蕾のように仕舞われていた。
 お尻から、尾が生えていた。指三本分の太さの尾から、視線を流し、先を見た。
 そこにはあたしの髪色と同じ、醒めるような青い花が咲いていた。
「綺麗……」
 お尻を鏡に向けて、観察していると、あることに気づいて。
 あたしは小さく声を漏らした。
「棘」
 花びらは尖っていて、全てが毒針だった。
 鮮やかな武器だった。赤ではない、相手を安心させるような青。ひとたび敵に向ければ、花びらの先を紅に染めるのだろうと思った。
 
「隣の部屋に行きましょう」
 と生徒さんが言った。


━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 ご発注ありがとうございます。
 怖いけど美しい。生々しいけど、幻想的。
 そんなイメージで書かせていただきました。楽しんでいただけたら嬉しいです。
 このお話はおまけノベルに続きます。
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花と獣2
 東京怪談ノベル(シングル)
『花と獣』の続編です。
「足の負担が大きそうね。肉球で衝撃を吸収させましょう」
 生徒さんの一言で、あたし(海原みなも・1252)の手足に肉球が付けられることになった。
 飼い猫のような柔らかいものではなくて、黒くて硬い。荒れた地を駆けるのに適したものだ。
 爪もつけることになった。黒い鉤爪。木に登れる獣の爪。でも、天井に向けると少し光を通す、シースルーのドレスのような艶めかしい黒の爪。あたしの身体を守る防具でもあり、武器でもある。
 四つ這いになって歩いてみると、確かに膝が楽だし、踵に感じていた衝撃がなくなっていた。
 
「どう?」
「はい、素敵です……」
 鏡を見せられて、あたしは目線を下げた。
 鏡には少女の顔をしているのに、四つ這いの獣になっている自分が映っていて。
 あたしが鏡をまっすぐ見つめると、向こうもじっとあたしを見ている。
 それが凄く、恥ずかしかった。
「恥ずかしいならいっそ顔も別人にしたらどうかしら。お化粧をしてみましょうか? ほら」
 生徒さんが見せてくれたのは、付けまつげだった。黒色のボリュームがあるタイプのもので、目尻側のまつげの先に紫色の宝石が付いていた。
「綺麗! 紫のアジサイみたいな色ですね」
「アメジストなの。……特別な日になるわよ」
 密やかに目元を彩る宝石。
 まるで戴冠式の女王の気分だった。最も高貴で美しい装飾品のような気がしたから。

 中学生のあたしにとって、お化粧は大人の女性の象徴で、憧れる対象だった。
 最初にざっくりとイメージを決めるために、いくつものアイシャドウがテーブルに並べられていた。まつげのアメジストが目立つよう、ブラウンのアイシャドウを選ぶことになった。
 下瞼には同じブラウンと、目尻のあたりに薄付けの赤を。
 アイラインは自然なブラウンではなく、黒ではっきりと。
 チークと口紅はブラウン系。
 眉毛は少し整えて、色は変えずに、凛々しくするため少し描いてもらうことになった。
 大体が決まったところで――。
 ファンデーションの上に光を乗せて、影を入れていく。顔にメリハリをつけて、西洋風の顔立ちに。
 光……ハイライトのパウダーにはラメが入っていた。おでこから鼻へふんわりとブラシで乗せると、鏡に映る自分の顔に細かなラメが控えめに光るのが見えた。鼻の周辺にシャドウを入れると、さっきより鼻が高く見える。
「絵みたいですね。影を入れるとより立体的に見えます」
「ふふっ。面白いわよね。フェイスラインにも濃い色を乗せていくの。シェーディングって言ってね、小顔に見えるメイクなのよ」
 ポーチから覗く様々なメイク道具も、あたしには初めて見るものばかり。白いパウダーが入った容器は宝石箱みたいに上品なものだった。
「見ているだけでワクワクしちゃいます! これは何の効果ですか?」
「お化粧を崩れにくくしてくれるの」
「そういうのもあるんですね! 凄いです……」
 ブラシも色んな大きさのものがいくつもあった。素材が違うものもあるらしい。
 生徒さんは絵描きみたいだ。あたしは描かれる絵。
(知らないことばかり……)
 例えば、唇。口紅を塗れば終わりな訳ではなくて、まず唇の輪郭をペンシルで描くことに驚いた。こんなものがあるのも知らなかった。
(学校の友達も知らないのかなあ)
 眉と目の間の距離、眉と眉の距離、目と目の距離も重要で、それで大人顔にも童顔にも見えるらしい。今日は少し距離を狭めるように色を入れて、少し大人っぽくしてもらった。
 生徒さんがデジカメで撮影した写真を見せてくれた。
 そこには、いつもより大人びたあたしがいた。憧れの高校生に見える。
 伏し目がちになると、アジサイ色のアメジストがパラソルのようにあたしの瞳を彩っていた。ブラウンの上品な瞼に、薄い赤が華を添えていた。正面から見るよりグッと大人に見えて、二十歳のように艶めかしかった。
 それでいて、あたしは四つ這いで、尾を掲げると棘の花が大きく開いた。黒く透けた鉤爪が空気を裂いた。美しい獣だった。
「みなもちゃん、車に乗って。収穫祭に行きましょう」
「収穫祭って作物の……? どこへ……」
「秘密の場所よ。果実が無事実ったお祝いに行くの」


