Id:292929 「脇役の笑い」

 小さなアザが膝に出来ていることに気付いた。そこから血が滾々と湧き出ていた。
 ついに私の番がきたんだ。
 喉からも生温かい血が溢れてきて、舌がヌルヌルし始めていた――

 いつからだろう、全身から血が流れて死ぬ人が出てきたのは。
 奇病か事故か、憶測が飛び交うまま、死者だけが増えていく。
 見た人は言う、「目の前で突然血が噴き出して死んでいった」と。「あれは人の出来ることじゃない、悪魔の仕業だ」。
 その奇病が赤死病と呼ばれるまでに、時間はかからなかった。ポーの『赤き死の仮面』という小説になぞらえてのことだ。
 一日に何十人、何百人という人が死んでいった。人々は、赤死病の中盛大な仮面舞踏会を開いたプロスペロ公のことを思い出して、仮面をつけ始めた。身体中から血を噴き出したときの苦悶の表情を、愛しい誰かに見せないように。両親も私も仮面をつけた。その日からパパのおやすみのキスがなくなった。眠るときは仮面を外さなければならないので、みんな起きているときに死ぬことを願った。
 おかしくなった人の中には、仮面舞踏会を催す者もいた。窓からは豆粒程の人間が列を作って古い城へと向かう姿を見ることが出来た。みんな帰ってこなかった。

 もしこれが物語りだったら、誰かが助けてくれるはずなんだ――と私は自分に希望を持たせていた。
 残念ながら、この病を治す英雄に、私はなれそうもなかった。私はバイエルを習い終えたばかりの、少しピアノが得意な子供に過ぎなかったのだから。

 喉に血が入り込んで、飲み込んでも飲み込んでも、ドジョウのようにヌルヌルとした感触が消えてくれない。奥でゴボゴボと音がして、私は激しく嘔吐した。
「ハ……アハ……」
 笑える話だった。
 パパが死んだときにページがめくられる音を聞いてから、私はこの目の前の出来事が作り話であることに気付いていた。小さいときに読んだ絵本のように、夢中になった探偵小説のように――誰かが書いたものなんだ。

 なのに誰も助けてくれないんだもの!

Id:405178 「親愛なるマウジィ」

 薔薇園がよく見渡せる窓際でクッキーを頬張る少女を、公爵は眩しそうに眺めていた。
「嬉しそうな顔をするね」
「だってパパ、あたし幸せなんだもん」
 少女は薄紅色に上気した顔で微笑んだ。「エヴァの美味しいクッキーが食べられるんだもの」
「エヴァは料理上手だからね」
「ガーデニングの腕もよ。この薔薇園だってママが死んでから枯れ果てたのに、エヴァのお陰でまた綺麗に咲くようになって……」
「あれの肌からは薔薇よりも良い香りがした」
 公爵は夢見るように言い、毛深い腹を撫でた。それがどれだけ膨れていたか!
「だけどね、パパはエヴァを食べてしまったんだ」
「まァ!」
 少女は目を見開いた。
「じゃあこれで、お菓子はおしまいなのね」
 動揺した視線で、もう増えることのないクッキーを数えた――全部で四十枚あった。

 公爵は落ち着きなく部屋中を歩き回っている。腕を強く押さえ、肌に爪を立てて、汗を滲ませた顔で。
 ふいに、彼はニヤリと笑い、長い爪でクッキーを一枚つまんだ。「これでお前の幸せは四十分の一減ってしまったね」
「いいの」
 少女はハラハラと涙して言った。「あと三十九の幸せがあるわ」
「泣き顔も美しい。マウジィ、お前はママにそっくりだ」――公爵は十数年前にその美貌で世間を騒がせた女優の写真をひらひらと揺らして見せた。「ママもパパが食べてしまったんだよ」

