Id:234458 「白湯を飲む(あるいは、言葉が出てこないときと訳のわからないことしか言わないA氏)」(11/05)

 朝がくる。

 朝がきて変わることもあるし、変わらないこともある。
 少なくとも陽は昇る。気温も上がる。

「、」
 言葉が出てこないから、文が重ならない。
 言葉はいつから砂になったのか、触れられるのに指の間から零れていく。

「白湯を飲んで、目でも閉じてろ」
 と、A氏は言う。
「そうしたら砂は見えない。見えないもののところへ人は手を伸ばさない」
 意味があるのかないのか、判断がつかない。
「あるある。少なくともそこに転がってる独和辞典や仏和辞典よりはな」
 情けない気分になる。

 とにかく、言葉が出ない。

Id:224998 「ま わ る」(04/03)

 朝になって、夜になって、朝になって、夜になって。
 昨日という日が浮かび上がって、沈んで、今日という日が浮かび上がって、沈んで、明日という日が浮かび上がって。

 それが誰かにとって、嬉しいとか悲しいとか、穏やかかそうではないか、なんて関係ない。

 朝になって、夜になって、朝になって、夜になって。
 昨日という日が浮かび上がって、沈んで、今日という日が浮かび上がって、沈んで、明日という日が浮かび上がって。

 夕暮れの時刻と共に、いつものように夜の足音が聞こえてくる。
 その足音が、静かなものか五月蝿いものかは、どうでもいい。

 朝が来て、夜になった。

Id:229343 「目の前にあるのは、嘘の話」(04/23)

 たとえば、こんな情景。

 よく晴れた休日の午後、アパートの絨毯の上で女がうずくまっている。
 そのとき、女は十七歳で、風呂上りのまま濡れた髪を枕にしていた。湿った絨毯の感触を不快に思いながらも動くことはしない。
 窓からの日差しが彼女を照らしている。蛍光灯は点いていない。
 ……十七歳と三ヶ月。何でもない日曜日。
 外から子供の笑い声がする。
 透明な硝子テーブルに置かれているのは錆びた指輪と、グチャグチャに潰れた彼女の大嫌いなシナモンパイ。

Id:313131 「猫が可愛かったから(ルーズリーフに走り書きしたメモ)」(06/05)

 最初、彼女は自分の部屋で何が起きたのかわからなかった。
 床に散らばっているのは小説と、画集が一冊。辺りは薄青く染まっている。
 テーブルの端で、今に落ちるか落ちないかと揺れている筆が、彼女の外出前と後の出来事を繋いでいた。

 彼女は偶然観ていたテレビの影響で、水彩画を描くことにした。肝心のスケッチブックがないことに気付いたのは、 筆に空色を含ませてからだった。
 近所の文房具屋へ駆け出して……――。

 そうだわ、

 彼女の瞳は、ぐるりと部屋の中を動く。
 筆と、本と、今しがた不恰好な青い水玉を入れられたばかりのカーテン―― 出しっぱなしにしていた春物のコートにも絵の具が飛び散っているのを確認するのに20秒、 床に落ちているパレットを眺めて15秒、それからゆっくりと視線を移動させて――青色の足で顎を掻いている飼い猫と目が合った。
「あなたがやったの」
「にゃあ」
 猫は一声鳴いた。さも暢気そうに。
「もぉっ」
 彼女は愛情の混ざった目で猫を睨んだけれど効果はないので、諦めてコートの汚れを出来るだけふき取った。
 そして猫の前足を持ち上げると、真っ白なスケッチブックに軽く押し当てた。

 キョトンとした顔で飼い主を見上げる猫と、小さな猫の薄い手形が一つ。
 彼女は笑いをかみ殺した声で、

「もぉっ」

Id:003847 「朝」(02/01)

 電線の上で羽をばたつかせている鳩の群れが見える――灰色の窓。
 朝日に照らされているのは、壁にかけてあるカレンダーと本棚。
 このワンルームがここの持ち主にとって一番落ち着ける場所だった。

 今、彼はベッドに座って朝のニュース番組を眺めている。
「昨日に引き続き寒い日が続いていますが……」
 画面がコマーシャルに切り替わると、彼はホッとしたようにコーヒーを飲んだ。

 寂しかった夜が終わって、今この部屋に流れているのは穏やかな時間だ。

Id:000371 「春は北に流れて」(03/28)

 桜の花びらが、ひらひらと風に流されて宙を舞っている。
 コートが手放せなかった昨日に比べて、今日は連日の気温が嘘のように暖かい。
(こんな日に、ホットミルクティーなんて)
 プラスチックのカップから立ち上る柔らかな湯気に、軽く溜め息を ついて――。でもね、と裕子は娘の美帆に視線を落とした。来月七歳の誕生日を迎える美帆は、 冷たい飲み物を飲むとすぐお腹を壊す。それを考えると、裕子はつい温かい飲み物を魔法瓶に注いでしまうのだった。
「ミルクティー、熱い?」
「ううん、おいしい!」
 小さな両のてのひらでカップを支えて、美帆はミルクティーをごくごくと飲む。それから裕子が作ったツナのサンドイッチを一口、 二口……三口。ツナの付いた指先を舌で遠慮がちに舐めた。ほら行儀が悪いわよ、と裕子がハンカチを美帆に渡す。
 ――今日は良い天気だ。
 普段家に篭っていることが多くなりがちな裕子にとっては、久しぶりの“お出かけ”だった。買い物や幼稚園へのお迎えなどではなく、 ゆっくりと時間を過ごすための外出――ここ○×公園の桜を見ていると、テレビで観るのとは違って、 さわることの出来る春が目の前にあるようだった。

「こんにちは」
 まどろみ始めた二人の前に、初老の女性が微笑んで立っていた――すぐそこのパン屋の奥さんだ。こんにちは、と二人は挨拶をした。裕子は 寝顔を見られたために恥ずかしそうに。美帆は人見知りする性格故のはにかんだ笑顔で。
 パン屋の奥さんも二人と同じようにこの公園でご飯を食べていたらしい。「美帆ちゃんに」と言って、焼きたてのカントリーパンをくれた。
 春の風に乗って、パンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
 美帆はウサギのように鼻をひくつかせて、宝物を扱うような丁寧さでパンをちぎった。
「カリッとして、中はもっちり」
 裕子の言葉を真似して、美帆もパンを噛みながら言う。
「もちるー」
 ……笑ってはいけない、本人は真剣なのだから。

 ――あっ……。
 強めの風が吹いて、いくつかの桜の花びらが北へ向かって飛ばされていく。裕子は手を伸ばして、 一緒に宙に浮かんで行きそうだった娘の帽子を掴まえた。
 ビウ、と。
 再び風は北の方向へ吹いた。
 ――裕子は目を瞬いた。咲き誇っている桜の淡いピンク色と、水彩絵の具で描いたようなあっさりとした青空と、 花壇に見える緑が美しかった。若い頃は気にも留めなかった景色たちが、以前よりもずっと鮮やかな色彩を得て、ここに広がっている。
「見てごらん、桜はあっちへ向かって咲いていくの。今にずっとずっと向こうにも、桜が咲くのよ」
 裕子の明るい声につられ、美帆は意味を理解出来ないながらもそちらを見て――あっと眼を輝かせた。その視線の先には、 来月から美帆が通うことになっている小学校がある。小学生の“おねえさん”になれる日を、美帆は指折り数えて待っていた。

 さわることの出来る春が、目の前にある。



back