 広いパーティー会場だった。
 照明は暗めに設定されていて、人がふんわりと浮かび上がって見える。
 ドレスを着た女性と、スーツの男性。それから。
(あたし、こんな格好で大丈夫なのかな……)
 周囲と自分の違いが気になって、唇から尖った牙が零れることにも躊躇してしまう。
 ペタペタと肉球が床に吸い付く音。感触。
 床と擦れてカツンと無機質に音を立てる鉤爪。
 小さく畳まれたコウモリの羽。
 空色の花のような髪、宝石を揺らしたお化粧、ずんぐりした赤土色の肉体に、毒針の花を咲かせた尾……。
 今のあたしは人からどう見えているだろう。
 ――と。
「…………!」
 ハッとして、前足を少し後ろへ引っ込めた。奥から狼の姿が見えたからだ。
「大丈夫、特殊メイクだから」
 生徒さんがあたしの毛並みを撫でながら耳打ちした。
「上を見て」
 四つ這いのまま、天井を見上げた。大きなシャンデリアが吊るされていた。
 羽のある白い馬の形の。
「ペガサス……」
 ピクリ、と白い塊が動いた気がした。
 ――視線が重なった。
 ペガサスの姿をした銀色のショートカットの女性が、あたしを見ていた。
「ヒト……⁈」
「そうよ。ほら、みなもちゃんステージを見て」
 低く作られたステージには、水の入った大きな透明のグラスがあった。
 グラスには女性が浸かっている。長い栗色の髪を水に濡らし、こちらに向かって微笑んでいた。
 足はなかった。
 鱗で覆われた巨大なヒレをしなやかに折り曲げて、グラスの外へ出していた。
 真っ赤な唇から、艶めかしい象牙色の歯が見えた。
「本日実ったばかりの人魚の果実です。盛大な拍手を!」
 喋ったのは黄金色のドレスを着た女性だった。
「もう一つ新鮮な果実をもぎました。さあ、あなた、こちらへいらして」
 生徒さんに促され、あたしはステージに上がった。
(これは……夢?)
 ステージは木で出来ていて、あたしの鉤爪で小さな悲鳴を上げていた。
 ギイ、ギイ、ギイ。
 胸が高鳴る。高揚する気持ちを抑えることが出来ない。
 高い天井に吊るされた幾つものペガサスが、光と自身の影を落とす。
 光と影を縫って、あたしはステージの上に立った。
「新鮮なマンティコアです」
 紳士と淑女が拍手をするのを見た。
 狼が耳をピンと立ててあたしを見ていた。
「この拍手はあなたのものです」
 司会の女性はそう言って、あたしの前足を取ってキスをした。
(ああ、なんだか)
(蕩けてしまいそう……)
 美酒に酔うってこんな心持ちなんだろうか。
 無意識のうちに、あたしは羽を広げていた。
 黒く透けた薄い飛膜を伸ばし、尾を立てた。
 青い毒針の花びら一つ一つを大きく振り上げた。
 ――獣としての強さを誇示し、最も美しい姿を見せるように。
 一際大きな拍手が会場に響き渡った。
 歓声に包まれるステージ。
 この世もあの世も現実も架空の世界も。
 ここには関係ない。
 収穫祭は始まったのだから。



