Id:289567 「ゼリーとシーツ」

 青い壁と青いベッド。
 皺一つ無いシーツの上には、青いゼリーが零れていた。ぐちゃぐちゃに崩れていて、ぬるく、指にまとわりつく。

 さっきまでここに誰かが居た気がするが、誰だっただろうか。

 ……ゼリーの甘ったるい匂いに酔って窓を開けたら、青空と目が合った。

Id:284359 「階段の途中で春がきたら」(03/24)

 香水の入ったミニボトルを逆さまにして、二滴ほど指の上へ。
 梳かした髪に指を絡ませて――柑橘類とも蜜ともとれる香りがし始めたところで、長い息を吐く。ためいきみたいに。

 オレンジ色の液体が揺れている。誕生日に母がくれた香水だった。
 アズーラのイメージは、幸福への回帰。最初は柑橘系、徐々に官能的な花の香りが強くなる。
「少女から大人になる香りなのよ」
 ――大分大人びてきたわね。母は目を細める。四月から高校生だものね。 男の子の成長ははやいっていうけど、女の子だって同じよ。

 この香りを纏うたび、想像する。
 階段の途中で上ることをやめて、座り込んでいる五・六歳の子供。寂しさから泣きはらした目。その少女は誰か。……幼い頃のわたしだ。
 大きく歪む階段。桃色と白の水玉のワンピースがはためく。現実を突きつけるように、か細い泣き声までがうねって……。

 もう十五歳なのね、と母は言う。
 まだ十五歳なのだと、わたしは思う。

(文中の香水はロリスアザロのアズーラ)

Id:329853 「雨」

 雨の音が好きだ。雨なら何でもいい。

 窓を叩く、叩きつける、その音。
 アスファルトに小さな池をつくる、水は水の中に呑まれる、その音。
 まるで鉛のような重さで傘からはみ出た肩に圧し掛かる、その音。

 雨だ、

 私は逸る心を抑えつつ、室内のテレビを消し、電気を消す。残るのは壁と窓と私と雨だけ――私と雨とを繋ぐ通路だ。 私は己の記憶の中へ、雨を導いた。
 耳はより多くの雨音を拾い、その都度心は濡れていく。気付いた時には溺れている。心がかわくのを待つ間は、指を折る。一時間二時間三時間……。

 雨があがる。

 よく晴れた日の午後。昼食後に軽い眠気を感じて目を閉じれば、春雨のように柔らかな雨音が、聞こえる。
 日差しを浴びた瞼の向こうに在る景色――まどろみの中で雨は私の傍に居る、居続ける――その音。
 私の中で雨は息付き、その身を光に浮かべるのだ。

Id:333333 「囁く壁」

 壁を眺めている。

 南校舎にある美術部の壁は灰色だ。元から灰色だったのかどうかはわからないが、十五年前より黒が濃くなっている。
 白が黒に変わろうとしている色、あるいは黒に侵された白。どっちつかずなところは、僕の生き方によく似ている。

 壁の向こうから聞こえてくる生徒の談笑。弾けるような笑い声は、己を知り尽くす前の、無知からくる自信を物語っていた。

 ――何に自信がないの?
  そう言ったのは、自らドアを開けて出て行き、後ろを振り返ることのない女だった。
 ――あなたは見ているだけの人ね。何があっても、ずぅっと見ているだけ。
 床に落ちたカップと、零れたダージリン、一際大きく響いたため息と、冷たい声。
 ――もう触らないで欲しいの。
 女の声を、今もよく憶えている。

 壁に触れてみた――目で見えない凹凸が幾つもある。それを一つ一つ撫でる。冷たい感触のそれが、あたかも宝石であるかのように。
 壁が囁く。
「もっとよ、もっと」
 何度も壁は言う。僕は軽く爪を立てた。
 ――それにしても、どこかで聞いたことのある声じゃないか。