 やがて少女は、公爵が自分の目の前にいることに気がついた。優しい筈の父の目は飢えたようにギラギラと光っていた。お気に入りのドレスに作られた唾液の水溜りが、幼い目には特別大きく見えた。
 ゼイゼイという声と共に、裂けた口から出る生臭い息が部屋中に立ち込めていた。
「まァ、パパ!!」
 少女は狂ったように叫び声を上げた。「あたしを食べたいのね?」
 その言葉がどれだけ公爵を驚かしたか!
 彼はギャッと飛びのいて、目を一層輝かしながら、首だけを左右に振った。
「……クッキーだ!!!」
 特別低い声だった。
「アア、マウジィィィ、お前を食べたいだなんて! ママにそっくりなお前を! 欲しいのはクッキーだ、クッキーをくれ!」
「エヴァが残してくれた大事な物を寄越せだなんて!」
 少女はその甘いお菓子を彼には渡さず、勢いをつけて自分の口に放り込んだ。そう、大事に食べようとあれだけ誓ったというのに!

 そうして殆ど食べてしまうと――情けのつもりで、少女は涙を堪えながら最後の一枚を公爵にあげた。
 だが、アア!
 公爵の大きく伸ばした口は何だ。
 肉のように厚ぼったい唇が、特別熱を帯びているのは何故だ。
 クッキーを食べることよりも、公爵には強い欲望があったのだ。

 彼は少女の腕を咥えた。
 興奮によって潤んだ彼の瞳は小さな獲物を捕らえて、その眼光は空中に浮いた太ももで視界がいっぱいになるまでぐんぐんと引き付けていった。
 ――愛娘は美味しかった。ドレスを歯で千切り、鳥肌の立っている肌に舌を滑らかに這わせていくと、少女のかいた冷や汗が甘酸っぱく広がった。丸呑みするときに響いてきた少女の歓喜ともつかぬ叫び声さえ、パフェの上に飾られたミントのように爽やかな味わいを示した。
 だが食べ終わってしまうと娘のいない寂しさが募り、公爵は子供のように泣き出した。

「マウジィ、マウジィ、マウジィィィ!!!! 薔薇よりも美しかったお前だのに!」
 するとそれに答えるかのように、
「パパ泣かないで、あたし幸せよ!」
 ――彼の腹の中から声が上がった。
「エヴァが夕飯を作ってくれるんですって!」

Id:7442940 「メチレン」

 子供のときのことを訊かれるのは苦手だ。
 真実を話しているのに、冗談だと思われるから。
(それならまだマシかもね)
 中にはこんな助言をしてくる人までいるのだから。
 「トラウマってやつで記憶が書き換えられているんじゃないの? 専門家に会うべきだよ」
(書き換え? よりによって、こんな突拍子のない事情に?)
 ――私の記憶は正しい。父には顔がなかった。顔のあるべきところには、スカイブルーの水が、温そうに揺らいでいたのだ。

 私が五才のとき、飼っていた金魚が死んだ。
 その翌日に父は失踪した。

 ――父のことは思い出すまいとして生きてきた。
 にもかかわらず、父の面影はいつも私の心の底で暮らし、息をし、その呼吸の循環を私の喉元で行い続けた。だから私は周囲に変な顔をされようとも、訊かれればありのままのことを話していた。声に出さずにはいられなかったから。
「お父さんの顔はないの。あるのは水だけ。いつもさざなみを立てていたんだよ。そこに映し出される景色が好きだった」

 そんな生き方をしてきたのだから、夫と出会ったのは必然に近いだろう。

 あれは私の誕生日だった。時間は夕方だったと思う。
 私は仏頂面を装いながら、小さなお店でホールケーキを買った。
(十九歳にもなって、誕生日ケーキだなんて)
 いらないと言ったのに、母は頑固なんだから。
 しかしまんざらでもない気持ちで店から出ると――突然喉が焼けるのを感じた。私は息をするのを忘れるほど驚いて、あやうくケーキを落とすところだった。
 (いつもの“循環”にしては強すぎる)
 まるで喉に炎を灯したようで、鋭い痛みを感じる。
 今までこんなことはなかった。
(お父さんが何かを伝えようとしている?)
 あたりを見渡したところで――私は息を飲んだ。