━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 ご発注ありがとうございます。
 特殊メイクとの区別で、普通のメイクのことはお化粧と書いています。
 このお話はおまけノベルに続きます。
 楽しんでいただければ幸いです。
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秘密の願い
 東京怪談ノベル(シングル)
 お芝居を打つことになったPCさんです。
 いつもお世話になっている、特殊メイクの学校のアルバイトにて。
「少女を魔物に変える工房……ですか?」
「特殊メイクをするだけじゃなくて、映像作品としてドラマ仕立てで作ってみたいのよ。みなもちゃん、水泳部以外にも演劇部にも入ってたわよね?」
 生徒さんの言葉に、あたし(海原みなも・1252)は曖昧に微笑んだ。
 確かに演劇部に入ってはいるけど、幽霊部員なのだ。
 上手く出来るだろうか。
「これ台本ね。セリフも少ないし、短いお話だから、是非やってみましょう?」
「わ! 装丁も手作りなんですね。挿絵まであって、絵本みたいです……!」
 ページを繰ると、僅か十ページ程のお話。
 ある願いをした美しい少女が工房で人魚にさせられるのだ。
 ……人魚。
 ……想像しやすい、かも。
「お芝居に自信はないですけど、一生懸命頑張ります!」
「そうこなくっちゃ! じゃあ、カメラを回す前に、物語の少女を作りましょうか。みなもちゃんだけどみなもちゃんじゃない、別の世界のみなもちゃんをね」


 いつも下ろしている、ストレートの青い髪。
 毛先に椿オイルを一滴馴染ませると、柔らかな櫛を使って、生徒さんはあたしの髪を梳かしてくれた。
 何度も何度も。
 髪が艶めくまで。
 そしてサイドの髪を少し取って、結い始めた。ぎゅっと固くて細い編み込みを作って、カチューシャのように置いた。崩れないよう、真珠の付いた飾りで優しく留める。
 お化粧は控えめに。真珠パウダーで顔に艶を出し、頬には薄い桜色のチーク。
 唇は蜂蜜入りのリップを塗って。ぽってりとしたグロスも。
 
 衣装の純白のローブを着て、あたしは鏡の前に立った。
 ……そこには、華奢な少女がそっと佇んでいた。
 後れ毛のない、きっちりと結んだ編み込みのカチューシャ。
 ウェーブのない、サラサラと流れるストレートの青い髪。
 髪に添えられた、控えめな小粒の真珠。
 透き通るような白い肌。
 密やかに瞬く瞳。
 ほんのり桜色の頬。
 ふっくらした唇。
 ……いつもより幼く見える、清楚な少女。
 ――フワッ。
 後ろから、生徒さんに抱きしめられた。
 あたしの耳元で声がする。
「よく似合ってるわ」
 それから、こう聞こえた。

 みなもちゃん、あなたは純粋で清楚な子。
 お母さんの言いつけ通り、髪を固く結って、ローブを着ているの。
 生真面目で融通が利かない、少し古風なところもある……。
 でも本当はね、一人で湖の水面に映る自分を見ていると、思うことがあるの。
 甘く淡い願い。
 生真面目な子の、一人だけの秘密……。