 爪と壁の間から、乾いた悲鳴が零れる。一人の女の顔が脳裏から離れない。

Id:277543 「篝火」

 ――窓から零れる光は、篝灯籠のものよ。
 耳の奥からひたひたと響いてくる足音が、そっと、囁いている。
 ――この部屋から出てはいけないのよ。
 ……わかってるから、ママ。もう三回は聞いたんだよ。
「そう」
 足音が少し遠ざかって、思い出したように、音が振り向く。
 ――すぐに戻るからね。そこのスーパーで買い物をするだけだから…… お留守番が出来たら、ショートケーキを買ってあげる。
 ママは出て行った。ほら、聞こえる。バタンって――あれは玄関のドアが閉まる音。
 窓の外から声がする。
「何があっても部屋から出ては駄目よ」
 ……わかってる、ママ。あたしは大丈夫だから。
 ――椅子を窓の傍に移動させて、ママが歩くのを見ていた。背中が遠ざかる。どんどんどんどん離れて、椅子に座っている身体を伸ばしても、 見えなくなった。 でもね、すぐに戻って来るんだって。

 篝灯籠の光が、窓を通して部屋に零れてくる。
 夜を見るのはあの日から数えて、六回目。すぐっていつなのって、訊いておけば良かった。
 絨毯の隣で、影があたしを見ている。ママが出かけて二十分くらいしてから、突然現れた影。ゆらゆら揺れる様子が、煙に似ていた。
「ママが吸うタバコの煙みたいね」
 影はきゅるると揺れた。悲しそうだった。
「あなたも、寂しいの?」
 返答はなかった。

 耳の奥で、ゴウゴウと音がする。ゴウゴウ、と、パチパチ。炎みたいだ。
「どこかの家が、燃えているのかもしれない」
 音が大きくなる。重なった。絡まった。乱れた。
 窓にほっぺたをくっつける。冷たい感触と、夜の匂い。あたしの姿が、うっすらと映った窓。
「あなたも、こっちへ来たら?」
 影は静かに、首を横に振った。窓の傍へいくのは、無理なんだと言うように。
「そう……。仕方ないね……」
 あたしの声は驚く程、か細かった。
 ――手に痺れが走る。同時に手足が痙攣を起こした。身体が絨毯の上に投げ出されるまでに、大した時間はかからなかった。
 小さくなる影。最後の叫びのように、きゅるると揺れた。風が吹く。影の泣き声を乗せて。
「泣かないでよ。あなたのせいじゃないじゃない」
 声にならなかった。
 ――ゴウゴウって、音だけ、耳に。

Id:255564 「記憶に咲く」

 かすみそうを見るたびに妹のことを想起する。
 四歳になった妹が画用紙に灰色のクレヨンで描いたのが、かすみそうだった。小さくて白くて目立たない―― 花束を作るときに大抵主役の花を引き立てるために加える、あの花だ。
 妹が喜々として私と母に見せてくれたのは、かすみそうだけで出来た花束だった。
「もっと派手な花があるでしょう」
 出来上がった絵を見て声を落とした母に、妹は頬を膨らませて抗議した。
「ママは目立つ方ばっかり見るの」
 今思うと、妹らしい発言だった。この時点で、彼女の生き方というか信念のようなものの基盤は既に出来上がっていたのかもしれない。

 今年も室内にかすみそうを飾る。ワンルーム住まいの一人暮らしには、花ほど優しいものはない。中でもかすみそうがいい。 派手すぎる花は家族向きだ。今の私には静かな花の方が好ましい。
 もっとも、百合も一緒に飾るけど。妹が知ったら、かすみそうだけにしてと言うだろう。それだけじゃあ寂しすぎるのよね、と私が笑いながら返せば、 あの子は頬を膨らませて怒るに決まっている。
 今は花屋に来る客に対し、さぞ心中で「かすみそうに眼を留めるように」と祈っていることだろう。見て見て、と叫ぶ妹の姿が脳裏に浮かんだ。

 ――こみ上げてきた笑いに勝てなくて、一人で吹き出す。
 これじゃあ、当分はかすみそうだけを買う気にはなれない。他の花も一緒に買えば、笑みまでついてくるんだから。
 記憶の中の妹は、幼さを残した顔で文句を言いながらも、私のあとをついてくるようだ。


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