 視界に入ったのは若い男性だ。小柄な私では見上げなければならない程、背が高い。父とは正反対だ。
 しかし顔のあるべきところには水が波紋を作り出し、中心には私と、後ろの街路樹が歪んで映し出されている。その柔らかな線の下には細い喉仏が突き出ていた。
(お父さんに似ている)
 ――喉の熱さに強弱の波が起こっていた。まるで父が頷きでもするように。
(この人なのね? お父さん)
 気付くと私は彼に声をかけていて、そんな自分に戸惑いながら話をしていた。
「あなたによく似た人を知っているんです。嘘だと思われるかもしれませんが、本当なんです。……失礼ですが、それで少しお話がしたくて」
 ――彼は怒りもしなかったし、誤解による下卑た表情も浮かべなかった。
 ただ彼は“特定の組み合わせの言葉”を機械のように喋るだけで――それは私を安心させるリズムを持っていた。父も寡黙な人だった。

 しかし私が彼との結婚を決めたのは、そんな些細な理由からではない。もっと大きな、ある超越した存在をその中に認めたからだ。
 彼に抱き寄せられて“水”が瞳一杯に広がるとき――私は温んだ中でその生き物を見つける。
 赤と白の更紗模様。目の上には赤い線が心地よく引かれている。薄い尾ビレは身体を包み込むように舞い、ハネ物ながら優しげな雰囲気をもたらしていた。

 私が飼っていた金魚だ。

 一月の早朝、寒さでじっとしている金魚を可哀想に思い、お湯を注いで死なせてしまった。私は泣きじゃくり、今度は本当に動かなくなってしまったペットを庭に埋めた。私を慰めてくれた父も、翌日に目を覚ますといなくなっていた。
(わたしのせいだ)
(ばかなことをしたから、金魚はしんだんだ)
(金魚をころしてしまったから、おとうさんがいなくなった)
 考えすぎだと母に言われた。気にしないでいいと叔母夫婦に言われた。被害妄想ではないかと影で言う人もいた。
 だが私のせいなのだと、今も思っている。直感的確信を持って。

 その金魚が――私をずっと観察している。
 生きていた頃のようなエサをねだる仕草はせずに、こちらを凝視し、感情を思い出ごとさらっていく。
 失わせた命が燃え出していた。

 私の意識下で、金魚は泳ぎ始める。

 粘っこい風が私を撫ぜた。風の先頭では、尾ビレが私を誘っているのだ。
 (過去へ、過去へと)
 緩慢な呼吸がエラを通して伝わってくる。
 ――やがて私の手の甲は一枚の鱗に触れた。
 薄い粘膜を指で取り去る。乾いた鱗はザクロのようにどす紅く見え、私がつけた傷のようにも思えた。
(なぜあなたは戻ってきたの?)
 理屈は私をいだきはしない。感覚のみが入ってくる。ゴム鞠のような弾力が生々しく私を押し返す。心という水は温んでいくばかり――私は静かに蝕まれていくのだ。

 独り言のような私の問いにも、彼は動じずに答えてくれる。

「私に会うために戻ってきたの?」
「ああ、そうだよ」
「私のことが好きだから?」
「ああ、そうだよ」

 ――夜毎金魚は泳ぐ。
 私の中で、悠々と。
 父の幻影が、炎が、喉の奥で揺れている。
 温んだ水は熱するのも早い。
(頭が真っ白になりそう)

「……また死んじゃうよ」
「ああ、そうだよ」

 ――それはひとつの奇妙な感覚。
 私の中に金魚が泳ぎ、その金魚の中にも“わたし”が浮かんでいる。“わたし”は幼い指と深爪した小さな爪を持っていて、外にいる“私”の鼓動を数えている。まるで羊を数えるように、深く目を閉じて。
(……いち、に、さん、し……)
(はやい、かぞえられない)
(ご、ろく、しち、はち……)
(はちは どう かくんだっけ)
(……まる。まるを たてに ふたつ)
 来週に控えた二十二の誕生日は、永遠に来ない気がする。
 小さな“わたし”と大きな“私”は、水に放られた氷のように、金魚の粘膜へじんわりと溶け出していきそうで――。

「私のことが憎い?」
「ああ、そうだよ」

 機械的な口調が私を肉体に留まらせる。
 ――彼はそれしか喋れなかった。



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