 ――みなもは目を覚ました。
「やだ……いつの間に寝ちゃったんだろ……」
 起き上がろうとして、みなもはベッドに身体を打ち付けた。両手がベッドに縛り付けられていたのだ。
「きゃあ!」
 次々出そうになる悲鳴を半分以上飲み込んで。
 他のことにも気が付いた。
 みなもの身体。
 全身がビショビショに濡れている!
 白いローブはずぶ濡れになり、みなもの肌が透けている。
 腕に、胸に、腰に、太ももに、ペッタリと張り付いた薄い布地。その下から、艶めかしい肌色が隠しきれず浮かび上がっていたのだ。
 ベッドのシーツも水に濡れている。
 真珠の髪飾りはベッドシーツの波に沈んでいた。いつも綺麗に結っていた髪は、解けていた。
「お母さんに叱られちゃう! それに、どうしてこんなに濡れてるの。まるで溺れたみたいに……」
「やあ、少し驚いたようだね」
 中世的な声に、みなもは視線を上げた。
 そこには羊のツノを生やした女性が立っていた。
 長身で異形の姿をしているが、艶めかしいスタイルの色香漂う女性。
 みなもは戸惑いながらも、期待に胸が逸るのを抑えられなかった。
「もしかして、あれは夢じゃなかったの?」
「そうだよ。私はただのスケープゴート。君の罪をもらい、君の夢を叶えるために存在する」
「ああ、やっぱり」
 みなもは小さく呟いた。
 いつもの湖で、鏡代わりの水面に自分を映しながら――みなもはいつもの願い事をしていたのだ。
 ところが、この日は一つだけいつもと違うことがあった。
 それは、水面から彼女が出てきて、みなもを水の中に引きずり込んだことだった。
 ――願いが叶うのだ。
「さあ君の願いをもう一度言って」
「あたしをどうか、美しい女の子にしてください。可愛くて、綺麗で、それから……」
「それから?」
 縛られた両手に対し、両足をこすり合わせながらシーツに隠すようにして、恥ずかしそうにみなもは続けた。
「……色っぽい女の子にしてください! お母さんには言えないけど、ずっと憧れてたの!」
「では最も美しく妖艶な姿に君を変えよう。ここではそれが叶うんだ」

 みなもの足は、締め付けの強いストッキングのようなもので覆われた。
 濡れた肌に、この細かい網目が張り付いて。お尻から足先まで、神経質にピンと張りつめている。
 網目を通して伝わってくる、みなもの柔らかくて温かな肌。
 下半身は一つのカタマリになった。
 そこに、肌色の粘土みたいなものがたくさん被さった。
 最初は固い粘土だったのに、みなもの濡れた肌に折り重なり、少しずつ柔らかくなっていく。
 そして表面にはヘラのようなもので、鱗のラインが付けられていく。いくつも、いくつも。
「アクアマリンをパウダーにしたものだよ。これが大事だ」
 青く美しい煌めきが、天の川のように、みなものヒレの上で流れていった。
「良い石だ。全て潰した。美しいモノを生み出すには、常に代償を伴うんだ」
 お尻も覆われてしまった。
 濡れたローブは崩れ去った城のよう。持ち主の全てを露にしていた。
 ……ポタポタ。ピシャピシャ。
 アクアマリンの川の上から、白い糊のようなものが垂らされた。
 虹色に淡く光る鱗。さっきのラインに沿って、丁寧に一枚ずつ重ねていく。
 再び白い糊を垂らされる。
 それから、ベッドごと一度窯のような所に入れられた。
「これは、何をしてるの?」
「魔法をかけているんだ。もう出すよ。見てごらん」
 彼女に両手を解いてもらい、みなもはベッドに腰かけた。
 鏡には、ベッドからゆらりと尾ヒレを下した人魚が映っていた。
 青いキラキラと光るヒレに、虹色の鱗。
 白いローブはグチャグチャになっていて、まるで白いシーツに包まっているようだった。それはひどく濡れたためにみなもの身体にピッタリと張り付いていて、肌色が透けて見える。
 その間から、悠然と大きな尾ヒレが垂れ下がっているのである。
 魔法の意味はすぐにわかった。さっきの白い糊だと思ったものは、乾くと姿を変えていた。
 粘っこさがなくなり、ふんわりと柔らかい新雪のようになっていたのである。尾ヒレに雪が降っているのだ。
 こうして見ると、透明度の高いアクアマリンはまるで氷のようだ。
 みなもの視線は下から上に。
 細く白い首を通り過ぎ、潤んだ瞳を熱くさせたものの、乱れた髪を見て僅かに眉をひそめた。
「ここにも……魔法をかけて」
 みなもは大胆にもローブを脱ぎ捨てると、華奢な背中を異形の彼女に預けた。
 ――異形の彼女はみなもを抱きしめた。
 次にみなもの白い両肩を撫でた。
 そして、真珠の髪飾りをシーツから拾い上げると、言った。
「では、髪に一番美しい魔法をかけよう。君は氷雪の人魚になる。ここではそれが叶うんだ」

