Id:460597 「よるのこきゅう、あさのねむり」

 彼女は畳の上に寝転がって、“よる”を飲み込んでいた。
「真っ暗な部屋の中で口をあけていると、勝手に“よる”が入ってくる」
 それは彼女にとって特別な出来事ではなく、日常の一こまに過ぎなかった。

 彼女は零時から“よる”を飲み始める。
 朝の四時になると“よる”はシッポを残して後は消えてしまい、彼女は六時頃まで僅かに残った露を啜るという。
 そのうち自分の身体は“よる”の物になるのではないか、と考えることもある。

 彼女は今年で十一になる。
 少女が“よる”を飲んでいる間、隣にいる母親は暗闇の中でランドセルを見ながら独り言を漏らしている。
「明日の時間割は、国語・理科・体育・社会……」
 母親は呆れた目で娘を一瞥した。

「ほら、また資料集を忘れてるわね。あなたはどうしてそうボンヤリさんなの」

Id:006775「お母さんセンサー」

 ――みさと。
 引いていくさざなみのような、穏やかな声がする。

「みさと、みさと。こちらへおいで」
「なぁに、おじいちゃん。ちゃんと近くにいるじゃない」
 読んでいた雑誌を膝に置き、少し頬を膨らませた美沙都が言う。いかにも気だるそうに、けれど唇の端から笑みを浮かべた表情で。高崎家のいつもの風景だった。
「いや、いいんだよ。用って訳じゃあないんだがね。お前が居るかどうか確かめたくてね」
「おじいちゃん、いるよ。私」
 美沙都は、そっと台所を覗う。母が夕食の準備に熱中しているのを確認してから、祖父の手を握った。
 そして恥ずかしそうに小声で、祖父にも聞こえるよう耳元で囁いた。
「ほら、あたしの手、温かいでしょ。おじいちゃんの横にいるんだよ」
「ああ、わかる。わかるよ。そうかあ、みさと……いるのかあ」
「うん。大丈夫だよ。こ・こ・に・い・る・よ。どこにも行かないからね」
 とす・とす・とす・とす。
 台所から近付いて来る足音がして、母が居間に顔を出す。
「美沙都、もうテーブルは拭いたの? 雑誌なんか読んで……暇ならおじいちゃんとお話しなさい」
「はーい」
 一際ゆっくりと返事をして、あくびの真似をひとつ。それから美沙都は忍び笑いをした。
 ――私の“お母さんセンサー”は今日も完璧だね。

「みさとは幾つになったんだっけかなあ」
「12歳だよ。4月が来たら、中学生。もう大人なの」
「大人か、どうしてそう思うんだ」
「干支が一回りしたもん」
「ははは」
 祖父は途切れ途切れに声を排出した。その笑い方は、美沙都の得意満面な笑みや、春のような桜色の頬とは対照的に、枯れた冬の匂いを想像させた。祖父は、独り言のように、口の中で呟いた。「ヘイワだな」
 美沙都はその匂いを嗅ぎわける子供だったので、祖父に顔を近づけて瞳を覗きこんだ。
 幾分濁った祖父の瞳は、美沙都にはビー玉に見えるときがあった。今もそうだった。灰色がかってきた黒いビー玉の中心には、美沙都がいた。目を見開いているように見えた。背景は焼け野が原のように閑散としていて、幼い頃にやったサイダーのビー玉で電球を覗く遊びを思い出した。あれよりも美沙都をくぎ付けにする侘しい景色がそこにあった。
 美沙都は祖父が好きだった。手のしわを眺めていると、何故だか懐かしい気持ちになる。祖父が笑うと、胸の中の暖炉に明りが点る思いがする。
 同時にこんなときの祖父からは、恐ろしく、未知の人の懐に潜り込んだような不気味さも感じていた。だからこそ祖父が好きだったのだ。
「おじいちゃん、おじいちゃんが12歳のときって、」
 言葉を出し切る前に、美沙都の本能が動いた。12歳の“センサー”は優秀なのだ。

 ほんの数秒の後、美沙都は雑誌のおまじない特集を広げていた。
 お盆をテーブルに置きながら、ため息をつく母。
「あんたって子は……おじいちゃんからそんなに離れて座って…………!」

Id:160806「なみだ」

 あなたの涙はいつも私の肌をなぞる。
 それは私の冷えた頬を撫でて、鎖骨の窪みに小さな湖を作る。

 あなたの涙はいつも私の肌をなぞる。
 それは私の硬い胸の膨らみを通って、熱を帯びた涙はお腹へと落ちていく。

 あなたの涙は一滴の雨のよう。
 それは私の乾いた肌を潤してくれる。

 私は人形。
 あなたが涙する時しか、生命の温もりを感じることが出来ない。



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