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 ご発注ありがとうございます。
 ファンタジーと現実の間です。
 このお話はおまけノベルに続きます。
 楽しんでいただければ幸いです。
全体の表 >
夜の散歩
 東京怪談ノベル(シングル)
 夜の散歩をするPCさんです。
 満月美華(8686)は、夜が好きだ。
 人のいない道、そよ風に揺れる葉、精霊たちのヒソヒソ話、眠る小鳥、満ち欠けする静かな月―ー夜は魔女である美華に馴染む。
 今日は季節外れの嵐が来た。夜の零時過ぎに小雨になり、先ほど止んだ。
 美華は時間をかけてベッドから起き上がると、窓越しに外を眺めた。
 嵐の過ぎた丑三つ時。雨の残り香がする夜道。絶好の散歩日和だ。

 三桁の体重では、普通の人のように、仰向けから起き上がることは困難だ。大きなお腹が邪魔して、陸に打ち上げられたトドのようになってしまうからだ。
 美華が起き上がるには、まず横向きになり、そろそろと足だけベッドから出す必要がある。それからベッドの手すりに掴まって、遠心力を使うことでようやくベッドに腰かけることが出来るのだった。
 美華は家の階段の上り下りでも息切れする。日によって階段を上れない日もある。だから散歩をするときは、美華は自分に魔術をかけている。
 そうして体重を軽くした美華は、レインブーツを履いて外に出た。
 
 街灯に青白く照らされたアスファルト。
 あちこちに水たまりがある。小さな水の精霊たちが嬉しそうに飛び跳ねていた。遠くから見ると音符が躍っているみたいだ。人けのない夜道では、車道すらも精霊たちのダンスフロアなのだろう。
 普通の人間の目には映らない光景。
 だが美華には見える。
 いつから見えるようになったのかは憶えていない。祖父から魔術を学び、気づいたらこれが美華の世界になっていた。
 ――水たまりの中、ゆらゆらと光が揺れる。
 パシャン!
 美華はレインブーツで水たまりに飛び込んだ。雨水が勢いよく跳ねる。囃すように精霊たちが口笛を吹いた。
(今の私って、まるで子供みたい)
 久しぶりの外出。そして季節外れの嵐の後。美華の心は弾んでいた。
 もう一度跳ねた。贅肉ばかりの体がブルンブルンと大きく揺れた。
 腹部だけが、揺れなかった。美華のお腹には、余っている肉がない。はちきれんばかりに膨れ上がっているからだ。
 美華はまるで金色の髪をした風船だ。

 川沿いのウォーキングコースを歩く。日中は賑わうこの道も、深夜には誰もいない。
 嵐のために川の水は増えていた。大きな音を立てて、流れていく。
 水は命の源だ。人間の体も殆どが水で出来ている。
 ゴウゴウと流れる川。水滴のひとつぶ、ひとつぶが光っている。
 水草の透き通った緑色も、淡い光を零していた。水草はおしゃべりだ。荒れる水の中でも、彼らは笑い合っている。
 鯉の子供たちは夜更かしして水草の話に聞き耳を立てている。おとなのオイカワたちは慣れっこなのだろう、よく眠っているようである。いびきが聞こえるからだ。
 ここにはたくさんの生命が溢れている。力強く、たくましく、彼らは生き続けている。
 
 ウォーキングコースから一本道を外れると、その先には森がある。
 正確には、かつて森だった場所。現在は死にかけた林がある。
 存命だった頃の祖父が言うには、昔は怖がられた森だったそうだ。実際に事件もあった。近所の小学校では、教師たちが何度も「あの森には絶対に行ってはいけない」と呼びかけていたらしい。
 開発が進んで、森は崩されていった。今や僅かな林があるきりだ。それでも昔からここに住んでいる人たちは、この場所を恐れている。
(もう、死ぬのに)
 美華には分かっていた。目で、耳で、においで、気配で。何より本能で。
 両親を亡くし、美華が祖父の家に身を寄せた頃、まだこの“森”は生きていた。
 ここにはいくつもの影が住んでいた。日中は小さく丸まっていたが、夕方には一塊の大きな影となって佇んでいた。
 影はいつも夜になると蕩けていた。
 祖父が生きている頃、魔術を覚えたばかりの美華は、夜に何度も蕩けた影を眺めていた。
 蕩ける瞬間にも立ち会ったことがある。コーヒーに入れたミルクみたいに、影はなめらかに夜と混ざっていくのだ。
 ―ーそれが今は。
 木の根元で、小さく、ひっそりと丸まっているひとつの影。もう夜に蕩ける力も残っていないのだろう。
 生きているのはこの一匹だけのようだ。
 ホロホロ。ホロホロ。
 ずぶ濡れになった影は、静かに死を待っているようである。

 美華は足早にその場を離れた。
(見なければ良かった)
(見るべきじゃなかった)
 見たくないのに、散歩のときはここに寄らずにはいられないのだ。
 生まれる命があれば、消えていく命もある。
 そんなことは美華も知っている。知り過ぎるほど知っている。死のことは。みんな死んでしまうことは。自分も死んでしまうことは。
 だが死への恐怖!
 恐怖はどうしたら消えてくれるのか?
 美華は知らなかった。
 知っているのは、死への恐怖を一時忘れさせる方法だけ。
 だからそれにすがるしかないのだ。どんなリスクを背負ってでも。
 
 ―ー死にかけた林が見えなくなった。
 美華は立ち止った。
 それからお腹をゆっくりと撫でた。今にも割れそうな風船。割れそうで、けれど割れない風船。膨らみ続ける風船。
 風船の中には、たくさんの生命が呼吸している。全て美華の命。美華だけの、死を遠ざける、たくさんの自分。
 お腹をさわる美華の手はプヨプヨで、とても大きい。顔を撫でれば垂れた二重あごに行きつく。特注のブラジャーも最近は苦しくなってきた。
 美しさからほど遠い体。魔術をかけなければ外出も叶わない。それでも美華はこの体を捨てることは出来ない。
 予備の命がなければ、死の恐怖に耐えられないから。生きてはいけないから。

 夜の公園では、ポピーの蕾が寝息を立てていた。花は美しい。そして短い命を持っている。
 美華は夜の散歩が好きだ。
 人のいない丑三つ時。
 時にはしゃぎ、時に怯えながら、美華はお腹を撫でて自分の命を確かめる。
 月夜に照らされて。今、確かに満月美華は生きている。
 



━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 初めまして。ご発注ありがとうございます。
 神秘的な夜の散歩ということで、このような感じになりました。おまけノベルも含めて、楽しんでいただけたら幸いです。
全体の表 >
原点のモフモフ
 東京怪談ノベル(シングル)
 いつもの専門学校に向かうPCさん。
 今回は懐かしいメイクをするようです。
 いつものアルバイト。通い慣れた駅に降りる。
 赤や透明、青、水玉の傘。様々な色の傘が通り過ぎるのを見ていると、梅雨も少し楽しくなる。
 あたし(海原みなも・1252)は青紫の紫陽花色の傘、生徒さんは虹の描いてある傘を差して歩いた。
「初めてうちでアルバイトをした時のことを覚えている?」
「はい! 猫娘ですよね」
「そうそう。型を取るって話した時のみなもちゃんの顔。目を丸くして驚くんだもの、面白かったなー」
「あ、あれはメイクのモデルとしか聞いてなかったから……! 今なら! 驚きません!」
「じゃあこれから頼もしいみなもちゃんを見せてもらおうかしら。今日は猫娘なの。……私たちだって昔のままじゃないってことをみなもちゃんに見せるわ」

 学校では既に準備がされていた。ふわふわの白の毛、硬そうな猫のヒゲ、尻尾、ピョコンと立つグレーの耳などがそれぞれケースに入ってテーブルの上に置いてあった。筆などの道具も並べてあって、粘土のような材質のものや、一見して何に使用するか分からない液体もある。
「美しさはバランスで決まるものよ。耳の大きさも尻尾の長さも、みなもちゃんのサイズに合わせて作ってあるの。ヒゲもね」
 大きな鏡の前。
 生徒さんはあたしの頭に右の猫耳を乗せた。大きすぎず小さすぎず。片方だけ頭にある、淡いグレーの猫耳。
 髪で本当の耳を隠す。こうすると、グッとファンタジーっぽくなる。
 両方の猫耳を生やしたあたしを想像する……。
「横幅だけじゃなくて厚みも計算してあるから。サイズぴったりでしょう? 今まで散々測ってきたからね」
「もう……!」
「あら、不満があるならお直しするわよ? 今すぐ全身測らせてくれたらね?」
 モゴモゴと歯切れ悪く返すあたし。不満なんてありません。猫耳はとっても素敵です。ただ、その、言い方が……いえ、ナンデモアリマセン……。

 最初にコンタクトレンズを入れた。これはあたしの瞳と同じ青色のもので、瞳孔が大きなまんまるで見えるようになっている。
 猫は周囲の明るさで瞳孔の大きさがとても変わる。まんまるおめめの時が特に可愛らしい。それをコンタクトレンズで作るのだ。
 メイクしやすいように髪をアップにして前髪も上げる。
 それから目をつむって。
 魔法がかかるのを待つ。
 生徒さんの手は温かくて、心地良い。
 筆で顔を撫でられる。何かを塗られているけど、まだ分からない。
 その上からひんやりとしたものが被さってきた。
「これは……? 粘土みたいな感触……」
「肉付けね。みなもちゃんの顔を少し平面に、それから丸くするためよ。この前取った型を使って作ったものなの。本物の粘土みたいに崩れはしないわ」
 その粘土のようなものは、パーツごとに分かれているみたいで。数回に渡って、ゆっくりとあたしの顔に被さってくる。
 時折触れる生徒さんの指先。肌にかかる生徒さんの吐息。緊張が伝わってくる。きっと貼る場所がズレてしまうと、一気にメイクがおかしくなってしまうんだろう。
 さらに上から何かされている。間接的な感触だけど、色を塗られているんだと思う。
 大きな筆みたいなザラついた感触だったり、スポンジで押さえるような感じだったり。まるであたしはキャンバスだ。
 特に口元は入念で。小さな筆があたしの唇を僅かに出たり入ったりした。
「一度確認してみる?」
 生徒さんの声に目を開けて応える。
 白の、目にはもちもちしてそうなものがあたしの顔を覆っている。特に鼻と口のあたりは丸く膨らんでいる。
「どう?」
「面白いです。まだ最初なのに、もうあたしじゃなくて。ピザの生地になったみたい……」
「あはは! 私たちにとってはみなもちゃんの方が面白いわよぉ」
「ええっ⁈ だ、だって膨らんだピザ生地みたいですよっ。この上にトッピングが乗る感じの……」
「植毛がトッピングね! では豪華なトッピングにしましょうか」
 淡い白の柔らかな猫の毛。いくつもの手が伸びてきて、あたしの肌に毛を立てる。
 獣の臭いはしない。陽だまりの中にいる時みたいな、不思議な匂いがする。鼻に、皮膚に、体に馴染む香り。
「この毛にはみなもちゃんの匂いを染み込ませてあるの」
「凄いです! どうやってですか?」
「あら、具体的に聞きたいの? まずはみなもちゃんの匂いを抽出して分析するために髪と汗から……」
「すみません、やっぱりいいです!」
「ああっ。みなもちゃん、顔を横に振らないで。毛が落ちちゃう」
「すすすすみませんー!」
 顔の植毛が終わると、全身も同様にする。上半身から始めて、最初は椅子に座って腕を上げて脇を触られたり、両方の指を広げたり。くすぐったくて、腕をすぐに下ろしてしまうので、最終的に生徒さんに腕を掴まれていた。
 ピンクの肉球をつけて。小さいけど鋭い爪も。肉球は感触が楽しくて手でモミモミしていたら、爪が食い込むから止めなさいと注意されてしまった。
 立ち上がって、お尻の形も変えられた。人間らしい膨らみを減らして―ーお尻をペタペタと塗られるのは結構恥ずかしい。目のやり場に困って、視線が泳いでしまう。鏡の中の自分と何度も目が合った。
 尾骨のあたりから尻尾をソロリ。これがふわっふわで、わたあめより少し重いくらい。鏡の前でくるくる回って何度も柔らかく膨らんだ尻尾の動きを堪能した。
 髪を下ろして。
 髪の色に合わせて塗ったピンで猫耳を生やした。
 ピンセットを使って、生徒さんがそーっとあたしに猫ヒゲをつける。
 鏡の前に現れたあたしは、長毛の猫だった。
 綿毛のようなふわふわの淡い白の毛に、耳と顔にグレーが入る。胸元は濃い真っ白の毛がタテガミみたいに揃っている。
 幼そうな丸い顔に、青くて大きな瞳。
 ひょっこりと立ち上がっているグレーの猫耳。
 鼻先から口元にかけてほんのりピンク色をしている。ここは毛が生えていないので、筆で色付けされていた。何度も筆が往復していた理由が分かった。唇の内側の先も少しだけ、彩られていた。
 全身柔らかそうな猫だ。シャワーを浴びたらとても小さくなりそうな。
 背筋を伸ばして座り、猫らしく構える。
 雪のような尻尾をなびかせて。
「テーマは愛らしさ。前は短毛の猫しか出来なかったけど、今は長毛も出来るわ。時間もそこまでかからなくてね。イメージも決めてて、猫のお嬢様なの。飼い主の家から出たことがない、窓際に座るのが好きな飼い猫よ」
「確かに家で大事に飼われていそうです。ふわふわで丸っこくて……ぬいぐるみみたいです」
「さすがみなもちゃん! 猫種はラグドールなの。猫娘に種類を決めるのも変かもしれないけど。ラグドールの意味は”ぬいぐるみ”だそうよ。そうそう、これをつけないとね」
 生徒さんからつけられたのは、赤い首輪。
 最初のアルバイトの時につけられたものと同じだ。
「気に入ったら返事して。猫ちゃん?」
 生徒さんの優しい声。
「…………にゃぁ」
 あたしは体を折りたたむようにして顔を自分の柔らかな毛に沈めた。落ち着く匂いがする。
 あたしの体。あたしの匂い。あの時の首輪。首輪の鈴がリンと鳴った。





 ご発注ありがとうございます。
 懐かしさを噛みしめながら書かせていただきました。
 楽しんでいただけたら嬉しいです。
 おまけノベルに続きます。
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